●『日本霊異記』とは
『日本国現報善悪霊異記』(にほんこく・げんほう・ぜんあく・りょういき)
平安時代初期
最古の説話集
著者=景戒
上・中・下三巻。変則的漢文表記の仏教説話集
『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)、来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)、前田家本(下巻、重要文化財)、金剛三昧院(高野山本、上中下巻)などがあり、興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い(『日本霊異記』の諸本については小泉道『日本霊異記諸本の研究』1989)
『日本国現報善悪霊異記』(にほんこく・げんほう・ぜんあく・りょういき)
平安時代初期
最古の説話集
著者=景戒
上・中・下三巻。変則的漢文表記の仏教説話集
『日本霊異記』の古写本には、平安中期の興福寺本(上巻のみ、国宝)、来迎院本(中・下巻、国宝)、真福寺本(大須観音宝生院蔵、中・下巻、重要文化財)、前田家本(下巻、重要文化財)、金剛三昧院(高野山本、上中下巻)などがあり、興福寺本と真福寺本が校注本においても底本に用いられることが多い(『日本霊異記』の諸本については小泉道『日本霊異記諸本の研究』1989)
●景戒 けいかい
もとは私度僧(しどそう=優婆塞うばそく。還俗したまま勝手に僧の修行をする者。奈良時代僧侶資格のない者の勝手な僧侶化は禁止されていた。つまり違法独学の修行者が私度僧)
晩年になってようやく国家に僧侶を認められ、薬師寺の僧侶に。
出身:紀州(和歌山)名草郡の漁民で妻子もあった
「日本霊異記」はその間に紀州で見聞、あるいは直接見た、経験した仏教的、霊的奇異譚の拾遺集で、自分が貴族でもない平民それも豪族や神社や王宮ににえを献上させられていた漁民(調=つきの者の身分)から僧侶になれたゆえに、国家が禁じていた私度僧に好意的だった。調の者の多くが、ある意味租を納めていたほかの百姓(おおみたから)から差別された一族でもあった事情があり、そのことも解説するつもりである。
もとは私度僧(しどそう=優婆塞うばそく。還俗したまま勝手に僧の修行をする者。奈良時代僧侶資格のない者の勝手な僧侶化は禁止されていた。つまり違法独学の修行者が私度僧)
晩年になってようやく国家に僧侶を認められ、薬師寺の僧侶に。
出身:紀州(和歌山)名草郡の漁民で妻子もあった
「日本霊異記」はその間に紀州で見聞、あるいは直接見た、経験した仏教的、霊的奇異譚の拾遺集で、自分が貴族でもない平民それも豪族や神社や王宮ににえを献上させられていた漁民(調=つきの者の身分)から僧侶になれたゆえに、国家が禁じていた私度僧に好意的だった。調の者の多くが、ある意味租を納めていたほかの百姓(おおみたから)から差別された一族でもあった事情があり、そのことも解説するつもりである。
「日本霊異記」の最後から二番目の章=下巻末の第38話に、景戒自身の奇異経験など私的な記述があるのでまずこれから読むとこの説話集のできあがる事情がうすうす見えるかも知れない。本文で後述。概略は「延暦6年(787年)には景戒は僧の身でありながら、一方では世俗の家に住み、妻子がいたものの、それを十分に養うだけの財力がないという状態にあった。また、延暦14年(795年)に伝灯住位の僧位に進んでいる。また、その2年後の延暦16年に造立した仏堂に向かってキツネがいくたびか鳴くので不審に思っていたところ、自身の子息や牛馬が相次いで亡くなったという」(Wiki景戒)。
おそらく説話中に登場する漁師たちにも似たような境遇の遭難者がいるが、景戒もそれと同様に、漁師をしていたときには、領主、網元が提供する海の小屋に住み、妻がわずかな畑を耕して口に糊する貧民だっただろう。それだけに彼には同じ貧民や賎民、漁民への慈悲あふれる思いがあったようである。彼らは遭難して戻らない者も多くあったらしく(農家で言えば庄屋と小作=水のみ百姓のような、大変な格差のある生活である)、それは当時、国法違反であるが国司が不問にして、哀れんで食料を分け与える内儀の話なども見える。涙と笑い、ペーソスも充分味わえるはずである。
もちろん仏教説話である限り、そこにコレクションされた怪異は、いきおい、すべてが仏のご利益、仏を信じれば報われる、そむけば自身、あるいは家族に不幸が起きる、だから仏法を信じなさいという仏教拡販的宗教宣伝用コピーであるのはやむをえず、なにもかもが因果応報思想で描かれるのも否めない。場合によっては、その目的のために元ネタを改変、潤色したケースもないとは言えまい。しかしそこには、当時の民衆、漁師やその家族の納税情報や、献上した物品(贄ニエ・調)の詳細、和歌山を中心とする近畿海岸部の情報、地名、地形、その他いつごろ海に出ているか、どこでなにを採集しているか、網本としての紀氏、網子としての漁師の実生活、それをいわゆる税を納めていた農民の生活や形態などと比較できたりと、山のような庶民情報が含まれ、近年重視されてきた出土木簡に書かれていた物品やその納品先などと合致していたりする。
紀州名草郡や海部郡、あるいは海草郡などは、そもそも紀氏に従属する古来からの海人族の多い地域で、景戒も波多村の漁師の出身である。波多は秦氏のはたではなく、海の氏族の波多氏一族とその部民の姓である。太平洋側の良港に多い氏姓。波多野、波多田など。その倭国における派生元は九州有明海の肥前など。それ以前はおそらく朝鮮半島南岸部、伽耶あたりであろうと思われる。肥前、紀州、相模などに多い苗字。また紀氏がスサノヲを祖とする氏族で、任那(伽耶の一部)が実際にあっただろう渡来氏族人名なども登場すること、なぜスサノヲ子孫を名乗るか、なども見えてくる可能性があろうかと思っている。
いくつかの話をピックアップして、日本霊異記を重箱の隅をつつくようにあらゆる事柄、言葉、現象、地名、人名に絡んでみるつもりなのでおたのしみに。それぞれ10数行の簡潔で短い説話だが、つっこみどころの非常に多い民俗誌なので、解説は一章にかなりボリュームのあるものになるかと感じている。