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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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霊異記下巻第三十  みまなのかんきについて

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 「年とった僧観規(かんき)は出家以前の俗名を三間名干岐(みまなのかぬき)といった。紀伊国名草郡(和歌山県海草郡)の人である。生まれつき手先が器用で、彫り物、細工などが得意であった。この僧は知恵のすぐれた学僧で、多くの人を指導していた。しかし、世俗の人のように農業を営み、妻子を養っていた。この人の先祖の造った寺が名草郡の能応(のお)の村にあった。名を弥勒寺といい、通り名を能応寺(のおでら)といっていた。 

 観規は、聖武天皇の御代に願を起こして、釈迦の丈六仏と脇侍二体を彫り、光仁天皇の御代、宝亀十年(779)に造り終わった。これを能応寺の金堂に安置し、法会を設けて供養した。それからまた願を起こして、十一面観音菩薩の木像、高さ十尺ばかりあるのを彫ろうとしたが、これは途中まで作れただけで、まだ完成には至らなかった、それに手助けする人もなく、年をとって、老いぼれて力も衰えた。そして自分で彫ることはもうできなかった。

 さて、年とった僧観規は、年齢が八十有余歳に及んだとき、すなわち長岡の宮で天下を治められた桓武天皇の御代、延暦元年(782)の春二月十一日に、能応寺でその生涯を閉じた。

 それから二日の後、観規は生き返って、弟子明規(みょうき)を召して
「わたしはひとこといい忘れ、そのままにしておくことができないので生き返って来た」

といった。そこで座席を作り、蓆(むしろ)を敷いて食事の用意をさせた。そして武蔵村村主多利丸(すぐりたりまる)を講師として招いて、座席に座らせ、食事を勧めて顔を向かいあわせていっしょに食事をとった。食事が終って座席より立ち、明規と親族の人たちを引き連れて、ひざまずいて多利丸に一礼していった。

「観規は天運つたなく命も尽き、十一面観音菩薩の像を造り終えずに、急にこの世を去りました。今、幸いに良い機会にめぐりあい、どのようにわたしの思いを申したらよいのやら。どうかあなたのお恵みをいただけましたならば、これによって、わたし観規は死後の冥福が得られますし、あなたがこの世での功徳をお受けになりましょう。思いあまる心情抑えきれずに、この世に立ち帰って無礼なお願いをいたしました。このぶしつけさ、恐れながらもつつしんで申し上げます」
といった。

 そこで多利丸と明規たちは泣き悲しみ、涙を流して、
「お話しいただきましたこと、わたしはかならず成し遂げたいと思います」
と答えた。観規はこの返事を聞き、立ち上がって礼をし、小躍りして喜んだ。
 それから二日たって、同じ月の十五日に、明規を召して、
「今日はお釈迦様のお亡くなりになった日であるから、わたしは今日死のう」
といった。明規はうなずこうとしたが、師の観規の慈愛に満ちたお姿を見ると、愛情の思いに堪えられずに、偽って、
「いいえ、まだその十五日にはなっておりません」
と答えた。師の観規は暦を持ってくるようにいいつけ、暦を見てから、
「今日は十五日ではないか。なんで弟子たちは偽って、まだ十五日ではないといわれるのか」
とおっしゃった。

観規は湯を用意させて体を洗い、法衣に着替え、ひざまずいて合掌し手に香炉を持って香をたき西方を向いて、その日の午後四時ごろ大往生を遂げた。

 仏師多利丸は観規の遺言を受けて、十一面観音像を造り、法事を行うにあたり、仏像完成の由来を告げて、供養を終えた。この観音像は今、能応寺の塔のもとに安置してある。

 批評のことばに「ああ喜ばしいことよ、三間名干岐(みまなのかぬき)の氏の大徳は。修道心を抱き持ちながら、外は凡人の姿を現している。俗世の中にあって世事に関与しながらも、なお仏道の戒めを破らず、往生するときには西方浄土を望み、生前に残した一事に思いを馳せて、不思議な現象を現された」という。これは尊者である。ただの凡人でないことがほんとうにわかる。」








三間名干岐

三間名は伽耶国任那(みまな)、干岐は大臣クラスに相当する半島での役職名である。
だから『霊異記』のこの文に誤りがないなら、朝鮮には任那は確かにあった、しかしそれが『日本書紀』の言う、日本の出先機関である日本府のことかはわからない。しかし、伽耶滅亡後に三間名干岐を名乗る人が、日本に避難帰化してきていることがわかる。

姓氏録で三間名公は「弥麻奈国主牟留智(むるち)王後也」とある。

任那国、豊貴王の後――摂津国諸蕃 三間名公--観規

つまり任那滅亡後、彼らは摂津を経て紀州名草郡にきたらしい。
ならば任那という国はあったわけだ。
そして今は摂津や紀州にその残り香があっていいこととなる。

『日本書紀』がそれを日本府だとするのは、彼らの伝承を受けてのことかも知れない。くどいようだが、だからと言ってそこが日本府だった証拠にはならない。



能応寺
紀伊名草郡にあった能応寺が、正式名称「弥勒寺」。ゆえに真言宗寺院である。
寺には名前が二種ある。
それがある地域名と、仏教に関連する正式名称(法号)である。
従って能応(のお)は地名、弥勒は仏の名である。
そして頭に寺のある山の名がつく。
こうした風習は七世紀末頃に始まると思われる。
観規が記述どおり任那公子孫なら、この寺はその氏寺だったことになる。
ならば能応村にはほかにも渡来系子孫がたくさんいたことになろう。
山口廃寺だった可能性もある。未発掘。




武蔵村村主多利丸
武蔵は今の東京・埼玉
スグリは漢氏系渡来人の族長。



弟子明規
その名前はほかの記録に一切出ていない。しかし本文に「父」、「弟子」から「わが子」変化とあるから、実子かあるいは養子か。実子なら寺相続に世襲制があったことになる。なお、僧侶の妻帯世襲はインドや・中国・インドシナにはほとんどない。



名草郡能応村
不明



次回、郷と評(いずれも「こほり」)と里について。









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