これも蘇莫者関連で再掲載。新羅とスキタイの親密な関係。
国立博物館で昨年から「黄金のアフガニスタン展」が順次開催され、現在、九州国立博物館で元日から2月14日まで開催中である。http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s42.html
oyz87氏のブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/oyz87/37033542.htmlでそのことを知り、北アフガニスタンのティリア・テペ王墓の6号墓の女王あるいは王妃らしき木郭墓の中から、新羅南部の慶州に特化するほどよく出てくる金銅製歩搖付金冠(ほようつききんかん。垂飾冠とも)にそっくりな金冠を発見してから、筆者は一週間随分わくわくしながら、その来し方を想像してきた。
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新羅慶州北道金鈴塚古墳出土歩搖金冠
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奈良県橿原市藤ノ木古墳出土金銅製歩搖付金冠レプリカ
アフガニスタンのティリヤ・テペ6号墓出土王冠は新羅慶州の歩搖付王冠に影響か?
「ティリヤ・テペは北アフガニスタン、アレクサンドロス大王が遠征したバクトラ(現バルフ)とアレクサンドリア・マルギアナ(現メルヴ)の中程に位置している。粒金細工の装身具が出土したサルマタイの住むクラスノダルやロストフよりも東南方にある。
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『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られる。なかで、シルクロードの各地に見られるものが、スキタイ系の黄金製品である。
スキタイは、黒海の北の沿岸にいた騎馬民族であった。紀元前7世紀頃、ギリシャ民族がこのあたりに植民地を開き、ふたつの民族の交流がはじまった。ギリシャは穀物や毛皮・奴隷を求め、スキタイは工芸品や葡萄・オリーブ油を求めた。スキタイの特色とされる金銀工芸品は、スキタイ貴族の要請に応えて植民地にいたギリシャの工人が作ったものであったといわれるという。」
http://avantdoublier.blogspot.jp/search/label/%E6%AD%A9%E6%8F%BA
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画像の多くもこのサイトから転載しました。
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ティリア・テペはアレクサンドリアに近い。Clik here to view.

歩搖(ほよう)とは先の記事にあるように、歩くと揺れるので歩搖と呼ばれる飾り(垂飾)であり、近世にはカンザシもそう呼ばれた装飾である。仏教では瓔珞(ようらく)や垂飾、あるいは髪飾りもあるが、歩搖のような木の葉的なちらちらと揺れる飾りはない。アフガニスタンなどの「スタン」が後につく国々はインドや中国に隣接するので、影響を与え、与えられがあったとは思える。中国の金冠でも歩搖状の垂飾飾りは仏教壁画などで見ることがある。アフガニスタンと言えばバーミアンの石像が有名だし、アルカイックスマイルのような形式も西から東へ伝わっている。それを伝えた人々と金冠歩搖を伝えた人々は、コースは違ったとしても同じスキタイ・テュルク系の騎馬遊牧民であることは間違いない。しかし上記引用文が言うギリシア工人の作とはあまり思えない細かな細工がこの王冠にはしてある。ギリシア以前、そこにはマケドニアという国家があり、ヴェルギナ、カサンドラ(カッサンドレイア)という都市から、やはり歩搖付の工芸品が出ている。ここが工人の起源地かも知れない。
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アフガンからカスピ海を通り、ヒマラヤ山脈の北側を通るシルクロードのステップロード沿線には、代々多くの遊牧民族が国家を形成しており、東へ行くほどに東アジア人との混血度合いを深め、烏丸、鮮卑などと魏志東夷伝が書いた人々は、匈奴や東胡、月氏、烏桓、烏孫などの異民族とよく似た種族だったことだろう。現在の中国ウイグル自治区の人々がそうであるように、いまや彼らの多くがイスラームを信じるムスリムであり、遠い祖先はバクトリア地方など原西アジア民族だったことは確かであろう。
筆者作 歩搖付金冠及び装飾品出土地分布図
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西アジア各国や旧ソ連からの独立国、また旧高句麗の範囲だった北朝鮮など、多くの地域が発掘困難なところであるため、歩搖装身具の発掘は勢い東アジアに偏ってしまっているが、将来スタン各国やほかの地域からも発見があるはずである。
とにかく現状で歩搖付の金冠・装飾品が集中するのは旧新羅の南部、慶州に偏っている。新羅とは言いながら、この地域はまだ新羅が国家として成立する以前(斯蘆 しろ時代)には、むしろ伽耶連合の影響の強い地域である。伽耶(加羅)はコスモポリタン地域で、さまざまの小国家が連合しており、異民族、外国人が同居していた。その最南部、日本海沿岸に金官伽耶があった。これが新羅によって滅ぼされて倭国に王族ご一党が逃れてくる。おそらく奈良の藤ノ木や新沢千塚や、福岡県古賀市の船原古墳、宗像の安曇族などの豪族に影響を与えたであろう。いやそれ以前から互いに交流関係にあったはずである。
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沖ノ島歩搖付金銅遺物
