九州の装飾古墳の中で、異色の具象画を描かれた福岡県宮若市の竹原古墳壁画。
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背後に”竜馬”を置いて、手前には人物と馬が描かれ、最前列は海を渡ることを意味する波文、そして両側に貴人の墓であることを意味する「さしば」が置かれる。
これをスサノオや騎馬民族来訪説に見る愛好家はかなり多い。
考古遺跡、古墳としては珍しい毎日鑑賞のできる、九州でも数少ない古墳である(月曜定休、連休は営業)。
Kawakatuが古代史にはまりこんだきっかけになった装飾古墳でもある。
スサノオのイメージに、海を渡ってきた遊牧民子孫としての秦氏・・・それがこの一枚の壁画に見事に描かれている。
神馬を竜とする思想は、中国の伝説にもあり、華北は広い中国でも民族的に遊牧民、騎馬民族的なDNAの人々の文化圏である。
西アジアのスキタイやペルシアやトルコ(テュルク)の文化が、東アジアへ伝播する道は二つある。真ん中に世界一のチョモランマを持つヒマラヤ山脈を擁するシルクロードの北と南のルートだ。
アフリカを出た人類がサウジアラビアからペルシアに至り
北上と東征を始めたとき、目の前にはカスピ海があった。それで人類はカスピ海の東西へ別れることとなった。その東を選んだ人々は、ヒマラヤ山脈に突き当たり、今度はカザフスタンから南北に。北のステップロードでロシアのバイカル湖に至って、そこで再び、インド・中国の南の道を歩いてきた往古の同族たちと出会う。
ところが、彼らはそれぞれまったく違う環境進化をしており、もはやかつての同族だったことに気がつかなかったのだろう。一方は寒冷地対応し平面的な顔つきのモンゴル民族になってしまっていた。一方は馬と言う「車」を持ったために、寒冷地対応せずに済んだスキタイ民族であった。
現代でもわかる彼らの相違は、言語の文法にしっかりと残る。
北を馬でやってきた人々は、アジアの東岸から日本列島に移住しても、その文法はウラル・アルタイ言語文法であり、南をやってきた人々はインド・ドラビダ・コーカソイドの文法だった。
そしていまひとつ、馬でも徒歩でもない民族がペルシアには生まれていた。船の民である。彼らの海人族としての生き方は、インドシナから島嶼伝いに日本列島まで影響し、倭人と交流した。
この三つの原始人類の血が、日本列島や韓半島南岸部で、やがてひとつになる。
バイカル湖というランドマークが、大きな、陸路のアジア人の出逢いの源郷だったとするなら、インドシナ半島以東の海は、海人族の分岐と出逢いの源郷となる。
遠い過去、もっと悠久の、はるかに遠い過去、バイカル湖では新人とネアンデルタール人とデニソワ人が出会っている。その中で、デニソワの血を引く新人は、柳江から台湾、沖縄へ進出し、一方では海を南下してポリネシア、アボリジニに変化。
ネアンデルタールとの混血で頑強になれた新人は、シベリアからベーリング海峡を越えてアメリカ大陸へ向った。
そしてスキタイ、モンゴルとなってゆく人々は、馬と出逢い、草原を疾風のように駆け抜けて、これまたアジア東岸に至った。
それぞれが時代を経て、つながっていた海を越える。
彼らは日本列島と言う奇跡の島国と奇跡の朝鮮半島で、再び再開した。何度目かの邂逅は、彼らの血の記憶を呼び覚まし、違和感なく融合したものもあっただろう。
ツングース民族、テュルク民族、海人族倭人・・・それらが実に奇跡的に再び出会えた島国・・・それが日本だったのではないか?
国がいくつかの邂逅の地で生まれ、そして最終的に一番大きな倭人の国が近畿にできあがる。攻防の末に、6世紀、やっと国家が生まれた。スサノオの子孫でありながら、彼らの選んだのは母なる太陽神だった。本来、騎馬民族も海人族も太陽神は男神。
太陽神である東王公は馬に乗って東邦の岸辺に立つだろう。そのときセレス人たちは、光りにあふれるハタ屋で絹を織り始める・・・。後漢時代の西方の詩人はそう謳った。
セレス人とは中国人のことである。
『日本書紀』が四道将軍が会津で出会うと書いたのと同じように、ヒマラヤを回ったそれぞれの人類は、中国の華北で再開した。
私たちは、あまねく、スサノヲの血を引く民である。
その太陽神は男子だった。
それがなぜ日本では女神となったのか?
それが書かれた時代の王が女子だったからにほかなるまい。
女神とは、中国の道教の西王母であり、大地母であり、先の詩人尾言う東王公とは東王父のことである。その絵柄が描かれた鏡こそが神獣鏡なのだ。