「弥生時代における環濠集落の出現の背景には朝鮮半島南部からの一系列だけのものではなく、より古い縄文時代以来の北方ルートと長江流域との関係が存在した公算が強い、という見解もあるが[寺沢1999]、石器や土器など総合的な文化的所産から考えて、直接的な祖形としては韓国南部地域を源流とするのが妥当であろう。
原三国時代の環濠も含めると韓国では20 ∼ 30遺跡の環濠集落が検出されている。そのうち、集落構造の把握が可能な無紋土器時代の環濠集落は芳基里遺跡、八達洞遺跡、南山遺跡などが挙げられよう。
日本列島の最も古い板付遺跡の環濠と比較してみると、韓国では大栗里遺跡のように比較的古い環濠集落が清原で見つかっているが、環濠集落の大部分は蔚山(芳基里、検丹里)、大邸(八達洞)、昌原(南山)、晋州(大坪里玉房)などの嶺南地方、かつて慶尚道と呼ばれていた半島南東部に集中している。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=xxnX1vt1qA4J&p=%E6%A4%9C%E4%B8%B9%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD&u=www.initiative.soken.ac.jp%2Fjournal_bunka%2F110329_fujiwara%2Ffujiwara.pdf#search='%E6%A4%9C%E4%B8%B9%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD'
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=xxnX1vt1qA4J&p=%E6%A4%9C%E4%B8%B9%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD&u=www.initiative.soken.ac.jp%2Fjournal_bunka%2F110329_fujiwara%2Ffujiwara.pdf#search='%E6%A4%9C%E4%B8%B9%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD'
「日本の環濠集落の祖型は、検丹里(コムタンニ)遺跡にみるように朝鮮半島にあリ、水稲栽培とともにもたらされたものです。先にも述べた弥生時代早期の福岡県・江辻遺跡では、二重に巡った環濠集落と松菊里(ソングンニ)型住居址が十一軒確認されています。農耕技術を持った集団が移住してきて、日本に環濠を造る技術を伝えたことを示しています。
前期後半には、西日本一帯で大型の環濠集落が営まれるようになり、中期にいっそう顕著になります。
長崎県壱岐市の原の辻遺跡は、長軸約620メートル、短軸約300メートルの環濠が巡り、中期後半には、拡大され、三重の溝で囲まれた25ヘクタールの巨大な環濠が形成されています。環濠の外側には船着き場や水田、墓地も発見されています。この遺跡は『魏志』倭人伝に記された一大国(一支国)の郡だったと考えられています。」
(古庄浩明2012)
コムタンニやソングンニから水稲稲作は環濠集落とともにやってきた、と古庄は明言する。
コムタンニ遺跡は慶尚南道蔚山(いざん)市にある。
慶尚南道蔚山市検丹里の位置→ http://map.konest.com/daddr/3171034024
「1990年、慶尚南道蔚山(いざん)市で韓国無文土器時代中期の検丹里遺跡が発掘された。
この遺跡を初めとして、朝鮮南部で15箇所以上の環壕集落が見つかったことにより、板付遺跡のような環壕集落が水稲農耕とともに朝鮮半島南部から伝来したことが確実視されるに至っている。
すなわち、水田稲作農耕技術だけでなく、人を支配するという思想や統治能力を持った、集団の渡来が考えられるのである。」http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html
この遺跡を初めとして、朝鮮南部で15箇所以上の環壕集落が見つかったことにより、板付遺跡のような環壕集落が水稲農耕とともに朝鮮半島南部から伝来したことが確実視されるに至っている。
すなわち、水田稲作農耕技術だけでなく、人を支配するという思想や統治能力を持った、集団の渡来が考えられるのである。」http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html
その本格的な環濠集落と松菊里型の水田が最初に入ったのは博多湾のやや東より、板付水田環濠集落遺跡のやや北側の湾に近い場所・江辻遺跡だったと古庄は上記引用文のように明言する。
「板付遺跡の北東、約7kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という縄文晩期から弥生早期の遺跡がある。
その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居がすべて「松菊里型」と呼ばれる、 中央の炉の両脇に柱を配する、南部朝鮮独自のものであることが判明した。
その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居がすべて「松菊里型」と呼ばれる、 中央の炉の両脇に柱を配する、南部朝鮮独自のものであることが判明した。
このことから、この環壕集落は、朝鮮半島南部から来た“渡来人の集落”であったことが明らかであり、菜畑・曲り田段階の水田稲作が縄文人主導であったのに対し、板付段階のそれは渡来人が主体であったことが、証明された。」
これまでの最古の水田耕作遺跡である西部の菜畑、曲り田遺跡などは縄文的要素の強い、いわば縄文人主導型の水田遺跡である。しかし東部の江辻は直接半島の人々が来て、弥生人主導型の集落を作っていた。例えば『魏志』が書いた「倭人」はでは、どちらの人々だっただろうか?
魏の使者が駐留したのはまず一大率のあった伊都国の範囲内であろう。そこは今の平原遺跡の近くになり、糸島半島に近かったので、板付や江辻のある奴国の領有近くではなかっただろうと考えられる。すると魏志が言う倭人は、まずは伊都国海岸部にいた安曇族のような海中に潜る人々がいたとなる。では奴国より以東の渡来してきた弥生人は「倭人」とは言えないのか?そして伊都国と奴国はこのように縄文系と渡来系の混じり方に差があリ、しかも中心人物も西は縄文中心、東は弥生渡来人中心だったことになり、互いに文化に違いがあったことになる。
以前から博多の那珂川(なかがわ)から西と東では埋葬風習=墓制が違うと書いてきた。この見方は森浩一の著書から得たものだった。結果的に人が違うから墓制も異なったというわけである。その違いが人種の違いにあることはこれで確実である。
北部九州の弥生人にはこのような西と東で地域性があり、別の種族がそれぞれ住んでいた。
それは伊都国と奴国の性質の違うことを示している。
奴国が最初にいちはやく後漢に朝貢し、金印を授受されたわけも彼らが縄文系倭人が主導したムラではなかったからだろう。つまり最新の情報は北部九州の博多の東側に最初に入るのである。このあたりに、おそらく倭国大乱の原因があったのかも知れない。
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