聖なる蘇我氏墳墓ラインと、
丸山古墳の被葬者を決定すれば。
謎が次々解けてゆく。
五条野丸山古墳(大軽丸山古墳/見瀬丸山古墳)は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にまたがる前方後円墳。奈良県最大規模。石室までの長さは日本最長(二位は福岡県の宮地嶽古墳【推定・宗像君徳善墓】)。
後円部墳頂は宮内庁により「畝傍陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇・第41代持統天皇)として陵墓参考地に治定されているが、天武・持統陵は考古学の調査で野口王古墳とほぼ決められることから、まだ被葬者は未定のまま。考古学者の故・森浩一は、自然崩壊で偶然にも発見されたこの石室内に入り調査。中には二基の石棺が存在した。
その後の土器調査で、西暦6世紀後半~7世紀初旬の様式であるTK43型式(田辺編年)の須恵器片が出ている。
また唐様式の鏡も出た。しかし中期古墳で特徴的な埴輪は皆無であることから、築造年代は古墳時代後期、おそらく飛鳥時代初め頃のもの。摂津の継体大王・今城塚古墳よりも数十年ほど新しいと考えられる。蓋に付く縄掛け突起の特長から、手前の石棺は刳抜式で6世紀の第3四半世紀に、奥の石棺は7世紀の第1四半世紀にそれぞれ造られたと推定された。花崗岩製の石室正面を巨石の重量は推定100トンを越え、石舞台古墳のそれの75トンをもしのぐ大きさと判明した。石室はその石積様式から6世紀末から7世紀初めに構築されたと考えられている。また近畿では導入直後の横穴式石室は、前方後円墳の近畿における新時代の様式で、やはり古墳後期初頭、飛鳥時代に入ってすぐの様式であることが見て取れる。
「全長は318メートル、前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートルにおよぶ。これは景行天皇陵を上回って奈良県下では最大、日本全国においても河内大塚山古墳に次いで 6位の規模であり、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。
また、横穴式石室の全長は28.4メートルで、全国第1位の規模である。羨道は一枚の長さ4.8メートルの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1メートル、幅1メートル以上、高さ1.5メートルほど。玄室の長さ8.3メートル、最大幅4.1メートル、高さ4.5メートルある。内部には刳抜式家形石棺が2基、L字型に直交するように置かれている。玄室内には約1メートルの土砂が堆積しており、石棺の身については詳細は不明だが、奥棺は蓋の長さが2.42メートル、幅1.44メートル、高さ0.42メートル。前棺は蓋の長さが2.75メートル、幅1.41メートル、高さ0.63メートル。材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石。」
「『日本書紀』には欽明天皇は御代32年(571年)に没した後、河内古市での殯(もがり)の後に檜隈坂合陵(ひのくまさかあいりょう)に葬じ、欽明陵には推古天皇28年(620年)に葺石、盛土の記録が見える。現在欽明陵に比定されている梅山古墳は、丸山が軽にあるのに対して、かつての桧隈の地にあり、大規模な葺石も発見されているが、丸山古墳はこの形跡が見られない。
一方で、『日本書紀』推古紀に「推古天皇20年(612年)2月20日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)に「しのびこと」たてまつる」と見える。この「軽の巷」は当時の下ツ道と阿倍山田道の交点で現在の丈六交差点にあたり、丸山古墳の北側に位置する。堅塩媛は欽明天皇后であり推古天皇の生母でもあることから、改葬の理由を夫婦合葬とすれば、やはり欽明陵であった可能性が出てくることになる。
この他、当時蘇我氏が付近を根拠地としていたことから、蘇我稲目の名も被葬者に挙げられている。」
