最近、筆者がオカルト分析に用いているのがこれ。
スーザン・グリーンウッド 2015
老子道徳経の翻訳と解説書は
これ
ワイド版岩波文庫『老子』
蜂屋邦夫注釈 2012
災害史はこれ
『災害と復興の中世史―ヨーロッパの人びとは惨禍をいかに生き延びたか』
フーケー,ゲルハルト、 ツァイリンガー,ガブリエル 2015
もう一冊は
島津光夫『日本の石の文化』2007
主に古墳石材史
このブログは、こうした識者の著書を用いて、その意見に従って書いている。
ただし、彼らの意見をすべて認めて書くわけではなく、ときには正反対の意見を書くこともある。
民族学伝承ひろいあげ辞典ブログは、そうした専門家の意見の紹介と批判、自分なりの解釈でできている。
そのKawakatuの編集の背景にあるのは、ここ12年以上吸収してきた彼ら識者の貴重な分析と、自身の62年間の全国行脚と人生観によって編み上げられている。
なお、識者の意見であることをあえて書かないこともある。
その場合はこの記事のように、あとから追補するようにしている。
あとになるのは、その著作が示唆に富み、あまりに面白かったケースが多い。
なお、神秘やオカルトは嫌いではない。
それらは楽しむべきもので、小説のようなもの。
そしてそれ以上に客観的分析が好きである。
そちらとあちらが自分の中には同居する。
その矛盾を解消するために、記事は
あえてそちら側に激しく偏らせて書いている。
道とは無為である。
無為と神は異なる。
無為は天然自然を、そのまま、干渉せずに、あるがままに受け入れること、であり、
神とは自然の姿を人に似せる「ペテン(S・グリーンウッド)」であり「恒常の道でない(蜂屋)」もので、激しいときは「詐欺・ごまかし(Kawakatu)」でもある。
いわばこの地球に幸運にも住ませていただいていることへの前者は素直な感謝であり、後者はそれの、支配のための利用である。
もちろん、両者を見たり、読むことで、
われわれ凡百の民がどう受け止め、実践するかはその人の自由である。
謎に対する枝道には
迷信と疑義(分析)・・・二つの枝道があると書いた
第三の道
それはオカルトさえも実は楽しんでしまう豊かさだろう。
一見偏って見える筆者の記事の後ろ戸には
いつもこの楽しむがあることはお忘れなく。
言外にそれを読み取ってくださることを望む。
※ペットを飼うことは道ではなく干渉である。
自然とは、無為とは、それを手中に収めることではなく、
ただ深く深く見つめて決して愛欲の代用品にはしないことだ。
この世は小儀の魔力で満ち溢れているが、結局、最も大事なのは大儀でしかない。
それさえ気付けば、ほかはただの人生の色づけでしかない。
人は大儀に気付くまで、いろいろなつまらぬ魔性の魅力に右往左往する。
大儀に気付けば、悟りが一歩近寄る。
いずれにしても、やがて人は死ぬ。