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[転載]レヴィ・ストロース野生の思考 パンジー

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老子の「道」を理解するために過去記事を再掲載する。


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ストロースが象徴的に用いたパンセ(Pensées仏)(野生種三色すみれ、英・パンジー)
誰の目にも、確かにパンジーの花は、まるで人間が物思いや思考している顔つきに見えてしまうという造形の不思議さがある。老いた哲学者か宗教者が、晩年になって、深く沈潜した書斎で考え事をしているかのようである。もっとも、そのわけは現代科学ですでに分析済みで、すべての人間には三つの点を顔に見てしまうという性癖が植えつけられているとされており、そのわけは、生まれてすぐに親の顔を認識し、より早く安全を確認する必要があるからではないかと言われている。それがつまり野生が自然に選んできた手法であって、ひとり人類だけの特性ではないらしい。パンジーの顔のような花も、おそらくこの生物全般が獲得した三点凝視の特性をとりこんで、おのれの「性器」としての花びらに虫たちが惹きつけられることを熟知して、選択したデザイン=野性の思考の所産であろう。


Penséesには思考・思想の意味がもともとあり、これをタイトルにした最も著名な哲学書には、『パンセ』(: Pensées 晩年のブレーズ・パスカルの作品)がある書物を構想しつつ書きつづった断片的なノートを、彼の死後に編纂して刊行した遺著がある。


「『野生の思考』(やせいのしこう、仏: La Pensée sauvage)は、1962年フランスの人類学者・クロード・レヴィ=ストロースによって発表された著作をさす。表紙には「思考(pensée)」と「パンジー(pensée)」を掛けて野生種のパンジーである三色スミレが描かれる。」




野性の思考についての彼自身の解説や、Wikiの解説では、おそらくほとんどの一般人には、ちんぷんかんぷんな難解な反呪文ではなかろうか?

その基盤を形成している「構造主義」とは、もっと簡明に説明付けられぬものか?


人類学の大島直行はこう書き換えてある。

「人類の誰もが遺伝的に持っている脳の生理機構に根ざしたものの考え方のことです。たとえば世界中の民族にはそれぞれに「神話」があります。現代人の科学的思考からするとありえないような話が神話にはたくさん出てきますが、それは「史実」ということではありません。実際に起こったことを叙述しているのではなく、なぜ「もの」(動物・植物・鉱物)が存在し、「こと」(気象・自然)が起きるのかについての「考え方」(野性の思考)を述べているのだとレヴィ・ストロースは指摘しています。長い間、人間はもっぱらこうした思考方法でものを考え行動してきたのです。」
(『月と蛇と縄文人』2014)




この著作で、大島は巻頭にフランス哲学者ギョ-ム・フェルロの次の言葉を置いている。

「人間はそれほど速くは変わらない。人間の心理は根底のところは同一である。もしも人間の文化が時代と共にかなり変化するとしても、それはまだ、人間の精神性の機能を変化させるものではない。精神の基本的な法則は、少なくともわれわれの知るごく短い歴史時代については、変わっていない。そしてほとんどすべての現象は、どれほど奇妙なものでも、われわれ自からの内部でたしかめることができる精神のこれら共通の法則によって説明されうるはずである。」


また考古学の先駆者ネリー・ナウマンはこうも指摘する。

「土器や土偶が奇妙奇天烈な形に見えるのは、その太古の製作者たちの造形技術が拙いからではなくて、独特の世界観(神話的世界観)によって表現されているからだ」




筆者の敬愛する作家D・H・ロレンスは
「人間は馴致される生き物である」
と書いた。

フランスのエッセイスト・哲学者のロラン・バルトは、
「あらゆるものが名状された(名前付けされている)世界に人間は生まれてくる」
(『エッセ・クリティック』)

