蘇莫者と蘇志摩利
●そまくしゃ【蘇莫者】
「雅楽,管絃,舞楽の曲名。唐楽にふくまれ盤渉(ばんしき)調。一人舞の走舞(はしりまい)。蘇莫遮とも書く。別名《莫者》。番舞(つがいまい)は《蘇志摩利》。この曲用の別装束(毛べりのついた赤の裲襠(りようとう)装束)に蓑をまとい,金色の山神(あるいは老猿)を模した面をつけ,左手に桴(ばち)を持って舞う。別に太子(たいし)と呼ばれる笛の音頭が舞台の上で笛を奏す。太子は左方襲(さほうかさね)(常)装束に唐冠(とうかんむり)をかぶり,太刀を腰に下げる。」出典 株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版について
「雅楽,管絃,舞楽の曲名。唐楽にふくまれ盤渉(ばんしき)調。一人舞の走舞(はしりまい)。蘇莫遮とも書く。別名《莫者》。番舞(つがいまい)は《蘇志摩利》。この曲用の別装束(毛べりのついた赤の裲襠(りようとう)装束)に蓑をまとい,金色の山神(あるいは老猿)を模した面をつけ,左手に桴(ばち)を持って舞う。別に太子(たいし)と呼ばれる笛の音頭が舞台の上で笛を奏す。太子は左方襲(さほうかさね)(常)装束に唐冠(とうかんむり)をかぶり,太刀を腰に下げる。」出典 株式会社平凡社/世界大百科事典 第2版について
”篝の舞楽-蘇莫者(そまくしゃ)” 動画リンク
https://www.youtube.com/watch?v=Uy29RdZhoGA
https://www.youtube.com/watch?v=Uy29RdZhoGA
●そしまり【蘇志摩利】
「雅楽。高麗楽 (こまがく) 。高麗双調の中曲。舞は四人舞。舞人は蓑笠 (みのかさ) をつけ、高天原 (たかまがはら) を追われた素戔嗚尊 (すさのおのみこと) の苦難を写すという。長久楽。蘇尸茂利 (そしもり) 。」goo辞書
蘇志摩利 動画https://www.youtube.com/watch?v=HRI8w_b6r5Y
筆者解説
蘇志摩利は高麗から来た舞曲舞踊
蘇志摩利については、宝亀十一年(780)十二月の『西大寺資材流記帳(さいだいじしざいるきちょう)』楽器衣服部・高麗楽具に「蘇志摩利 懸笠二蓋 各黒羅衣」の記録が残っており、黒羅衣(くろのらい)とは、神の着用した青草(日本なら茅)の蓑を現すとされている。
また十世紀半ばの『和妙抄』にも「高麗楽曲蘇志茂利」とあるので高麗(新羅)から来たことにまず間違いはない。奈良時代から宮中でよくやられたらしいが、近衛天皇の1140年代以降舞楽が絶えて以来、主として筝曲だけに題名がとどめられたという経緯がある(『仁智要録』)。(山口博『創られたスサノオ神話』2012)
松下見林は蓑笠で体を屈折する画を見て判断し、腰を屈折して舞うので「スサノヲの流離辛苦」であろうと推測。元禄の楽人・安倍季尚(すえひさ)『楽家録』にも「新羅での青草蓑笠でのスサノヲの道行き」と書いている。水戸光圀『大日本史』礼楽史5は、「新羅楽曲で蓑笠で水を跳ねる足遣い」と書く。つまり蘇志摩利とはソシモリであるから場所は新羅、主人公はスサノヲで間違いないという考えであろう。しかしもうひとつの蓑笠を着用する蘇莫者のほうは実は蘇志摩利とも深く関わるもので、その※番舞として右舞蘇志摩利が付随するものであるが、つまり蘇志摩利は蘇莫者の番舞の一部であり、同じイメージの舞と取られていたと思われるが、その本元は中国、さらには遠く西域にある舞踊なのである。すると「そしまり」は必ずしもスサノヲと新羅に関わる地名「ソシモリ」であったかどうか不確定と言うことになろう。もしや新羅で蘇莫者が蘇志摩利に変化してそれぞれが別々に渡来したのかも知れない。するとスサノヲ神話がそもそも新羅にあったことになるのだろうか?あるいはスサノヲのような類似した朝鮮のソシモリにいた人物に仮託した?それが日本に来てスサノヲが主人公と考えられるようになった?いや、おそらく新羅にスサノヲ神話の原型があったのだろう。
※番舞(つがいまい)は「舞楽で、左方の舞と右方の舞とを組み合わせて一番とするもの。また、その舞。」 「古くは曲の性質や舞姿の似通った曲( たとえば左舞の《陵王》と右舞の《納曾利》)を一番(ひとつがい)として緩やかな対応で結びつける番舞(つがいまい)制度があった」