沖ノ島から出ている遺物は、ほかにも新羅慶州の王墓の遺物とそっくりなものが多い。
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上・沖ノ島の指輪 下・慶州天馬塚出土金指輪
莫は魏時代の鮮卑(せんぴ)族の族長で、あまりに歩搖金冠を気に入りかぶったので名を「ほよう」の音をもじって慕容(ぼよう)と改名したと記録されている。
彼の死後は、息子の慕容木延が後を継いだ。」
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後漢時代の鮮卑の版図
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紀元前二世紀
この慕容氏からやがて有名な族長・慕容廆 ぼようかい Mù róng Wěi が登場する。鮮卑を憎み大単于(冒頓氏)を壊滅させ、東晋を滅ぼし、単于は鮮卑というよりも、ツングース語とテュルク語の混ざった言語を用いる匈奴あるいはモンゴル民族のことかも知れぬ。
先祖である鮮卑族・・・これもはっきりとはしない連合体だったようで、ツングース系モンゴル人も、あるいはテュルク系やスラブ系やもまじった騎馬民族連合体だったようで、その前は今の内モンゴルの東部にいた東胡族から分かれたようである。このテュルク系やスラブ系をたどっていくと、西へ西へとよく似た種族国家が代々、遊牧国家として記録がある。いわゆる烏丸・鮮卑も加えて烏孫、月氏、スキタイへたどっていける。そのコースがやはり紀元後4世紀くらいにフン族を生み出したであろうカスピ海周辺地域と、もっと西側のバルカン半島へと分かれてたどり着くことになる。バルカン半島はいうまでもなくトルコ=テュルク民族を含めたスラブ民族の故郷であり、カスピ海沿岸から東はスキタイ系「スタン」国家の地域である。この「スタン」はドイツ語ならシュタットであろう。英語ではシティとなっていった国、地域をさす言葉である。トルキスタンと言えば集団、民族の名になる。
つまりほぼ同類の騎馬遊牧民族である。人類がアフリカを出て最初の分岐点で彼らは民族を分化させていったが、バルカンではアナトリアという最古の国家を作り、アッシリアやエジプトと対等、それ以上の戦いをした最古の製鉄国家である。彼らの影響を対岸のギリシアやエジプトはもろにうけて、そこから製鉄、鉄剣のいくさが世界に拡散した。つまり王冠や歩搖愛好趣味も一緒に東西へ広がるのだ。その担い手が騎馬遊牧民である。特に東洋へは、アッシリアに敗れて分離したアナトリア製鉄・彫金工人が大量に逃げ込む。彼らは鹿と太陽の女神キュベレをステータスとしスタンダードという象徴にしていた人々だった。
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アナトリアの鹿のスタンダードのついた権威的杖
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太陽神キュベレを描いたアナトリアの遺物
だから鉄=シカ、そして太陽神信仰はこのときから中国、朝鮮へと伝わり日本の製鉄開始時代である弥生時代も始まるのである。新羅の金冠や中国の絵画に、それ以後シカの角型のものが多出しはじめる。これが日本の古墳時代に三重県松坂市の宝塚古墳などで出土するV字型威杖の原型であろう。
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だから中国からの青銅器とほぼ同時に鉄も倭国へ入り、青銅器は早々に鉄器に切り替わるのが日本の有史以前金属器時代の特徴である。倭人もまた製鉄=鹿をステータスとした。鹿の皮袋は世界中で製鉄のふいごとなり、角は再生のステータスとなった。それが治金工人が金属を溶かし再生させる技術者としてのシンボルが鹿であり、農耕民の太陽神なのだ。
要するに最も遅く大陸文化がたどり着くのが日本であり、それはまた短期集中型で、完全な形で入ってきた。稲作もまったく同じである。最初から菜畑には江南の最新鋭の水田が作られている。あとから伝わることのそれがメリットである。代々の苦心惨憺があまりなしにいきなり文明が開花する。それは今、ようやく西欧科学と近代化を取り込もうとしている中国やインドやブラジルもまったく同じだ。いきなり短期間で西欧化し、しかしそのために無理と矛盾が生じる。70年かけて西欧化した現代日本は非常に運がよい。さらにそれによって生じた資源の枯渇も、日本は中国やらのようにはいきなり経験するはめにならなかったので、対応策をたくさんはぐくむことにも成功した。
一方、アフガン周辺は最古はパルティァの領土であり、彼らもパルティアン・ショットという独特の馬上から振り返りざま矢を打つ名手であった。つまり今のイランであるが、彼らも砂漠の貿易商でもあり、海のシンドバッドでもあり、スキタイ系?騎馬遊牧民をも含んでいたのだろう。
自主的に製作した上図を見れば、歩搖や金冠の伝播コースがシルクロードであることは一目瞭然である。正倉院までつながる絹の道は、それ以前にも鉄の道・たゆとう王冠の道だったのである。
歩搖は先に書いたように西欧にも伝わっている。
マケドニア、ギリシアの遺跡で、先に書いたヴェルギナやカッサンドレイアからも木の葉の形の揺れる装飾をつけた王冠が出る。
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地中海で対面するからだが、それだけではない。形式こそ違うがやはり垂飾をたらした冠や腕輪はゲルマンから、西欧州に移動したケルトを通じて南欧へと拡散してゆき、フランスやイタリアや英国王や騎士たちの金の王冠・ティアラ・ブレスレットの趣味にも影響を与えるのではなかったか?