と書いた。




人間は、おしなべて、生まれたときから既存の固定観念=名状されてしまっている=認知され定説化されてしまった常識世界に放り出される。その世界は、大人からの、時として素直には受け取れない解説で満ち溢れていて、ある年齢に達すると子どもは、必ずそれらの常識に反発したくなる(反抗期)。その常識が苦痛だと思うのである。ところが成長し二十歳を過ぎる頃になると、むしろのその苦痛を心地よいものとして取り込んでゆくようになり、最終的に馴致される。つまり人間は反発によって成長し、やがて飼いならされることの快感を選択するように造られているわけである。だから容易に常識は覆らない。

マゾヒストや痛感による自己批判をこととする宗教者があるように、実は苦痛はいずれ快感をもたらすように人類を構成してあるらしい。

野性の思考は、一見非常に稚拙にみえて、空想物語りのように荒唐無稽な形や事象を言い伝えてきた。しかしそれは決して嘘八百のでっちあげとかではなく、象徴的にデフォルメしたデザイン画なのである。言外にあるのは、何万年も受け継がれてきた人間としての出自や宇宙の成り立ちを言っているのであり、それが野性の思考の所産だと言うのであろう。


だから神話の多くが、ある一面では眉唾であるにも関わらず、大きく逸脱せずにあらゆる民族が共通的に共有でき、しかも大きな視点では真実をついていることに気が付かねばならない。

しかし・・・大島はこう述懐する。多くの考古学者つまり科学は、久しくその点に気づかなかった、いや気づいても無視するしかなかった、神話や土偶の不可思議な形状を分析するためのノウハウを持てないままだったのだと。科学は、仕方なく、分類と分化を旨とするほかはなくなる。事物や事象に人間的な解釈をするのは、文科系学問にまかせるほかなかったのだった。

例えば考古学者、故・佐原真は、立派な科学者ではあったが、九州の装飾古墳に描かれた古代人の壁画を、先入観で最初から稚拙な時代の産物と決め付けてしまい、幼稚園児のらくがきを持ってきて、真面目に研究書で比較した。佐原には人間、古代人の心である野性の象徴性というものに気づく手段がなかったのである。そこには分析はあっても人間哲学がない。人間が思考によって、洗練よりもデフォルメを選ぶこともあることに気づかなかった。それはまさに、科学者、考古学者の決定的欠落部分を象徴的に示す事例である。それが科学の基本的スタンスだったからだ。佐原にも、師匠である小林行雄にも、おしなべて多くの科学者・技術畑の人、理科系に、そういう人間的、文科系的、総体的な視野の欠落があったことは否めない。ゆえに彼らの欠落は、久しく先達の巨塔の前に無力で、変わることができないままだった。つまり困ったことだが、原爆を落としていいかに考えをいたすよりも、作り出した新しい武器がどんな効果を持っているか実験する快楽と欲望に勝てなかった。子どものように彼等は結果を待ち、それが悲惨であればあるほど満足に浸れたのである。しばらくして、彼等は、その結果の罪深さにやっと気づいたのだった。





考古学は、掘り返した事物を粛々と分類、仕分けしてゆき、やがてそれら事物に研究室を占拠されるころになって、ようやく、「はて?なぜ土偶って女性ばかり?なぜはだか?なぜ壊れているの?」を考えることができるようになった。編年のためにしかなかった学問が、他人には苦痛の作業にしか見えない穴掘り作業・分類作業という苦しみの行き着いたところで、やっと文科系的な、人間は考える生き物であったことに気づくのであった。こうして「古代学」が登場した。



彼等が欲しかったのは数値・数学的な、たったひとつの答え、分類の結果把握できる、この時代、この地域の縄文人はこういう形状を好んで作り出すのだ・・・たったそれだけしか、自信を持って他者に語ることができずにいた。だから殺伐とした横書き専門書の中で満足していた。過去の先達の考えたあやまった定説を証明することが、考古学だと考えてきた。つまり学界のシステムの束縛を喜び、快感とし、そこで学位なり出世なりをすることだけが学問であると、馴致されてきたのである。


