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風の古代史・中世史 その3 村上水軍『船行要術』の気象認識

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『一品流三島村村上流船行要術』村上山城守雅房 康正二年(1456)
むらかみ・やましろのかみ・まさふさ いっぽんりゅう・みしまむら・むらかみりゅう・せんこうようじゅつ


この書は日本における気象学最初の著書。
成立時代は足利義政(室町幕府八代将軍)の頃。後花園天皇の年間。
村上家は村上源氏で、南北朝の忠臣だった村上義弘を祖とする瀬戸内大三島周辺の水軍集団。北畠親房の血統である。「一品流」とは北畠親房の一品をいただいてつけたと言われているが真偽は定かではない。

三島は今のしまなみ海道にある大三島(来島・能島・因島の三島)の呼称。大山積を祭る水軍の守護神のいる島で、静岡県の三島大社はこの大三島神社から頼朝が勘定分祀したもの。村上一族のはじまりは、南朝の懐永親王を奉じて因島にやってきたところから始まったとされる。日本海軍の先駆者。局地気象学の先達。ある意味で海賊とも。瀬戸内海の航海権を主張し、通交する船舶から私に税を徴収した。海軍組織・造船技術・遠洋航海術・海戦技術・気象学・天文・統計気象経験などに第一人者として長じていた。

宗派は多くが真言宗であるが、道教や陰陽五行に非常に通じ、この書物も多くをそれに頼る部分が多いが、一部に、やはり経験者ならではの独自の科学的見地が散見できる。この項では、その村上水軍独自の気象認識が顕著な部分を記述する。


起源
「これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代に活躍した村上為国の弟・村上定国保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160)に越智大島[4]に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。

越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。

また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男源頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。」
Wiki村上水軍より抜粋



●「要術」概要
巻第一  船玉礼之事、大将軍船造立船玉祭之事、神武天皇・神功皇后船軍の謂れ、仏教との関連についてなど

巻第二  船式箇条 船乗り心得十二箇条(一に天利を頼め、二に順風に乗れ、五に風土に応じた造船をせよ、九に天文の理に精通せよなどがある。天文=気象)

巻第三  紀運の図、天気の部(60年一周する紀運の図式、五行勝復など陰陽五行説の紹介に終始。ただし天気の部には経験から帰納する科学的記述が混じる。詳細を抜粋し後述)  

巻第四  潮汐(ちょうせき)のこと。船乗様の事。(航海の時期、時間、湊から出るとき、雲や雨や風の推移、湊付近の地形との関係を詳細に観察せよ)

巻第五  灘渡戒法(季節ごとの風と雲の条件の差、持続性の差など。高麗灘の事、春夏、壱岐対馬が霞んでいるときは山が見えずとも渡ってよい、秋冬に見えぬときは渡ってはならないなど、細かいケースバイケースの経験則記述)

巻第六  四国中国内海戒法之事

巻第七  南北海路乗様之事





●巻第三、天気の部詳細

第一 四季の風をよく知ること。船乗りはそれが肝要である。客風と名づけるなり。四季の主風(順風か?)というものは春東風、秋西風、冬北風は時の旺たる方より吹き来る風である。対して客風(季節風であろう)というは、春南風、夏西風、秋北風である。また尅風(こくふう、アゲインストか?)というのは春西風金剋木、夏北風水剋火
、秋南風火剋金、冬坤風(こんぷう=南西風)である。天気伝に曰く、主風は旺風(強風)なり。春に東風(こち)の吹くときは天地が陽を伸ばす。ゆえに陽気和して雨になると知れ。夏に南風(はえ)の吹くときは陽気強くして急雨(豪雨)になる。秋の西風は陰気和して必ず雨。もし強ければ大風(台風)吹く。陰気は強くして風を生ず。冬の北風吹くときは雪である。このように天より四季に行化する風がこれらである。口伝は奥深い。天気伝に曰く、客風吹くときは天気逆になるゆえ、三日のうちに風雨雷電となる。主風吹く年は順年であり風儀よく、万物が栄える。客風・尅風の年は太風旱魃の災いある。口伝は多い。(今で言うラ・ニーニャ・エル・ニーニョらしき記述である)


第二 時節の風を以って雨を察すること。春秋のかぜは東風は雨の風である。夏至より八月(陰暦)に至っては雨にあらず。もし雨になればそれは大風になると思うべし。夏北風は強ければ南風となって三日のうちに雨になると思え。強くなければそれは夏風だ。雨にはならない。南風は銀行(ゆうごち=夕東風)である。春三月北風は大略寒気大小によって雪や霰(あられ)たるべし。雨にはならない。乾風(あなし=北西風・戌亥風)もそれに同じ。四時の風、主客剋の三つについてよく天気を観察すること。口伝が多い。