以上「」内はWiki丸山古墳
以上「」内はWiki丸山古墳
さて、まず
1 丸山古墳の存在する場所は『日本書紀』の言う檜隈でも、坂合でもない。この場所はかつての軽に当たり、欽明天皇の陵墓記録と合致しない。
1 丸山古墳の存在する場所は『日本書紀』の言う檜隈でも、坂合でもない。この場所はかつての軽に当たり、欽明天皇の陵墓記録と合致しない。
2 『日本書紀』にある「推古天皇20年(612年)2月20日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)に誄たてまつる」という「軽の巷」とは、ちょうど丸山古墳の北側にあった現在の丈六交差点にあたり、蘇我堅塩媛(きたしひめ)を欽明の墓に改葬した記事とはほぼ合致する。
3 しかし欽明の檜隈大陵の記録では、全体が葺き石に包まれていたはずで、丸山古墳にはまったくそれが出ない。そしてその美しい葺き石は、丸山の真東にある檜隈にある梅山古墳から出ている。そのため考古学では梅山古墳こそが欽明・堅塩媛合葬陵であると考えらる傾向が強くなっている。梅山古墳は丸山古墳よりぐっとこじんまりした前方後円墳で、東西に並んだ蘇我氏系王墓の「聖なるライン」(西から、梅山古墳、カナヅカ培塚、鬼の雪隠・俎古墳、野口王墓、文武天皇中尾山古墳、高松塚古墳)上にある。それぞれ梅山=欽明と妻の堅塩媛、その培塚、索五子塚へ改葬前の皇極墓か、天武と堅塩媛の孫の持統、蘇我姪姫の子・元明女帝の子で持統の孫である文武天皇、蘇我倉石川麻呂あるいは石上麻呂と推定される。するとこのラインの真北に並ぶ推古・竹田の植山古墳があり、その西側に並んでいる五条野丸山古墳も蘇我氏血脈の、それも飛鳥開始時期の人物の墓だと考えることになるだろう。
サイズから考えれば、皇極のあとをついだ孝徳が出した薄葬令以前の前方後円墳で、今城塚から50年ほどあとの人と考えられる。するとその時代で飛鳥天皇家の皇祖という諡号を持つ欽明大王よりも少し前に死んだ、欽明以上の権力者だろうとなるのが自然である。そうすると考えられるのは継体大王の子供である、安閑・宣化大王か、あるいは宣化の大臣となって欽明を即位させた蘇我稲目となってくるしかない。
しかし、蘇我稲目がいかに天皇以上の権力者だったとしても前方後円墳はやはり大王家の墓。いかに高句麗王や新羅王が彼に妃を出したとは言っても、馬子時代ほどには、まだそのような巨大な墓が持てたとは考えにくい。さらに最近発掘された階段式の高句麗墓である都塚古墳が、稲目の墓ではないかと言う意見も出ており、決めがたくなってきた。筆者は何度も言うように、都塚は稲目の妻のひとりだった高句麗の姫の墓だと考えるわけだが。蘇我氏の、近つ飛鳥に多数存在する墳墓は、みな方墳で、それらは先祖のものかと思われるから、馬子の石舞台がやはり方墳であるとすると、蘇我氏はさすがに前方後円墳ではなく方墳が氏族の様式だったと考える。(ただし、近年では石舞台も馬子の墓だったかどうかに疑問を呈する学者もおり、微妙である。)
では、元に戻って、安閑・宣化大王ではどうだろう?
兄の宣化は「宣化天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵、むさのつきさかのえのみささぎ)に治定されている。皇后橘仲皇女との合葬陵で、公式形式は前方後円。遺跡名は「鳥屋ミサンザイ古墳」(前方後円墳、墳丘長138メートル)。」Wiki宣化天皇
弟の先に即位した安閑の場合「安閑天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。遺跡名は「高屋築山古墳」(前方後円墳、墳丘長122メートル)。」Wiki安閑天皇
と、それぞれ宮内庁が陵墓として指定してある。しかしこの二人は「百済本記」で、父・継体大王とともに死んだともなっていて、今城塚古墳からは三基の石棺が出ており、それかも知れず、また宮内庁の陵墓指定はかなりの割合で信頼性が低く、実際の陵墓は決まっているとは言えない。
五条野丸山の被葬者候補には、ほかに聖徳太子や敏達・舒明天皇もあてようと思えばできぬこともない状態。
では、どうするか?
