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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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湯気と冷気そして風が起こるのは

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熱いものから立ち上るもやを湯気(ゆげ)と言う。
テレビをながめていたら、寒いのに火野正平がコーラフロートを飲んでいる。それを見てNHKスタッフが「湯気というのか」などと申しておる。
冷たいものから出てくるもやは、じゃあ、なんと言えばいいのか?これがなかなか難しい。定着していない。しかし、明らかに見るからに冷たいものから「湯気」とはどうにも奇妙である。

これは「冷気(れいき)」と言う。
しかし、この言葉、あまり生活観がなく、どちらかと言えば科学の専門用語や気象の擁護でしか認識されていない気がする。しかし冷たいものから出てくるのなら、それは冷気と言うしか表現方法が無いのも確か。

湯気も冷気も水蒸気だ。
湯気は細かい水滴が霧状になり、冷気は細かい氷の粒が霧状になったもの。
ただそれだけの違い。

地球上では湯気はたいていの場合、比重が空気よりも軽いので上に上る。冷気は粒なので非常が重くて下へ降りることが多い。


この空気の重さの違いが、大きくは地球上に風を起こす要因である。
空気は暖かいほうから冷たいほうへ動く。比重が重い冷たい空気は、暖かいほうへ動こうとする。これが地球の自転で引力で引かれながら動く。すると偏西風になる。地球が回る方向へついてくる。だから偏西風は西から東へ反時計周りにくっついてくる。


イメージ 1


専門的にそれでいいかどうかは知らない。おおまかにはそういうことだ。

それとは別に、動いてきた空気が、海に出ると、冷やされたり、温められたりをして、下降気流と上昇気流を起こす。
それが真夏には特に温められて軽くなり、急激に上昇する。すると成層圏の外には出られずに冷やされて氷になって落ちてくる。しかし途中で温まって水になり、大雨を降らせる。冬なら逆に、そのまま落ちてきて雪やヒョウになる。

台風はそうした原理が、異常に暖かいフィリピン東部の太平洋上で起こり、熱帯性低気圧となって、そこで成長し、あるいはいくつかが集散して台風になる。こやつは自分では動く機能が無く、いつまでもそこで大きくなろうとして渦を巻く。しかし風はほっておかない。台風は季節風や偏西風に乗り、動き始める。このとき、行く手に高気圧があると、そのへりを回って東西へ回り込む。だからコースがなかなか決めにくい。

高気圧のほうでも、大陸性の移動性高気圧と、太平洋上の太平洋高気圧があって、それぞれが前者は西の大陸から偏西風次第で移動するし、後者は勢力次第で西へ行ったり東へ逃げたりを繰り返す。台風は両者の間隙を抜けようとするから秋の台風は、足が速くて北上する大風になる。一方真夏の台風は、海水が熱いために成長が早く、大きくなって動きが鈍くなる。

ま、そんな感じでしょうか?理系のみなさま。



ぼくは毎日天気図と全球衛星画像を見るのが好きだ。
台風23号の発生と移動方向は3日前には予想できた。今はまたボルネオ北部やフィリピン東部で雲が集まり始めているが、この秋の気象状況では、偏西風が強く、高気圧が強いから、台風になっても北上が難しい。ただ、西高東低の気象配置だと、西日本は安定した上天気が続いて小春日和になるが、東・北日本の特に日本海側は、シベリアの寒風が作り出す低気圧のために寒波や大雪になる。これは毎年のことで、いかんともしがたい。

九州では台風22号以来、ここ十日間ばかり毎日ピーカンの「小夏日和」である。小春を通り越してここ数年は暑いほどの20度越えの日々で、カーテンを閉めねば汗が出る。ちょっと動けば服を脱ぐ日々。掃除機などなけようものなら下着姿にならねば大汗をかくほどだ。

11月は戌亥の風が吹くのがそろそろか。そうするとようやく冬めいてくる。シャツは長袖に、ズボン下を引っ張り出すようになり、こたつが出てきて、模様替えとなる。それまでは、まあ毎日青空で洗濯日和。しかし残念なことに偏西風が吹く位置が下がるので、中国からpm2.5とか黄沙が乗ってくるから、布団干し、洗濯にはよく情報を見なければならない。真夏はそういうものが日本にはほとんどこない。ところが雨や台風が多いと、まあ、季節に翻弄されて日本人は生きている。


日本列島のような災害銀座は、まあ、ほかにはない。
おまけに火山帯とプレートが猥雑に集まって、地面が揺れる、津波は来る。突風や空っ風、砂の混じった風、悪い空気が襲い掛かる。火山灰が土をだめにし、喉に異変を引き起こす。よくもまあこんな災害列島を選んで先祖はやってきたと思う。

ところがこれも世界に例を見ない森林と水が湧き出る美しい景観を持つ島である。大陸で建築に木を切り出すと、すぐに資源が枯渇し帝国は次々に滅びて行ったが、日本では森と水は切ってもまた生え、しかも几帳面な人々はつぎつぎに切った土地に苗を植えてきたから、自然は征服するものではなく、同居してあいみたがいの多神教を産んできた。

とまあ、そんなことを関祐二も書いているようだ。
同じことを考え、同じ結論に行き着くものがいるもんだと、いつもあきれている。




















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