第三 所の風を知ることが肝要。その国、その場所の陰陽向背を以って知ることだ。
第四 国里の長短によって風を知り、ならびに昼夜の風を察することがある。わたしの経験では攝津あたりは南北に海が長く、ゆえに昼は陽の精気が強く南風が吹き安い。夜は陰気が強く北風が吹きやすい。備後の牛窓(児島湾)から安芸のカマカリ瀬戸まで艮坤(北東から西南方向)に長く、夜は艮の風が吹きやすい。昼は西南西の風が吹く。防州(山口県)の関(=下関)から長門関は東西に長く春夏は東風吹きやすい。秋冬は西風が吹く。

第五  その国、その場所の出崎、入海、大河の地には嵐が出やすい。よくよく知っておくべきである。どの国にもそれぞれ心得が違う。わたしが思うに、備前のカタカミから北の嵐が出る。備後の福山からも北の嵐が出やすく、安芸の広島から北川嵐が出る。そのような船の向き背の位置(むき)を察すること。

第六 吹越の風はその山の向背によるからよくよく知っておくべし。わたしの経験では厳島では東風は南から吹き、周防の関では東風は北から吹く。

第七 風は雲によって決まる。ただし二重雲は、下雲はその日の風である。或いは下雲東にあって上雲西よりであれば、ところによってこれより西は西風が吹くと知り、または番の風と知り、または西風が日を越えて吹くと知るべし。見様口伝多し。

第八 時雨の方から早手の風がやってくる。国の雲気を兼ねて見るに口伝が多い。

第九 変風を兼ねて見るべき事、天気の第一たるべし。たとえば東風が荒く吹けば必ず西風から変わるものだ。もし強くなければ五七日または時夏至から立秋の頃、番の風は順にめぐるものである。また大風の返しも廻る。そのほかの風は順に廻る。但し番の風はときおり逆になって元の場所に戻ってくる。気をつけろ。

第十 黒白の雲が出て切れ切れに山手を伝い、鳥畜飛禽の形になるときは風と知るべし。異説も多いが。

第十一 朝、空をうかがって晴天で四方に浮雲も無いなら雨は三日以上ない。異例もある。

第十二 島の気の清濁、海上の色をもって雨を知る習慣もある。口伝あり。

第十三 朝、浮雲を伺うと炭色で木のモクハダ(木肌?)のようなら大風。

第十四 里の気、家の煙にて雨を察すること。

第十五 天の色、星の光を見て雨風知るべし。

第十六 春夏は霞が晴れた方向から風が吹いてくる。秋冬は雲の群れ集まる所から風が吹き出す。

第十七 春夏北風が朝から吹き出し、やがて落ちて南風に変わる。秋冬は落ちがたい。天気は荒れやすい。

第十八 天曇り、雨降るべくして降らない場合は、夏は雷か大風。秋冬なら寒気を生じ、風は烈風。

第十九 峯にかかる雲をみて知り、月にかかる雲でも天気を知る。これは天の心とわが心とをあいまみえさせる技術で、風雨をよく知るものだ。

第二十 夜風は天の晴れで生まれ、昼の風は雲に付着する。

第二十一 春夏一日じゅう嵐が定まらないなら必ず雨は近い。秋冬に天気がよくかわるなら寒風で大荒れになる。

第二十二 ・・・・後略




よくわかったような記述もあれば、よくわからない表現もある。全部で30則ある。1、26、27、30は陰陽説であるが、2~9は村上水軍による経験則である。25,26,27では陰陽説と経験則が入れ混じりるが、全体としては科学的である。天気予報の古典と言えようか。


これが書かれた15世紀は、温暖期から近世小氷期への移行期である。大変変動が多かった。そうした中で応仁の乱が発生したりする。人間の激動期はたいがい天候も激動期になっている。冬は厳しく、夏は乾燥、雷が多かった時期であった。人々は天候の異常に注目するようになったのである。


こうした船舶航行に関したものではあっても、それまでわが国に、天象・気象を論じた書物、記録はなかった。為政者側になく、それは地方の水軍がはじめて作った。その意義は大きい。必要が生んだ気象ノウハウ本である。



しかし彼ら水軍は、常に時の権力者たちの海上移動のさいには、ナビゲーターとなった。特に瀬戸の多い瀬戸内海の航行は、古代から困難で、そこに水先案内としての海人族が必然的にいるようになる。彼らは時に、海外へも人やものを運ぶことがある。半島や、中国へも行くこともあっただろう。もちろん、唐津には松浦海賊もいたし、五島の隼人、和歌山の九鬼水軍などなど、島国であるゆえに海岸線には多くの有名無名の海人族がいた。彼らはそれぞれの持ち場を、次の持ち場の水軍へとつなぎながら、日本と海外をつなぐ役目を担った。そして中世から戦国時代にはいくさの道具にもされた。そうした中で、源平以前には藤原純友の乱も起きた。宇和島にその末裔がいる。水軍は武家の海上戦争に利用された。そうした事情から、弁慶など多くの軍記のヒーローが作られた。ただの海賊だったわけではない。
































に北風が
























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