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アフガニスタンで出土した下げ飾りのあるティアラ。
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日本では東国茨城の三昧塚古墳からも歩搖付王冠が出土。まさにアフガンの金冠の歩搖にそっくりだ。
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金銅製馬形飾付冠。茨城県・三昧塚古墳、復元品
いわゆる日本にしかないリボン(蝶型装飾)を前面に配置した様式は藤ノ木と同じで、形も藤ノ木と同じ伽耶・慶州系「広帯二山式」である。歩搖は最下部に小さいがずらりと並ぶ。広帯二山式冠は倭国では5~6世紀雄略~継体大王の地方豪族へ下賜した冠形式の威信財なのだ。
茨城県地名と継体大王の関係は大阪府の茨木地名でつなぐことができる。
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旧高句麗の領域である現在の中国北東部からも出土する。
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同じく遼寧省房身遺跡出土の四角形の王冠にも。
この正方形は頭部にかぶられ、歩搖垂飾が王の顔面を囲むように揺れる。こうした中国王の四角い帽冠様式は、西欧の大学の学帽に取り込まれたか?
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それとまったくそっくりさんは奈良県新沢千塚126号墳で出土した。しかもこれは禁制品で金銅製ではない。純粋のゴールドの板金である。新沢の被葬者はいったい誰なのか?5世紀関西では和歌山の岩橋千塚と並ぶ最古の群集墳であることはすでに書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57314860.htmlClik here to view.
推定されている氏族は、秦氏とともに伽耶から来たとされる漢(あや)氏である。
金工技術の来た道
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さて、これらの歩搖ブームの主がすべて慕容氏の祖先である鮮卑族であったかどうかだが、まず時代が遅すぎる気がする。東アジアへ拡散させたのは彼らでよいだろうが、そもそも歩搖そのものは莫が入った東胡あたりにすでにあったもので、それを莫は気に入ったのであるから、それ以前からすでに鮮卑か東胡の別族がモンゴルあたりへ持ち込んでいたのである。ということはやはりその大元は慕容氏以前の紀元前の遊牧民によるものであろう。それが世界の東西に中近東から拡散したのだ。そして慶州とそれらの地域をつなぐ遺跡遺物には、慶州の石積木郭墓というものがあるのである。
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新羅の石積木郭墓
この墳墓形式もまたアフガニスタンにはあるのだ。
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ここだけではない。
木郭墓は世界中に存在する。日本の九州にも近畿にも、ケルト世界にもである。
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またこういう冠帽が新羅慶州にある。
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これは日本の鎌足と百済王余豊璋の大織冠にそっくりである。
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小さな装飾品もそっくり。
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さて、福岡県古賀市の船原古墳は、ちょうど継体大王や磐井の君の時代に相当する古墳で、その主は継体や筑紫の君らともえにしのあった宗像氏の前身であるかとも思える安曇部の族長だったかと考えているが、金官伽耶とも百済とも同じ倭人系海洋民として安曇は長く半島を行き来し、全国に海外の文化や珍品を持っていったことで継体大王以前から九州や日本海、近畿の王家に寵愛された部族だった。それが継体が死んでしまうと安曇は部民となり大和王家から見放されてしまったのだ。それが数百年後、なぜか突如として復活したことがある。天武天皇壬申の乱以後のこと、宗像氏という海人族の族長がいきなり天武に妃をさしだせた。『日本書紀』記述の不思議はここに極まっている。
九州国博黄金のアフガニスタン関連記事にエントリーしたので、あまり過激なことはここには書けませんから。^^;
今回、あえて全公開記事。
画像の一部は各種パンフレットから。
それ以外は上記引用文作者「忘れへんうちに」サイトから。
PS.
騎馬民族は日本へ来たのか?はいつになってもファンの耳目を賑わせて来ましたが、さて、来たというよりも安曇ら海洋民倭人が文化や工芸品を運んだというのが真相でしょう。もちろんぼくはイラン人が飛鳥に来たとも考えますので、契丹や匈奴や鮮卑といったスキタイ系遊牧騎馬民族だって伽耶滅亡時に「秦の民」にまじっていてもおかしくないわけです。ただ、イラン人建築史らは中国~百済を通じて飛鳥へ正式に、仏教寺院建築のために贈呈されていますので、伽耶の亡命とはわけがちがいます。
ということは一時的に彼らのようなあきらかに風貌の違う異国人は、中央には置けず、よそに分かれて入ったかも知れない。どこに?そう、秋田とかにね。
ということは一時的に彼らのようなあきらかに風貌の違う異国人は、中央には置けず、よそに分かれて入ったかも知れない。どこに?そう、秋田とかにね。