しかし、古代人には、いや人類には、ストロースたちが気づいたある共通の思考で行動する性癖がある。そこからが実は学問の始まりなのだった。


ところが、文献以前、つまり有史以前のことは文科系史学者にとっては専門外である。したがって彼らにも限界があり、これまた既存の歴史書から考古学的遺物・遺跡を判別するしかない。

これでは、ふたりの目クラが、巨大な像をさわって、ああでもないこうでもないと言っているのと同じなのは当然だろう。木を見て森が見えていない。


人類学・気象学・遺伝子学・民俗学そして哲学こそが助けてやっと「人間の生き方」という最も学問にとって大切な到達点への道が開いたのである。


総合学問の究極が哲学である。
哲学の法則を探すことが、実はあらゆる謎めいた遺物の裏側にある、古代人の行動様式を知ることになる。やや極論ではあるが、これを知らない研究などは、なくてもよい研究でしかないと言っても過言ではない。史学も考古学も、そのための手足に過ぎない。そこに権威など必要もない。ただの作業でしかない。これに気づいている学者の本以外は破棄しても困ることはない。ただ、読み手がそれに気づくまでに、また何十年も時間が必要だ。なぜなら人類は失敗を糧にしてしか、真実にたどり着けないおそまつな脳みその持ち主だからだ。場合によっては動物たちの野生の勘や組み込まれた本能=宇宙の摂理のほうが随分ラジカルで整然としている。



先土器の時代は悠然と数万年の時を冗長的に過ごし、あたかも贅沢に時間をうしろへ切り捨てていったかに見えてしまう。海峡を越えるだけのことに何千年もの時をついやする。流木にすがることに気づくのに何百年。そこから船に気づくのに何百年・・・。しかしサルはあっというまに丸太にすがって海をわたる。それを見て、「そうか」と気が付くのが人間である。本能が教えてくれないからである。そこには逡巡と失敗ばかりが山積され、サルから見ればまるでばか者に見えることだろう。


野性の思考には、薄くなり始めたサルから人類への過渡期の本能が、まだあることを想像させてやまない。宇宙の描くシステム=歴史ではそれを神話と呼び、科学では哲学と呼ぶ・・・の姿を、土偶や環状墓群や集落は、素直に受け入れて、そのままに形にしてある。だからあらゆる世界の古代人には共通性がある。まだ発想のバラエティが生まれておらず、シンプルで、あっぱれなほどおおらかである。





なぜ円を描いてより集ったのか?
なぜ裸の妊婦を人形にしたのか?
なぜそれを壊して埋めたのか?
なぜ蛇を描くのか?
なぜ炎を描くのか?
なぜ渦巻きを好むのか・・・?


考古学ではその答えは用意されていない。
だからぼくらが考えてあげるしかない。

技術者では考えることが不可能な、人々の内面には、むしろ学者ではないほうが気づきやすい。なぜなら一般人は、摂理に流されてきた縄文人の生き方とさほど変わりない生活を送っているからである。

官僚や役人が、何十年経っても実行できない、気づかない、世界共通の人間行動の謎に、ぼくやあなたはすでに全員気がついている。それと同じことである。


彼等は野生を忘れ、馬鹿にし、この世界にあふれている謎とその神秘とヒントを、ヒントだと気が付かぬまま死んでいく人種である。なぜなら数字でしかものごとを考えられないように馴致されるからである、職場で。その最短、最良の方程式にいきつける天才など、彼らの世界からはおおかた除外される。天才は迷惑な化け物であり、モンスターであり、図書館と言う人智の動物園の折の中でしか息をすることを許されない妖怪である。だから図書館に行きたまえ。幼い頃から日参しなさい。真実はそこにある。ほかのヒントはそこへの行き道にいくらでも転がっている。できるだけ長く歩いて、そして深く読め。





















転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典


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