筑紫国造家
つくしの・くにの・みやつこ
「筑紫国造とは筑紫国(現・福岡県西部)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、阿部臣(あべのおみ)と同祖の大彦命(おおひこのみこと、大毘古命)の5世孫にあたる田道命(たみちのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。日本書紀の継体紀には筑紫国造磐井(いわい)の名が見え、筑紫国造磐井の乱として歴史的にも有名であるが、筑後国風土記の逸文、「古事記」に見られるとおり、実際は筑紫君磐井(つくしのきみいわい)であり、こちらが通説となっているようだ。筑紫国造の成立は6世紀後半頃とみられるが、いずれにしても磐井は5世紀後半頃には既に肥前・肥後・豊前・豊後に跨る巨大勢力圏を有していたとみられている。
つくしの・くにの・みやつこ
「筑紫国造とは筑紫国(現・福岡県西部)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、阿部臣(あべのおみ)と同祖の大彦命(おおひこのみこと、大毘古命)の5世孫にあたる田道命(たみちのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。日本書紀の継体紀には筑紫国造磐井(いわい)の名が見え、筑紫国造磐井の乱として歴史的にも有名であるが、筑後国風土記の逸文、「古事記」に見られるとおり、実際は筑紫君磐井(つくしのきみいわい)であり、こちらが通説となっているようだ。筑紫国造の成立は6世紀後半頃とみられるが、いずれにしても磐井は5世紀後半頃には既に肥前・肥後・豊前・豊後に跨る巨大勢力圏を有していたとみられている。
磐井の乱は527年(継体天皇の21年)、磐井が新羅と手を結び朝廷軍に反乱を起こしたもので、朝鮮半島情勢・大和朝廷(日本)勢力において歴史的に一大転期となった事件である。
九州一の規模を誇る福岡県八女市の岩戸山古墳の被葬者は筑紫君磐井とされており、また近年、同市豊福の鶴見山古墳が磐井の息子・葛子(くずこ)の墓である可能性が高いとの見方が有力になっている。」
http://www.nihonjiten.com/data/263374.html
疑義ポイント
●大彦の子孫
「おおひこ」という名は、あまりに漠然としいて、これではただの長男だった人としかわからない。その四道将軍だったという大彦命と、埼玉稲荷山古墳出土鉄剣にあるオオヒコが同一人物かどうか、このままではまったく決められないことは明らか。
●国造制度は6世紀後半に開始
●『日本書紀』の言う筑紫国造は実際にはまだ「筑紫君」。君は在地豪族であるから、そうなると筑紫君磐井が先の国造だったという筑紫国造家とは血族ではない在地氏族だった可能性も考えねばならない。
●磐井の墓は岩戸山古墳だと言われてきたが、国造ではない筑紫君が前方後円墳を造れたのは違和感がある。もし、磐井がすでに国造的な役割を持たされていたのであるなら、前方後円墳は釈然とする。しかし、乱の敗者となった磐井が、それでも前方後円墳に葬られるべき存在だったのかに疑問がある。
では、岩戸山古墳は誰の墓であったと筆者は言いたいのか?
岩戸山古墳には、為政者が猪を盗んだ盗人を断罪しているシーンを切り取った石像が置かれていたという。するとこの墓の被葬者の、それが生前の職務であったことになる。九州の論者たちは、それが磐井がやっていたことだから、筑紫君磐井はやはりすでに倭五王とは独立した筑紫の王でありそういう法務さえ独自にやっていたのだと、九州王朝論を展開する。
しかし、ここにも疑問がある。前方後円墳を造れた地元豪族であった磐井には裁判官の権利があって、するとこの時代ならば「刑部 おさかべ・おしかべ」の別称があるはずだ。しかしどの記録にも彼が刑部であったとは書かれていない。刑部とはのちの「ぎょうぶ」であり、裁判官のような役職である。明治政府にはまだ刑部省が存続していた。だがこの役職そのものが生まれたのは律令体制の下でであるはずだ。律令制度が確立したのは記紀成立直前の天武時代・・・早くともその少し前の孝徳時代としか考えられない。だからそれより数十年前の継体大王時代の磐井に刑部はつくはずはない、という論は正論にも見える。