「舞楽では,左舞と右舞を対にして演ずる習慣があり,これを番舞(つがいまい)と呼んでいる。原則的には似かよった種類の舞どうしを組み合わせることになっているが,現今では必ずしもこの原則は守られていない。」世界大百科事典
一方、蘇莫者は10世紀中ごろ、醍醐天皇が外来の稀な曲目を演じさせた目録の中にあり、渡来は奈良時代である。12世紀の楽書『竜鳴抄』には黄色の蓑をつけて舞うとある。同時代の藤原通憲(信西入道)は通称『信西古楽図』の絵図に黄色の頭巾の蓑笠姿の蘇莫者を描いている。青も黄色も神、霊魂、異界者の色だったと思われる。
ルーツはスキタイ
吉簡
「新井白石の『楽考』では、吉簡は乞寒戯のことであろうとあります。これは、乞寒胡戯あるいは潑寒胡戯といわれるものと思われます。中国西域の康国から伝わり、一時期は唐でも行われていたようで、中宗の神龍元(705)年11月、洛城の南楼にて潑寒胡戯をご観覧になる際、「わざわざ寒い時期に、裸になって水を掛け合い、街頭で鼓舞することで、何を得られましょうか。」と諌めたが受け入れられなかったと『資治通鑑』にあります。水を掛け合い踊るものと、この舞とどう関係するのか、また、西域あるいは唐起源のものが唐楽ではなく高麗楽に組み込まれているのはなぜなのか、疑問がないわけではありません」
http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-1061.html
「新井白石の『楽考』では、吉簡は乞寒戯のことであろうとあります。これは、乞寒胡戯あるいは潑寒胡戯といわれるものと思われます。中国西域の康国から伝わり、一時期は唐でも行われていたようで、中宗の神龍元(705)年11月、洛城の南楼にて潑寒胡戯をご観覧になる際、「わざわざ寒い時期に、裸になって水を掛け合い、街頭で鼓舞することで、何を得られましょうか。」と諌めたが受け入れられなかったと『資治通鑑』にあります。水を掛け合い踊るものと、この舞とどう関係するのか、また、西域あるいは唐起源のものが唐楽ではなく高麗楽に組み込まれているのはなぜなのか、疑問がないわけではありません」
http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-1061.html
このサイト管理者の疑問におそらく筆者は答えられる。考古学で、新羅の歩揺(ホヨウ)のある金冠が、スキタイ王がいた古代アフガニスタン王宮から出土している。つまり新羅とスキタイにはそういう関係があったからだろう。
というわけで、どちらも日本では主人公を磊落し地上界へ堕ち行くスサノヲにしてあるが、蘇莫者は高麗(奈良時代では高句麗はすでにないので高麗は広く朝鮮半島統一新羅国である)から、蘇志摩利は中国から、それぞれ来たという記録があるので、スサノヲ、あるいは説によっては蘇我本家入鹿などともいわれるモデルは別にあったと考えられる。スサノヲや入鹿にこの在野へ堕ちてゆく神(どちらも衣装に蓑笠を使うゆえ)の姿に、日本で勝手にイメージを託したことで今にまで残った芸能だと言える。
ただ、ではスサノヲではないのかというと、スサノヲのようなペルセウス・アンドロメダ型竜退治(多頭竜を王者が倒して姫を獲得するドラゴンスレイヤー物語の類型)のルーツが、実はやはりスキタイに求めることも可能なのである。スキタイの王子であるヘラクレスの竜退治がある。同様の複数の頭を持つ竜その他の類似キメラの出てくる神話は、実のところ世界中になる。中国から放射状にインド、アナトリア、スキタイ、北欧、メソポタミア、朝鮮そして日本と。それでこの中で最古と思えるのはメソポタミアの前身であるシュメールかも知れないと山口博は書いている。
むしろ朝鮮には記録がないのだが、それは朝鮮の記録自体がほとんど残されていないからすべてのことで、神話として口承されてはいるようだ。ヤマタノオロチとスサノヲと稲田比売のモデルはどうやら新羅を経て、中国、インド、スキタイがメソポタミア地方から持ち込んできたものだったらしい。すべてはシュメールから拡散する聖なる物語である。
おそらく日本へは海人族から口伝えで広まったのだろう。