ここで発想の転換が必要になる。
では、稲目の息子、蘇我馬子の墓は本当に方墳だったか?石舞台でいいのか?という基礎的な部分に別視点で光を当ててみると、石舞台古墳が方墳だったかどうかは実は確定していないのである。
薄葬令は入鹿死後の時代に天皇となった孝徳が出したものなので、馬子時代ならまだ巨大な墓を造れる。馬子なら、女帝の時代で、しかも推古女帝は親戚であり、彼女より大きな墓が造れたはず。しかも馬子は葛城の後継者を自認していて、前の王家を受け継いだという存在。
また、前にも書いたが、石舞台のある嶋の庄は、石舞台の別名である『日本書紀』にある「桃源墓」の桃源という地名が一度もなかった場所にある。これを単に、墓の周囲に桃の花を植えたとか考えるなら、地名がなくとも不思議はなくなるが、そういう記録はない。ただ、墓の造営の際に、隣接した土地に、造営にかり出された蘇我の石川の麻呂たちが彼ら蘇我の工人たちの集会所を建てた記事があって、発掘でそれであろう遺跡が出たことや、反対側隣接部から池が出ていることなどから、まあ、ここが馬子の墓で間違いあるまいとなっただけである。それにもし馬子が権勢を誇って大王のような巨大前方後円墳を造ったとすれば、石舞台のあの石室は前方後円墳のものだったとなってもおかしくない。いや、方墳では、あれほどの石室を必要としたかどうか、首をひねりたくなるのである。
であるならば、五条野もまた、稲目の墓だったと考えてもおかしくはなかろう。
遠山美都男も書いているが、稲目の「目」は彼が覡=男性シャーマンだったことを想像させる。尾張目子姫や辛島乙目、あるいは田眼王女(田村皇子の妻)、息長大目姫などなど、目は巫覡に多い名前である。目、耳、鼻など、記紀には多くのそれらしき酋長が出てくる。倭人伝では耳は副官である。すると目は、特にシャーマン的人物の名前だと認識があったのだろう。すると蘇我蝦夷が雨乞いしたというのも、蘇我氏にはそういう役目もあって、本来、天皇・女帝の巫覡としての役割を、蘇我氏がやってしまえたということになり、つまり蘇我氏の権勢がいかに大王家をしのぐものだったかも理解できることとなる。
というわけで、やはり五条野丸山古墳は蘇我稲目の墓だとしておくのがよさそうだ。筆者は、そうではあったが、乙巳の変以後、蘇我氏由来の墳墓は、みな飛鳥から改葬されるか、蝦夷や入鹿のように壊されたか、土をはがされたりして、遺体は飛鳥から遠ざけられ、そのあと五条野のような大王にこそふさわしい前方後円墳には、ちょうど堅塩媛の改葬の際に、梅山の欽明石棺も一緒に五条野へと移された可能性もあると感じている。丸山古墳の長大な玄道の奥にある石室には二基の石棺があるが、奥のほうが新しい様式の家型石棺で、それが堅塩媛のもので、手前が欽明のものだと考える。さすがに持統の先祖である堅塩媛の墓は壊すわけには行かず、皇祖欽明には梅山古墳は小さいと考えられ、のちに稲目の五条野に移されたとしてはどうかと思っている。
となると、そのあとそもそもの墓の住人だった蘇我稲目の遺体がどうなったかと想像すれば、高句麗から来た賓の眠る都塚へと放り込まれたのではないかと思う。そして馬子の石舞台にあったはずの二上山石の家型石棺と遺体は・・・?