ところが同時代に刑部を名に持つ人物が肥後にはいる。火葦北国造刑部靫部阿利斯登である。彼は吉備王の弟の血を引く人物で、五王時代に肥後葦北~八代地方の刑部として中央から送り込まれてきた。理由は南部に蕃居していたという熊襲の監視のためだと考えられている。その証拠が宇土にある古墳群と、球磨川流域、人吉市に多数残る横穴墓壁面の靫負のレリーフであるとされる。ここは熊襲居住地の真っ只中である。その靫負(ゆげい)集団もまた中央の役職のひとつで、主に弓矢によって王の宮などの門を守護する部のものども(伴部)で、それを一括管理していたのは大伴氏であったと記紀などは語っている。大伴氏は吉備に王家があった時代(3~4世紀)から靫負管理する大連となっている。ということは葦北国造アリシトは大伴氏の臣下だったことになる。『日本書紀』はアリシトの子で百済高官だった日羅(にちら)が大伴連金村を「わが君」と呼んでいたと書いている。これは父の役職に矛盾しない記述となる。
その靫部(ゆきべ)である葦北国造は同時に刑部でもあって、警察警備と裁判官・・・要するに5~6世紀に『日本書紀』があったとしている国造とは、立法と司法の二大権利を持たされた絶対的地方行政官であったことになるのである。いわば奉行、代官あるいはこれに行政機能があれば知事である。もちろんこれは『日本書紀』の、律令制的管理職の前倒しであろう。国造が設置されたのは、葦北国造や筑紫国造記事よりも50年弱下がった時代だ。
そうした人物らしき墓が熊本県の和(なごみ)町に存在する。江田船山古墳である。この前方後円墳からも稲荷山同様に鉄剣が出ている。そこにはこの人物が6世紀後半の大王だったワカタケルの「典曹人」だったとあった。稲荷山の被葬者は「杖刀人」だったとあって、軍事的武官集団だったのに対して、江田船山の被葬者は典曹・・・曹は現在でも法曹界として使われる法律家のこと、典は「つかさどる」だから彼は文官だったわけだ。それこそがつまり江田船山被葬者が葦北国造と同じ刑部だったことになるのである。
ほとんど同時代に、熊本には北部・南部に五王が派遣した二人の刑部がいたことがこれでわかる。
刑部は言い換えると「解部 ときべ」に類似する職務である。これは奈良時代、刑部省内にあった司法部署である。岩戸山古墳に置かれた司法する姿はまさに解部の姿なのである。ということは岩戸山は君であった磐井の役職ではない。それはもっと前の国造の仕事である。ゆえに岩戸山古墳は筑紫君磐井らの墓ではなく、その前の国造家の墓であると考えるほうが合理的ではないか?
このように6世紀にはすでに肥後熊本には中央からの監視者が入っていた。では福岡県筑紫国はどうだっただろうか?3世紀、伊都国にはもう卑弥呼が置いた監視施設である一大率があったと魏志は語る。これは中国が書いたことだから記紀のような潤色記事ではない。一級資料である。で、筑紫国造家を調べると、中央ではそれが大彦の子孫であるとなっている。ところが同時に筑紫君は多氏子孫ともなっているのである。するとこの二つの筑紫氏族は別の者となってくるわけである。
磐井の前にあった筑紫国造とは、吉備氏族であったと筆者は考える。磐井の筑紫君は在地勢力である。しかし筆者は多氏出自を吉備あるいは出雲に求める。ただ、多氏の子孫は九州では火君家や豊君家たちの祖でもあり、阿蘇君家の祖でもあるとされている。どちらも君であるので在地豪族であろう。ということは葦北国造のような派遣された国造家ではないことになる。阿蘇には阿蘇神社と阿蘇国造神社の二つが存在する。国造の宮が阿蘇には残存したまま残ったのである。そしてこの両家はまったく同じ祭りを執り行ったが、両者にはほとんどつながりがなく並立しているのだ。これこそが謎を解く鍵である。
多氏系図は筑紫の君たちに、国造家を上書きするように乗っけられたと考えられる。多氏祖神である神八井耳命は神武天皇の大和における正妻の子である。しかし兄弟には在地南九州の姫の息子手研耳(たぎしみみ)命という長子が先にあった。ところが神武が東征すると大和で比売を娶って二人の弟が生まれ、弟たちは兄を殺し、一番下の弟が天皇を継いでしまう。南九州阿多の姫の血統は消されてしまうのだ。しかも南九州にはもうひとりの兄・日子八井耳という草部(くさかべ)吉見系阿蘇の一族もいたとされる。なんというややこしい話になっているのか?
多氏血脈も大彦の血脈も、もともと吉備王、そして五王のものだったのではなかろうか?地方から国造がいなくなるとき・・・つまり倭五王家が継体大王に入れ替わるときに、その血脈を、一時的管理外になっていた在地筑紫の君たちが密かに受け継いでしまえたとは考えられまいか?