日本の奈良時代になって二つの舞曲が新羅から入り、おそらくそれ以前の記紀成立前の飛鳥時代までに日本に伝承あるいは海人族により持ち帰られていた複数頭の大蛇を倒す伝説は、出雲・石見の地方伝承の小国の神だったスサノヲを、記紀編者が、中東起源の地上の征服王にスサノヲをなぞらえて、大和朝廷以前の太古の王家が日本海にあったとしたのだろう。そういう強いものを大和の王家が戦って奪ったのだから、もっと強いのだと示すためにである。スサノヲはそれに利用されたのである。そのためには出雲世界があまり注目していない神のほうがよかったといえまいか?これが大国主であったら、出雲庶民は怒り心頭だったかも知れまい。
奈良時代の為政者は、蘇莫者・蘇志摩利を見てそこに天上界から出雲へ堕ちてゆくスサノヲを感じたことは間違いない。いわゆる日本人好みの判官贔屓そのものである。つまり記紀の神話のスサノヲは、建前上は宮中貴族には敗北者で暴れん坊で忌むべき存在で話の中ではタブー的存在だったが、実は心の中では、庶民と同じく、スサノヲが大好きだったと言えるだろう。
さて、ヤマタノオロチのヤマタは形状で、八つの頭と尾を持ったという意味だが、必ずしも八つに限ることはなく、たくさんのという意味。オロチは大蛇だが、語源は中国の「オロン」=蛇であると山口は言う。モンゴルでもそうだ。そのまたオロンのことをスキタイはオロと言う。ツングースのオロチョン族やホロンバイルのオロ・ホロも蛇のことである。オヨとぽ言う地域もある。これまたスキタイに語源があると思われる。チはミズチのチで神霊を著す朝鮮語か大和言葉。
また中国、中東からアフリカにかけて蛇をマングイ、マング。マンガなどとも呼ぶが、蛇を好む補修類のマングースはマング捕食者という意味のアフリカ語であろう。マンガは沖縄の島嶼八重山あたりでは祭りの精霊になっている。蛇を精霊、神とする地域も世界中にある。マングースの語源が蛇であれば、オロチを退治したスサノヲもいわば蛇の名を持つ鬼でもあろう。そしてそこにはツングース、北方系の神話がつきまとう。要するに弥生渡来的でありながら、縄文土着系なのである。おそらく双方の敗者、被差別者、先住民のイメージがひとりスサノヲの肩に一身に背負い込まれたと言える。そうされたのである。その出身地も日本海の、縄文文化圏だと。
神とそれに退治された者の一心同体化は珍しくはない。日本で天皇をもうひとつの被差別民とする研究者もいるし、彼らも菊のご紋を勝手に使用したり、天皇家御用達獲得にまい進してきた経緯もある。平家落人伝説と菊の御紋は、実は深く関わる。古墳時代の熊本の古墳の石棺に菊の紋らしき車輪文がついていたりしたし、菊の地名が多いのも、なにか関係があるやも知れない。それは差別のせいではなく、平家などの敗北者が落ちていったからで、いわゆる貴種流離話を持った氏族・職人が、中央への未練を忘れてないということなのだろう。
オロチは越の国から来るという。道教などには北西を鬼門、鬼の来る方位とする思想がある。それは北風が来る方位だったからだろう。もしヤマタノオロチが出雲の鉄を意味したなら、オロチは出雲在住でなければおかしい。しかしオロチは北西方向の越から来るのだ。だから出雲は最初鉄ではなく銅器の国なのである。それを簒奪した渡来人が大量の銅器を地中にうずめたのである。呪力を封じるために。そしてその敵とは記紀の声を大にしていうところの大和朝廷の神々などではない。それはアメノヒボコやツヌガアラシトのような渡来した新羅の神でなければならない。日本海に集中する古代戦争遺跡がそれを如実に語っているではないか。思うに越(こし)という日本の地名は、大陸から見たときに日本海を越えたところという意味なのではないか?古来、日本海側は出雲文化圏と越文化圏は横長に蛇のように横たわっていた。奇しくも出雲神話にも、国引きの神の引っ張った縄が浜になったとある。森浩一は出雲とは山口から若狭まで、越とは福井から秋田までという非常に細長い広範囲な地域名であったと書いた。そしてその越の北側にはもう縄文の青森がある。出雲弁には東北弁の残照がある。それは蝦夷の言葉である。発音である。アイヌのものではあるまい。樹木の巨大高僧建造物がそれを物語る。あれらは海から見える山あての塔であろう。屋根はない。ないのは頂上で火をくべたからである。物見やぐら兼灯台である。
記紀は風土記にある出雲国引き神話は無視している。そしてかわりに風土記にはなかったオロチ退治を挿入した。なぜか?
