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乙巳の変・フィクサーは皇極女帝か? 舂米女王の大反駁・息長系譜は信用できない

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「『日本書紀』皇極紀[1][2]によると、推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子らと皇位を争うが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位(舒明天皇)する。

蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由については、山背大兄王がまだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説と、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある。

だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、王と蘇我氏の関係は決定的に悪化する。

皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。」

Wiki山背皇子ではこのような解説で、入鹿が上宮王家を滅ぼした理由を説明している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B

しかし、ここにはひとつエピソードが抜けている。
皇極は、それまでの女帝たちとは違い、やすやすと入鹿のあやつり人形になるような玉ではなかったのだ。ここが推古や持統と違う所で、入鹿の運の悪さである。
彼女は蘇我の「豊」の血筋を引いた傀儡天皇にはならなかった。


皇極女帝の公共事業で、山背の部民を大量に使った(「上宮の乳部の民を蝦夷・入鹿の墓の造営に駆り出した」『日本書紀』)、それに対して山背の妻である舂米(つきしね)女王が、手ひどく皇極をこきおろしたと。

「天に二つの日無く、国に二つの王無し」

彼女のあざなは「上宮大娘女王」。彼女にも上宮・太子の土地の所有権への誇りがあった。


それで皇極は上宮王家そのものへの憎しみが募ったという理解を遠山美都男らが最近言っている。そして、皇極は、蘇我蝦夷が直系の古人大兄を皇極のあとつぎに欲しており、皇極はそれを認める代わりに、ここぞと上宮を遠ざけるよう入鹿に指示した。若い入鹿はまんまとそれに乗って、一気に上宮を滅ぼしてしまった。これにはさすがの皇極もやや驚いただろう。しかししらっと古人を皇太子候補から廃して、弟軽皇子(次の天皇になった孝徳)に嗣ぐことを画策した。そのために蘇我を誅殺させようと中大兄と中臣鎌足を巻き込む。中臣は当時では宗家が物部守屋死後、あまりいい地位になかったので、喜んでこれに乗る。中大兄は若く、血気盛んでこれもやすやすと乗ってきた。

さて、以前も分析したが、乙巳の変で、一番得をしたのは天皇になれた孝徳である。彼は本来なら蘇我の血を受け継がない日陰の存在だ。しかし姉の皇極が舒明天皇の妃になったことで、権力が転がり込む。皇極は非常な公共事業好きな女帝で、蘇我を利してたぶれごころの溝、各種の飛鳥石造物、大古墳、河川改造などに着手した。それで軽を日嗣皇子へ押し上げることが可能だと気付く。入鹿さえ、意のままに動かせば、もう古人を考える必要もなくなろう・・・。軽はどうせしくじる。そのときはわが子中大兄よ、おまえが天皇じゃ・・・。

この裏には、蘇我倉山田石川の麻呂がいる。彼も本家の栄華をかんばしくは思っていない。これを利用しないてはない。

まんまと男たちは女帝の策謀のままに動き、入鹿は山背を死に追いやる。すると蘇我倉の麻呂はすぐに中大兄に、入鹿の大王王家のっとりの陰謀だとこれを訴える。三韓の進調などはうそごとで、入鹿をおびき寄せるための方便である。中大兄たちは入鹿を切る。入鹿は皇極の足元にまろび出て、「どういうことですか(約束が違うじゃないですか!)」と聞くが、女帝は「きゃっ。あれまあ、大変だわ」と市原悦子みたいに冷ややかに叫んで知らん顔で御簾の向こうへ消えるのである。

古人大兄は入鹿が誅されたのを見て、すぐにこれはいとこの麻呂と皇極女帝ののしくみごとだと気がついた。それで屋敷に逃げ帰ると「韓人が入鹿を殺した」とつぶやいた。「韓人」とは蘇我倉一族のあざなである。麻呂が半島諸国の手人など屋敷に囲い込んでいたから、そう呼ばれていたのだ。

これを伝え聞いて蘇我蝦夷は「おろかなわが子入鹿よ」と呻吟した(『日本書紀』)。
まんまと策謀に乗り、高貴なる山背を失うとは・・・という意味だろう。考えてみれば皇極の母は吉備の娘。倭五王時代には蘇我の大元・葛城氏とはライバルだった宰相の末裔だ。してやられた。

こうして弟の孝徳が即位できた。いきなり難波に遷都し、薄葬令を出して王家・豪族の墳墓のサイズを小さくさせた。王家の墓は小さな八角形になってしまった。これでは評判は落ちる・・・。


ひとつ奇妙なのは、乙巳の変に関わる氏族が、中大兄という、蘇我氏母方ではない第二皇太子になぜか素直に従うことか。中大兄の母方は息長氏。それもなぜか唐突な息長氏からの天皇嫁入り。皇極も同じく、蘇我氏の母ではない。ここだ。

どう考えても、この時代に、なぜ息長氏の姫なのか?である。

息長氏は、常に奇妙な出現をする。河内王朝に交代するときの母方である神功皇后の血脈で。次にその河内王朝が継体に引き継がれるときに息長・葛城・神功皇后のいわれが書きたてられる。

ところが、では息長氏という氏族に、まったく実態ある記事・事績がないのである。
この血脈を一番欲したのは継体大王の時代。つまり古来の筑紫君関門海峡通らないy琵琶湖を経由する自由な百済通交のときである。かつて倭王たちが吉備や諏訪を使ったように、瀬戸内の海賊たちに制約されぬ、ダイレクトな大和と半島の交流のためである。出雲は、このとき制圧されたと考えるのが一番理解しやすい。武寧とのやりとりである。


そういうところが、どうも天智・天武以後の母方息長血脈は、つなぎとして書かれた。実は蘇我氏の母からだったのではないか?が出てくる。

ということは、入鹿を殺したのも中大兄や鎌足ではなかったのではないかという考えもあってよい。




皇極女帝は実に女。
うらみや情熱に生きた人だったとなる。
斉明に重祚すると新羅征伐せんと自ら筑紫でばるような女傑であった。




船乗りせむと
いざ
漕ぎ出でな~~~!!!!



という人なのである。
ペルシア人のまだらに日焼けした肌に、凝視し、
きてれつなる水祭祀にうつつをぬかした。



こうして、時代は蘇我から天智のへ時代へと。それは言うならば、息長などではなく吉備王家の復活だったのである。






こうして考えたとき、はじめて、斉明崩御後に現れた入鹿らしき怨霊の意味が理解できるはずだ。




参考 遠山美都男 『敗者の古代史1 大化の改新と蘇我氏』








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