前回解説した部分から解説を再開する。
下巻
大海に漂流して、敬(つつし)みて尺(釈)迦仏のみ名を称へ(となえ)、命を全くすること得し縁 第二十五
「長男(丁男)紀臣馬養(きのおみ・うまかい)は、紀伊国安諦郡(あてのこほり)吉備郷の人なりき。小男(せなん)中臣連祖父麿(なかともに・むらじ・おほぢまろ)は、同国海部郡(あまのこほり)浜中郷の人なりき。(ここまで前回解説は済んでいる)
「長男(丁男)紀臣馬養(きのおみ・うまかい)は、紀伊国安諦郡(あてのこほり)吉備郷の人なりき。小男(せなん)中臣連祖父麿(なかともに・むらじ・おほぢまろ)は、同国海部郡(あまのこほり)浜中郷の人なりき。(ここまで前回解説は済んでいる)
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吉備郷は今の有田川町であろう。
追補:尺(釈)迦仏のみ名を称へ(となえ)について
「釈迦仏のみ名」、とは、ほとけの御名前を唱えるということで、助けてもらいたいという呪である。仏に帰依して救いたまえと身を投げ捨てること。「南無」。南無とはインドのサンスクリット語で「ナマス」=帰依するである。挨拶で使うナマステは「あなたを信じます」ということである。
「み名」は称号。仏陀なら仏陀の名前。阿弥陀仏に帰依するなら「南無阿弥陀仏」なのだが、これまでこうした称号の唱文は鎌倉時代から始まったとされていた。しかしその後の研究では少なくとも平安時代にはもうあったとされている。ところがこの説話は奈良時代末の光仁天皇(桓武天皇の父・天智天皇の直系子孫)の頃の話だとなっているから、称号風習はすでに奈良時代にはあったことになってしまうのである。
もちろんこの説話集ができあがる時代は光仁天皇時代よりもあとのこと。その時代に起こった霊威を書いているだけだから、称号唱文があったとすることは簡単なことだろう。霊異記はそういう仏教拡販のためのわかりやすい物語集でしかないのだから、いくらでも前倒しは可能である。
ただ、南都仏教にはすでに空海によって「真言」が届いており、それはやはり呪文として仏の名を唱える・・・ただしサンスクリットで・・・ものだったのだから、そうした手法はすでに飛鳥時代あたりにもあった可能性はある。空海が真言を持ち帰ったと言っても、空海は入唐前から真言密教や真言唱和を知っていたはずだからだ。そうでなければ空海がいきなり真言密教の本場であった江南に渡るわけはない。記録は、それは難破による偶然だとするが、それは空海の霊威を言いたいがための宣伝的展開に過ぎないだろう。最初から空海は真言を極める目的で中国南方を目指したのである。どうやって?簡単ではないか。空海つまり四国佐伯氏=蝦夷俘囚出身の彼には伊予・讃岐(愛媛と香川)の実力者である阿刀大足(あとの・おおたり)という母方の叔父がいたのだ。彼は学者であったが、地盤は交易する海人族である。つまり空海遣唐の船主、パトロンなのだから。(大足という名前はダイダラボッチ、山の神の意味だろう。阿刀という苗字とあわせて、彼らは蝦夷刀鍛冶だったのでは?)
さて、称号とは阿弥陀仏とか仏教教義である「妙法蓮華教」に帰依するときの呪文である。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華教と繰り返し唱えて、その仏や教義に帰依しますと誓うことである。真言も同じである。あなたがいくらか真言宗の葬儀などに参列した経験があるなら、真言宗の坊さんがなにやらわけのわからぬ言葉を唱えるのは聞いたことがあるだろう。あれはサンスクリットの仏の名前を唱えているのである。オン・サバラ・・・なんたらかんたらソワカなどと叫んでは印を結ぶ行為だ。すべて仏教のほとけの名前のインド語である。
こうした、名前を何度も何度も称えるのを呪文とするのに似た風習は、実は欧米にもあるのをご存知?アメリカ映画を見ていると、知り合い同士が出会うシーンで、彼らは必ず相手の名前を呼び合うはずだ。
ハイ、マーク?
ハイ、ジム? 語尾を上げるのは、元気か?という確認である。
場合によってはハーイもつけない。
ただ、
マーク・・・?
ジム・・・?
である。
なんでいきなり名前を呼び合うのか?そう思ったことはないか?こいつら少し気色悪いかも・・・とか感じたことは?
なぜ、まずは挨拶とか天気の話じゃないんだ?