まず、考えられるのは、さきほど書いたように朝廷が平定したがる国なら、それほど協力だった、だからという大儀がある。しかし新羅から国土を引っ張って島根にしたなどとは書かない。そうなると出雲のほうも先に敵国を奪ったほどの国家で、大和はそれを再び物まねして簒奪することになってしまう。出雲征服は最古のオリジナル戦争でなければならない。
どっちにしても神話は事実ではなく、政治的正統性をほかの豪族に知らせるためにあるものだ。
山口も、『日本書紀』の解説が何度も行われた理由を、政治解釈ためのものと見る。ようは大和朝廷、女帝の政党であることのための書物なのである。だから歴史書としての機能は記紀神話から人皇史の前半部分にはないと思うべきだ。いやもっと言えば記紀は史書ではなく政治書であって、史書は『続日本紀』からだと日本史をやるなら最初に認識しておくべきだろう。
もうひとつ。
「養老律令」は藤原不比等が編纂を始めたが、内容はその前の「大宝律令」の用語を変えただけのコピーであり、なのに編纂が長引いて頓挫したものを、孫の藤原仲麻呂が強引に引っ張り出してきて法律として押し付けたものであることはよく知られている。「大宝律令」は701年、天武天皇の勅によって不比等自身も関わって作られた法律書である。ただし大半が中国の真似でできてはいたが。そのように藤原不比等は大和朝廷最初の政治・法律深く関わった人物であった。しかるに、記紀もまた政治的産物となったのである。そして不比等の父親は先の王家である蘇我氏と皇極女帝の業績を簒奪しうまく再利用している。蘇我氏もまたその前の王家であろう継体や大伴や物部氏の歴史を簒奪し、物部氏の旧事本紀も継体王家もまたその前にあっただろう倭五王王権のものを、倭王もまた吉備・葛城のものを、吉備・葛城もまた出雲・越のものを・・・それが日本古代史なのだ。いや、それが世界史なのである。
「養老律令」は藤原不比等が編纂を始めたが、内容はその前の「大宝律令」の用語を変えただけのコピーであり、なのに編纂が長引いて頓挫したものを、孫の藤原仲麻呂が強引に引っ張り出してきて法律として押し付けたものであることはよく知られている。「大宝律令」は701年、天武天皇の勅によって不比等自身も関わって作られた法律書である。ただし大半が中国の真似でできてはいたが。そのように藤原不比等は大和朝廷最初の政治・法律深く関わった人物であった。しかるに、記紀もまた政治的産物となったのである。そして不比等の父親は先の王家である蘇我氏と皇極女帝の業績を簒奪しうまく再利用している。蘇我氏もまたその前の王家であろう継体や大伴や物部氏の歴史を簒奪し、物部氏の旧事本紀も継体王家もまたその前にあっただろう倭五王王権のものを、倭王もまた吉備・葛城のものを、吉備・葛城もまた出雲・越のものを・・・それが日本古代史なのだ。いや、それが世界史なのである。
弱者を強者が食い、その栄誉ある歴史を奪い取ってきた。それでいいのだ。それしか生きる方法が人間にはないのだろう。
次回から平民・庶民の古代史を扱います。
主として『日本霊異記』の記録から、仏教説話的意味合い以外の題材を拾い出してみたい。
書物を読むとき、多くの人は作者の考えに従属し、作者の意図を読もうとして読み進めるだろう。それが一番読破の近道だからだ。しかし本当の読書家というものは、そこに書かれている作者の真意は一回目に理解すると、次にはさらに、詳細な地名、人名、地形、位置関係、登場人物の詳細分析、書かれている古い用語などなど、ありとあらゆるものを知ろうとする生き物である。一回読んで読んだとはいわないものだ。霊異記のたったわずかの行数、文脈、単語に、彼らは食いつく。そうすることが本への愛だと筆者も考えている。さて、何が出ますか。お楽しみに。
主として『日本霊異記』の記録から、仏教説話的意味合い以外の題材を拾い出してみたい。
書物を読むとき、多くの人は作者の考えに従属し、作者の意図を読もうとして読み進めるだろう。それが一番読破の近道だからだ。しかし本当の読書家というものは、そこに書かれている作者の真意は一回目に理解すると、次にはさらに、詳細な地名、人名、地形、位置関係、登場人物の詳細分析、書かれている古い用語などなど、ありとあらゆるものを知ろうとする生き物である。一回読んで読んだとはいわないものだ。霊異記のたったわずかの行数、文脈、単語に、彼らは食いつく。そうすることが本への愛だと筆者も考えている。さて、何が出ますか。お楽しみに。