「霊異記」上巻
幼き時より網を用ちて魚を捕りて、現に悪報を得し縁 上巻第十一
幼き時より網を用ちて魚を捕りて、現に悪報を得し縁 上巻第十一
播磨国飾磨郡(しかまのこほり=兵庫県姫路市付近)の濃於寺(のおでら)で、奈良の元興寺の僧慈応上人が信徒の招きを受け、夏の三ヶ月の修行を行ない『法華経』の講義をした。
そのころ、寺の近くに一人の漁師がいた。小さい時から網を使って魚を捕ることを仕事にしていた。あるとき、彼は屋敷→(原文は※家(やけ)となっている)の内にある桑の林の中をはらばい回って、大声を上げ、
「熱い炎がおそいかかる」
とわめきたてていた。身内の者が助けようとして近づくと、その漁師は、
「おれに近寄るな。今にもおれは焼けこげそうだ」
と叫びわめいた。そこで親が濃於寺にかけ込んで、夏の修行をしている行者、慈応上人にご祈祷をお願いした。行者が陀羅尼を唱えると、しばらくたってやっと火の難から免れられた。しかし身につけていた袴はすっかり焼けこげていた。漁夫はおそれおののいた。濃於寺へ行き、夏の修行をしている大勢の僧侶の中に入って、動物を殺した罪を悔い、心を改め、衣服の類いを寺にお布施として納めて、お経を読んでもらった。それからというものは、二度と殺生なことはしなかった。
『顔氏家訓』という本に、「昔、江陵の劉氏は、鰻を捕らえ、これで吸い物をこしらえて売ることを職業としていた。後に一人の子供が生まれたが頭はどう見ても鰻そっくりで、首から下はまさに人間の身体であった。」とかいているが、まさにこの説話と同一で、殺生の罪を諭したものである。
※家 やけ
古代の家は「やけ」と読み、単なる家屋や屋敷には留まらず、敷地内にいくつもの施設を持っていた。
「古代には,個々の建物は,ヤとかイホ,ムロ,クラなどと呼ばれ,イヘは建物そのものをさす言葉ではなかった。また,家という漢字はイヘとともに〈ヤケ〉という日本語を表記するためにも用いられたが,ヤケは,堀や垣でかこまれ,そのなかにヤ(屋)やクラ(倉)をふくむ一区画の施設をさす言葉で,朝廷に属するミヤケ(屯倉)のほか,オホヤケ(大きいヤケ),ヲヤケ(小さいヤケ)など,さまざまなヤケが重層して存在していたと考えられる。ヤケは農業経営の拠点でもあり,所有や相続の対象となる古代社会の重要な単位であった。…」コトばんく 世界大百科事典より
だから古代に宮家、三宅、屯倉などという場合の建物は、そういうかなり大きな敷地を持った施設群であろうと考えられる。
宮家は文字通り皇居のような王宮のようなもの、あるいはそういう家柄・氏族。あるいは宮家に勉めることがなりわいの官僚までふくむ氏姓。
三宅は新羅系渡来人の名乗ったかばね、
屯倉は国の徴税施設でコメなどの産物の一時留め置き倉庫と役所である。
もうひとつ筑紫三家連(つくしのみやけのむらじ)という語もあるが、この人たちはのちの筑紫国(北部九州・福岡など)を治めていた人々=筑紫国造家あるいは筑紫君かとも思えるが、神八井耳の子孫であると書かれており、『日本書紀』の言う筑紫国造は大彦を祖としているので、別族だったかも知れない。三家は屯倉を意味する。三つのではないだろう。もうちょっとこれについて。
少々ややこしいが・・・
大彦命は八代孝元天皇の御子で、神八井耳命はおなじ『日本書紀』で神武天皇の御子であるから、系譜が違うことになる。また神武も孝元も実在しない天皇なので、この二人の系譜も造られていること考えうる。しかし大彦の名前は鉄剣にもある。とは言っても『日本書紀』の大彦のことかはわからない。
大彦命は八代孝元天皇の御子で、神八井耳命はおなじ『日本書紀』で神武天皇の御子であるから、系譜が違うことになる。また神武も孝元も実在しない天皇なので、この二人の系譜も造られていること考えうる。しかし大彦の名前は鉄剣にもある。とは言っても『日本書紀』の大彦のことかはわからない。
だからやはり筑紫国造とか君と、筑紫三家連が同じ氏族とは筆者には思えないことになる。
すると神八井耳で同族のような仲間だったと『日本書紀』が磐井の反乱部分で書くところの筑紫三家連は、矛盾するけれど、同じ『日本書紀』の言う筑紫国造家ではないことになってしまう。つまり磐井は筑紫国造家ではなく、風土記が書くとおり「君」であったとなるか?
みやけ・おおやけ・こやけ
現代語の「公」=おおやけの始まりが大家である。これは公私の公的施設、公的集団、公的発言などに使うわけだが、古代大家はそういうものだったのだろう。「をやけ・こやけ」は小さめの公的施設だろう。さてするとなぜ渡来人がみやけを名乗ったのかが気になる。
三宅には
1姓氏録にあるアメノヒボコの後裔渡来新羅王族子孫
2屯倉の役人、特に秩父。
3その後中世以後に三宅という地名を名乗った武家
がある。
ここでは1だけ扱う。ほかは由来がはっきりしているからだ。「新撰姓氏録」が言う古代三宅連氏は、自らを新羅王・昔の子孫と名乗り、日本ではアメノヒボコの末裔だとしてある。どこまで本当かどうかは疑わしいが、宮中に柑橘の樹木を持ち帰った但馬守(たじまもり)の子孫で、アメノヒボコが祖であるとなっている。その柑橘は「橘」となっているが、今のみかんかどうかはわからない。もしかすると金柑でもおかしくないかとも思える。なぜなら金柑は薬草だったからだ。不明。その子孫が三宅連石床である。みやけの・むらじ・いわとこ、生年不明 - 天武天皇9年7月23日(680年8月23日))飛鳥時代末期の人。連を賜うまでは三宅吉士。伊勢国国司だったらしい。壬申の乱で活躍。
続いて下巻第三十で僧・観規という人物を扱う。この人の元の姓は三間名干岐(みまなの・かんき)で、伽耶任那出身の渡来人だった。この記事があるおかげで、伽耶に任那があったことが言われるので大事な人物である。
その後、『日本書紀』が孝徳天皇が定めたとされる地域単位の評が出てくる記事を引用する・
評についてはあくまでも『日本書紀』、あるいは国家が定めた単位で、実は全国の民間では、旧来の郷や村や里やをいつまでも使っていた風が見られる。それは九州に限らない民俗誌的な風習だった。ついでに村と里の違いなども言及したい。
このように「霊異記」には、各地で語り継がれていた奈良以前の事項がたくさん出てくる。記紀や六国史ではわからない民間の生の伝承記録である。そこには多くのヒントと資料があふれている。これを読まないと地方や全国各地の、国が定めた決めごとを守ってはいない、また消された記紀以前の記録の残照すら垣間見え、記紀が語らない古代の謎まで知らないままに終わってしまうから、ぜひ読むことをお勧めする。