名前を呼び合うところには彼らの交信の意味がある。安心して話していいかを確認せなばならないのだ、大陸では。
必ずそう言っている。そして互いにしばらくじっと目を見交わすのである。それは欧米人・・・キリスト教徒には非常に大事な挨拶「互いに信頼しているという証の、暗黙の”交信”」なのである。名前を呼び合うことに霊の交信が存在する。ところが日本人は、あまりそういうことはしない。出会ったら「よう元気?」「おう、そっちは」「いい天気だね」「まったくなあ」・・・程度でおしまい。名前など、しかも互いにセカンド、ミドルネームで呼び合う習慣などない。よほど小さいときから家族同然の仲間にしか~~ちゃんなんか言わないはずだ。しかしアメリカ人は会社の同僚にでさえ下の名前で、「ハイ、ジョン?」である。この?にこそ相互の交信が見えている。
真言はまずもってそれに近い呪文である。だから仏教は外国から来た宗教だとはっきりしている。つまりアメリカ人の「は~いジョン?」には「まかはんにゃしんぎょう
と同じくらいのシンシアリティ=「あなたに帰依する」思いが集約されているのだ。
そもそも、仏の名前など、唱えてどんなご利益があるのだろう?この説話の二人はしかし、そのおかげで無事に陸地へたどり着く。当然である。説話なのだから。たどりつけずに、どんどん数奇な映画じみた冒険へと、話は広がりはしないのだ。そうしてしまうと、冒険物語になってしまい、説話であることが忘れられるからだ。映画のようにわくわくさせ過ぎては、言いたいことが別のところへ行きかねない。だから『今昔物語』にしてもこの霊異記にしても、中国の説話や『山海経』なども短い、簡潔な文章でできている。長すぎたら、庶民はあきるし、読めなくなる。ぱっと読ませて、ちゃっと簡潔に、しかもなるほど!でなければ駄目なのだ。説話とはそういうものなのである。仏を信じさせること以外の余計なことは絶対言い出さない。
およそ呪文とはそうしたものなのである。神や仏や、助けてあげたい人、愛する人の名前を呼び合うだけのことである。修験道の開祖であるという役の行者ですら、山々を彷徨しながら、孔雀明王の真言を唱えるのである。すると何かご加護があると。信じればそうなるのだ。
前回記事の訂正一箇所・・・ふたりの漁師が流されてたどり着くのは淡路島である。徳島(阿波)ではない。勘違いだった。
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話を続けよう。
「紀万侶朝臣(きの・まろの・あそん)は、同国日高郡の潮(みなと)に居住し、網を結びて魚を捕りき。馬養・祖父麿の二人、庸賃(ちからつくのい)して年価を受け、万侶朝臣に従ひて、昼夜を論ぜず、苦行に駆使せられ、網を引きて魚を捕る。(ここまで前回解説済み)
白壁天皇(光仁天皇=こうにんてんのう、和銅2年10月13日(709年11月18日)~ 天応元年12月23 日(782年1月11日))は、第49代天皇(在位:宝亀元年10月1日(770年10月23日)~ 天応元年4月3日(781年4月30日))。和風諡号は「天宗高紹天皇」(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。)の、宝亀六年の乙卯(いっぽう)の夏六月十六日、天にはかに(にわかに)強く風吹き、暴き(あらき)雨降り、潮に大水漲ひて(ただよいて)、雑木を流し出す。万侶朝臣、駆使に遣はして、流木をとらしむ。長男と小男の二人、木を取りて桴(いかだ)を編み、同じ桴に乗りて、拒み逆らひて往く。水甚だ(はなはだ)荒く急(せ)くして、縄を絶ち桴を解きて、潮を過ぎて海に入る。二人各(おのおの)一つの木を得て、以て乗りて海に漂ひ流る。二人無知にして、唯、「南無、無量の災難を解脱せしめよ、尺迦牟尼仏」と称誦し、哭き叫びて息(や)まず。
其の小男は、巡(ふ)ること五日にして、其の日の夕の時に、淡路国の魔に南面の田野浦の、塩を焼く人の住める処に、僅かに依り泊(は)てぬ・・・。」残りは次回に。
そもそも現代でも紀伊半島は雨の多いところ。山などは年がら年中雨である。それで日高川が氾濫してしまう。
日高という地名は蝦夷樵の地名であろう。「ひた」「ひたか」ひだ」「ひたかみ」地名には蝦夷の日高見という考え方が影響するとよく聞く。意味は「日を高く見る」「火を高く見る」で、太陽か、あるいはやぐらの上の火を目印にしていた場所である。日本海側に巨木の高層建造物が多いことを思わせる地名だ。蝦夷かどうかは知らぬが、そういうやぐらを目印に、船も陸路も家路のランドマークにしていたのではあるまいか?
光仁天皇は奈良時代最後の天皇。天武系であらねばならない時代に、ありえなかった天智系としてにわかに復活した王家である。やがて其の子供に桓武天皇が登場する。こうして平安京へ時代は大きく切り替わったわけだが、問題はその前の聖武天皇だった。この人も桓武も、とにかく遷都を繰り返す。聖武は夫人の藤原光明子の仏教帰依に影響されたのか、突如、大仏建立を思い立ち、光明子は光明子で、父・不比等を正当化するために画策。そこから蘇我入鹿らを反面神とする聖徳太子を思いつく。その前提に、天智天皇の白村江大敗北がある。天智は国中を一丸として唐と新羅の追っ手に立ち向かわねばならなかった。そうでないと彼は筑紫から大和に戻る大儀がなくなる。そこで考えたのが蘇我氏の政治と厩戸皇子の故事である。厩戸を太子に仮託することで、英雄・聖人のいたことを言い始めた。光明子はそれを受けて「聖徳太子」という名前を考え付いたのである。
さて、二人の漁師は、上司である網元の命令で、たくさんの同僚たちと日高川上流に向かい、流木を集めさせられたわけである。流木は大金になる。奈良時代に流木を飾りにする風習があったかどうかは知らないが、どっちにしても木材は高額である。それを紀万侶朝臣はちゃっかり手下に集めさせて、乾燥させて都に売ろうとしたのであろう。つくづく金儲けにさとい男だ。
しかし二人はその流木を縄で編んで、流れに逆らい、上流へむかって逃避行。しかし濁流ですぐにイカダはばらばらになり、二人は一気に下流河口へ流される。海へ出て、そのまま対岸の淡路島に漂着するのである。
古代、河川は高速道路だった。
大和へ向かうには紀ノ川や有田川、あるいは日高川は重要だ。紀伊のように山が多く、木材の多い地域は、杣・番匠がいかだを組んで、吉野山などの材木を難波江へ運んだが、小船なら逆に上流へも漕いでゆけたのだろう、氾濫さえなければ。この二人には漁師としてそういう経験があったに違いない。