実は、阿蘇氏が地方へ派遣されるのはずっとあとの持統天皇時代である。このとき気象の悪化があって、持統は祭祀者を諏訪と阿蘇に派遣した。それが阿蘇で阿蘇氏に、諏訪で諏訪氏と名乗る。そして在地にあった国造家や君たちの大彦や多氏の系図に割り込んだと考えられる。同時に南九州にいた草部吉見系日子八井耳子孫たちも取り込んで青井阿蘇氏が生まれたのだろう。
かなりややこしいが、政治為政者の交代が、そのまま地方の系図さえ変えさせていったとなる。
そうした祭祀者・管理者の変化が起きたということは、つまり中央で大きな王権のチェンジがあったということではないか?倭五王から継体へ、継体から欽明の飛鳥王家へ、蘇我から藤原へ、そして天武・持統王権から天智子孫へと、この時代は激動したのだ。
その交代劇の中で、筑紫君には独自で半島と結ぶ時間ができたと思える。継体はそれを好ましく思わず、筑紫へ攻め込んだのである。そのとき近江毛という、もともと北関東に本拠のある豪族を送り込む。継体は筑紫と同時に上毛野(群馬)の勝手な行動もつぶす意思があり、目には目を当てて、両方の衰退を画策したのではなかったか。しかし上毛野は磐井とは往古からつながっていた氏族。このわずかなすきまの時間に、磐井は九州王家の復興を画策し、近畿王家を挟撃する位置にあった北関東氏族を仲間にしていた。なぜ仲間だったか?稲荷山と江田船山から同様の銘文入り鉄剣が出ているではないか。そして稲荷山鉄剣には大彦の名がある。
杖刀人首・・・じょうとうにんおびと・・・と読む。
おびととは大人(おおひと)がつづまった読み方で、首の文字が首長を意味する。「おおひと」はその下に「人」という下人集団を持つ。静岡県の伊豆に「大仁」町がある。九州の横穴古墳に「大人」的な両手を広げて魔物をさえぎいる人物像がつけられる。また埴輪の代わりの魔避けである「石人」も同じ意味を持っている。だから「おびと」は人集団管理者で、祭祀者。ゆえに死者の肉体を食べにくる魔物をさえぎる「さえぎの神」でもあった。これがのちに「さえのかみ」になっていったのだろう。つまり猿田彦は地方の「おびと」なのだ。これが妖怪になると「だいだらぼっち」になってゆく。中世には英雄的霊的人物を「ダイタ」と呼んだ。大太である。多くが蛇の姿。あるいは逆に蛇やむかでを退治する。例えば俵トウタのあだ名はダイタ。藤原秀郷。緒方三郎も仇名はダイタだった。蛇のうろこを持った男である。諏訪には竜の小太郎(小泉小太郎神話)、諏訪より方神話もあり、阿蘇と筑紫を蛇でつなぐ。
多氏の神八井耳の子孫は神武神話で、在地南九州の直系だった兄を殺す。ということは筑紫の君たちが多氏末裔だというなら、そんなはずはないのだ。在地豪族が中央王統の子孫を名乗るはずがなかろう。簒奪したのである。
その神武は応神によく似ている。遠征して近畿へきて王家をともに建てた。そして応神は大分の宇佐に八幡神となって祭られたが、神武を祭る神社など九州には、明治時代をのぞけば聞いたことがない。つまり神武とは=応神でいいのだろう。そして応神は新羅=朝鮮半島からやってくるのだ。倭五王とは朝鮮の一族だった。それまで日本には王家などないのだ。三輪王朝も神武の王朝もありゃしないのである。その朝鮮かどこか知らない渡来王家を、継体は乗っ取る。彼は限りなく百済的人物である。それが福井の北部の母から生まれた。福井は百済・新羅から王子がやってきた土地だ。それが新羅にえにしがあった磐井を殺した。東西でふたつの王家はこうして滅んだ。いや北関東王家も滅んだ。残ったのは葛城・蘇我という日本海王家、そして丹波王家だけ。そしてそれもまた飛鳥王家に乗っ取られてやっと大和王朝は萌芽する。天皇家の始まりはやっとここから始まると言っていいのではないか?倭の五王以前のことなどすべて嘘だろう。その証拠に記紀には倭五王はひとりとしてその名前がない。嘘で固めれば、真実など書けるはずはなくなる。うそはうその上乗せが当たり前である。『日本書紀』は大嘘でできた正史である。