そうさねえ、祟らぬように赤い石棺にでも入れ替えてどこかに眠っているのかねえ・・・。
蝦夷・入鹿もきっとどこかで阿蘇ピンク石の赤い呪力で封じ込められて、近つ飛鳥のどこかにあるんだろうねえ・・・。
入鹿を落としいれ、まんまと弟の軽を孝徳大王へ押し上げ、それをまた、難波宮に置き去りにして息子中大兄とともに飛鳥へ戻った皇極女帝。その後、なぜか重祚して斉明天皇となって、まだ中大兄には皇位を譲らず、新羅を撃つために筑紫へ赴いて朝倉仮宮でついに死んだ女帝・宝皇女・・・。彼女だけなのだ。『日本書紀』がその即位のときと死のあとに、いずれも青き蓑笠の鬼を登場させた天皇は。蘇我の祟り・・・それが彼女に降りかからないはずはないと『日本書紀』の編者たちは考えたのである。その怨霊には、蘇我本家だけではない、蘇我倉の山田の石川家の分も合体しておかしくない。蘇我・蘇我倉、葛城、紀・・・つまりはかつての武内宿祢系・葛城の王たちのすべての祟りは、ここぞとばかりにこの吉備系女王の遺骸にむさぼりついたことだろう。それこそが飛鳥と倭の五王の時代を完全に入れ替わった王家と氏族たちに認識させる象徴的書き込みだったのではあるまいか。そのとおり、五王~継体~聖徳太子までの時代の皇族・大臣氏族のすべてがあるは消され、あるは宮中での扱いを下げられ、あるは土佐やあちらやへと左遷されたりしていったのである。大伴、紀氏、葛城氏、蘇我氏、境合部氏、上宮王家・・・そして聖徳太子さえも、あとの王家の捨石となり、礎となり、祟る怨霊ともなって、歴史の中央から消えていく。
それが敗者の古代史なのだろう。
吉備の姫・皇極。
吉備・・・彼女にも実はかつての王家としての血脈が流れている。
あの3世紀、直弧文を生み出した死生観。その怨念の、縄文から続いてきた弧帯文・弧文の渦巻きの現す永遠へのあこがれを、もし卑弥呼が引き継ぐ巫女シャーマンのものだったとしたなら、皇極女帝にもそれは受け継がれていったのかも知れない。彼女もまた、赤い石と直弧文に封じ込められるべき滅びた吉備王家の巫女だったのである。なぜなら彼女が祈れば、土砂降りの雨を降らせることができたからが。そこにこそ、蘇我蝦夷が祈ってもできなかった、呪術力の強力さを『日本書紀』は端的に匂わせているのではないだろうか?
そして、その息子天智の血が、最後は天皇家へと引き継がれてゆく・・・。
いつかまたこの国は、その根深い怨念を蘇らせ、世界をいくさへと駆り立ててゆくのだろうか?いや、すでにその願いはもう、長州の末裔によってアメリカと言う武器を利用して開始されているのかも知れない。
ああ、総毛立つほどの未来。アンゴルモアの大王。恐怖の大王。蘇る卑弥呼の、血を好む血統。猛悪なる羅睺の血か?
参(しん)は猛悪にして血を好み、羅喉(らごう) は災害を招(よ)ぶ 宿曜経
参(しん)は猛悪にして血を好み、羅喉(らごう) は災害を招(よ)ぶ 宿曜経
参とはオリオン座の三つ星のひとつ。戦いの赤い星。血の色。オリオンは戦士である。いくさの象徴。そしてそれは欲望のシンボル。中国では蚩尤、盤古・饕餮、インドではシバ・マハーカーラ。旧約聖書のメヒモス。そしてわが子も食らうサトゥリヌス。秦氏では後戸の神。転輪聖王。
西遊記なら斉天大聖孫悟空つまり弼馬温(ひつまおん)。馬の世話をする者・・・・・司馬・・・・・
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ようやく見えた、飛鳥蘇我にまつわる名前の謎。馬である。
馬・・・蘇我馬子、厩戸皇子、厩坂宮、司馬達等、鞍作大臣、鞍作止利・・・
そして弥勒菩薩だけがそれを救う。
スサノヲの馬の皮。放り投げられ機織女はほとを突いて死ぬ。
アマテラス・・・弥勒・・・・
スサノヲ・・・・馬子・・・聖徳太子・・・・
アマテラス・・・弥勒・・・・
スサノヲ・・・・馬子・・・聖徳太子・・・・
そうだ、『日本書紀』はそれを言いたかったのだ。
あなや!!おそろしき!