あくまでも読み方の一例である。
この碑文には歴史観が関わるために、読み方はさまざまあることだけは先に申しておく。
391年 倭、海を渡り百済・新羅を破り臣下とす。
396年 広開土王(好太王)軍を率い百済を攻める。平壌(ピョンヤン)に至る。
399年 百済は誓いを破り倭と通じ、好太王は百済を討たんと平壌に至る。新羅、「倭人、新羅に侵入し王を臣下となす。ゆえにこれを奪還するために高句麗に援助されたい」と願う。
(『日本書紀』、「『百済紀』に曰く、枕流王(ちんりゅうおう)王子阿花王(あかおう)、年若輩にして辰斯王王位を奪う」。また応神紀三年(392)、「辰斯王王位につき、(応神)天皇に礼を失することあり。応神、紀角宿禰(きの・つのの・すくね)らを送りこれを叱責す。百済、辰斯王を殺し陳謝す。紀宿禰、改めて阿花王を王位に立てて帰国」に、一年遅れの話になっているがほぼ合致)
400年 高句麗五万の大軍を率いて新羅を救援し、倭軍これにより退却す。好太王これを追い任那・伽羅に迫る。
安羅、そこをついて侵入し、新羅王都占領。
402年 これに対し新羅、今度は倭と同盟をむすばんと、人質を倭に送る。
(百済『三国史記』「新羅紀」に曰く、「実聖王、元年(402))、倭国と通好す。奈忽王子未斯欣(なこつおう・みしきん)を質とす。」に合致。『日本書紀』神功皇后紀に類似記事もあり。)
404年 倭、漢江を渡り帯方郡に至る。好太王これを撃破す。
空白の四世紀を埋めるための貴重な資料が広開土王碑文である。
碑文記事と『日本書紀』記事の、どちらも、どこまで正しいことを書いているかは歴史観の問題に触れるが、互いの言い分はここでは差し置いて想像する。
四世紀後半から五世紀初頭、中国の支配力は弱まる。そのために倭は軍事力をもって百済・新羅を従わせ、半島の支配力を強め、先進文化や文物を導入しようとしていた。しかし半島北部の高句麗もまた北にあった列強により侵略を受け、南下策をとっていた。倭と高句麗は平壌で直接対決するに至る。
この時代の倭国は倭五王初期初期であり、それが畿内(河内?)にある王権だったか、あるいは筑紫その他にある政権だったかは、実のところわからない。『日本書紀』記事もあくまでも百済の記録を引いた書き方で、実際に河内王朝が半島に攻め込んだかは確定不能である。
ただ、『宋書』にあるように、倭五王武の上表文では、武の先祖が列島の東西南北に武力で攻め入ってこれを平定したと書いてきたという。この武の先祖のような武力が本当にあったとすれば、半島へ攻め込むことも充分考えうる。
いずれにせよ、当時の倭は、国力としては高句麗に比べて今ひとつであった半島南部の百済や新羅を支配しようともくろみ、高句麗と対峙したことだけrは間違いないだろう。百済も新羅も、高句麗の独立性に比べると脆弱で、しばらくの間は中国への朝貢によって国としてのアイデンティティをかろうじて保っていた程度だったのだろう。倭もそれはあまり変わりがないが、しかし倭には、大陸事情にあまり関わらない、独自の国内充実期があり、その間、中国は長く乱立の時代が続く。これによって半島南部は朝貢できなくなり、国力も弱っていた。そこにつけこみ、半島の南北の高句麗と倭は一気に半島南部を掌中にせんと画策したのである。
先の軍部が目をつけたのはまずもってこの部分ではあっただろう。状況が非常に似ていた。清は弱り、南朝鮮も弱っていたのである。軍部は『日本書紀』のこの部分を目を皿のようにして読み、帝国主義の大儀に利用したと思われる。
四世紀から五世紀に、近畿では古墳がヤマトから河内へと大移動している。
三世紀末から四世紀にかけては、その前置きとして、九州からヤマトへ、勢力図が書き変わろうとしている。
そのはざまに邪馬台国と狗奴国の対立があった。
同時に纒向では前方後円墳の試作品としての纒向石塚や中山大塚古墳が造られ、箸墓によって大古墳時代が幕開けする。その前の1世紀半ばには唐古鍵遺跡が存在する。纒向のプレ古墳群で卑弥呼の時代にぴったり合うのは中山大塚と少しはなれて黒塚古墳(土器編年が合致)である。
ところが古墳時代に入ると纒向は衰退しはじめ、奈良盆地の西側平群・葛城氏の領有に馬見古墳群が出現。次にこれも衰退し、南郷遺跡に巨大古墳が、そしてついには河内の古市方面へ完全に移動する。この間、要するにヤマト中心部は空白地帯になってしまうのである。
ここが大事なところだ。
河内に大古墳が増え始めるということは、大阪湾、瀬戸内という比較的遅くなった瀬戸内航路を河内王朝が出て行けるようになり、同時にヤマト中心部にあった古い勢力は衰退したということになる。そうして雄略の五世紀、ヤマトの大勢力だった葛城氏や、ともに有力紙族だった吉備王氏も、消されてゆき、雄略はヤマトに移動してくるのである。これによってわかることは三世紀からの邪馬台国あるいは狗奴国勢力の国家は倭五王のもとに支配されたということである。つまり倭五王はヤマトを平定した、卑弥呼たちとは無縁の国家だったのではないかという説の基盤になるのである。
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