前記事・私説スサノオ神話誕生秘話、継体大王ヤマタノオロチ説をさらに図説で証明する。
「農耕民にとって、蛇は水をもたらす神だが、ユーラシア大陸のステップ地帯、砂漠地帯、あるいは森林地帯では、蛇は退治すべき邪悪な存在である。
多頭竜蛇退治の神話は、古代メソポタミア地方に生まれ、西はギリシアへ、東はユーラシア大陸北方を蛇行しながら横断し、騎馬遊牧民の集落に立ち寄りつつ、遥かな時間をかけて朝鮮半島に到達したと思われる。東方への伝播にはモンゴルに広範な活動範囲を有していたスキタイが大きな役割を果たした」
るいネットhttp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=272843
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大林太良や埴原和郎らの、従来の日本各分野の学者たちは、これまで日本神話の中の南方神話(バナナ型・ハイヌヴェレ型など)、農耕神話ばかりを追いかけ、スサノオのような北方遊牧民の竜退治神話に気付くこともなかった。筆者もそうだった。しかし、遺伝子ハプログループ分析でバイカル湖起源説が出て、民族学でさえも、大陸世界では中国漢民族王家にだけ存在しない竜退治神話の、なぜ中国にだけそれがないか(南方の長江文明残存少数民族やチベット民族と北方のウイグル民族だけが持つ)は、山口博らの研究から、中国だけが龍を王の象徴としていたから滅ぼせるはずがないのだ、というところに筆者ははっと気付かされたのである。
従来民俗学の南方系神話の分布図
この分析だけでは日本神話の一方しか見ていないことになる。
これだけではスサノオとヤマタノオロチ神話の源流には届かない。
一方筆者が作った「騎馬遊牧民的な竜退治神話を持つ世界の民族一覧」
このように日本神話には南方と北方の双方の源流がないまぜになっていると考えるべきだ。それこそが筆者の言う新しいスサノヲ学なのである。それを拡散させたのは、北方はスキタイや匈奴のような騎馬遊牧民、南方はペルシア海人族であるはずである。前記事にも書いたとおり、スサノオのアマテラスへの仕打ちと記紀が書いたことごとは、実はすべて祝福儀式であり、田を壊す、家に糞を塗りこめるなどの破壊行為はまさに騎馬民族の農耕民族(中国では匈奴の、寒冷化にともなう漢民族への南下破壊侵略行為)への破壊行為そのものである。
※スサノヲ表記は『古事記』に従うならスサノヲであるが、読みやすさを考えれば『日本書紀』その他にしたがってスサノオということになるだろう。ここで気付くべきは、古代において音韻区別に対して日本人が鈍感であることである。これが平安時代前になると渡来半島人書記官によって一時的に音訓表記がきっちり区分された時代が来る。いわゆる上代特殊仮名遣いの時代であるが、これは長くは続いていない。結局、日本人は上下の「O・WO」音の表記区分をあまり意識しなくなったのである。
つまり邪馬台国分析に上代音韻を持ち込んだ言語学者の分析にはなんの意味もないことになるのである。なんとなれば「タイ」のつく地名は東アジア北方に多数あって、それが地名ではなく「臺」やがて「台」「第」となっていった首都の意味の地理用語だと筆者は言ってきた。だから邪馬台国は「やまたい」ではなく「やま」「首都」「国」なのである。
もちろん「やま」は音韻などにまったく関係なく「山都・門」でも「大和」でもなんでもよいことになる。邪馬国の中にある首都が邪馬台国なのである。
そういえば、日本の王家でも、中国王権文化をさかんに取り込む皇極・斉明朝や、道教を取り込んだ天武朝になるまで、龍はむしろ滅ぼすべき仮想敵であったのではなかったか?日本神話のスサノオのヤマタノオロチ退治は、前回書いたように、越=福井からやってくるというオロチを退治して、イズモに製鉄文化が入る・・・「越の八岐大蛇」とは、福井の三尾の九頭竜川に母方を持つ継体大王のことだと考えるのである。そして継体こそが北方ステッップロ―ドを駆け巡っていたスキタイ系騎馬遊牧民の子孫だと言ってしまおうとも思う。
継体大王がイズモを奪い取り、筑紫・東国の海人(倭人)連合によっていた大陸との交流を、一気にヤマトへ引き込んだ最初の王であると言える。彼が筑紫君と下毛野君を殺した理由もそこにある。倭五王まではヤマト以西の河内までが中心の王権ばかりで、ヤマト王権はあくまでも盆地山奥内部だけの地方王権に描かれているのが、継体が登場すると一気に東日本まで含めて筑紫まで、大王権としてのヤマトが立国するかに見えている。そして飛鳥時代、ヤマト朝廷が確立しはじめるのである。作られた人だったとしても、継体は国家統一の象徴的新人類として扱われている。
その継体の母親が福井の三尾氏出身であることは、近江海人族息長氏への嫁入りによって、確実に、それまでの壱岐・対馬ルートではない、琵琶湖~越前ルートの開発につながり、やがてイズモ半島に囲まれた宍道湖という日本海で最も優秀な潟湖良港確保へ。イズモをとることはそのまま紀州海人族から紀ノ川で吉野まで、あるいは対岸の淡路島や水銀のある阿波・讃岐まで手にすることとなるわけである。
継体の筑紫君包囲網についてはもうかなり以前に金冠や武器の配分分布図を作って解説してある。その中の二山式王冠のスタイルは、もともと新羅からスキタイ民族カザフスタンまで分布していた歩揺式金冠の変形簡素化した形式である。やはり継体には限りなくスキタイ騎馬遊牧民のイメージがまとわりつく。
ちょうど継体が天皇であった時代の『常陸国風土記』に「夜刀神 やとのかみ」というオロチ・ミズチ状の古い神々を新しくやってきた役人が滅ぼし平定する話がある。これもまた継体大王時代が、そのように九頭竜川のオロチとして到来し、新政権を開いたことの、日本神話とは反対の書き方であろう。こちら風土記では新政権の役人がオロチを滅ぼすのだ。
一方、イズモには銅の文化が銅鐸も銅剣もが交差していて、そこへスサノオが降臨してから、ようやく鉄器文化への切り替わりの痕跡が見られる程度。スサノオもまた龍を退治する限りは華北人ではありえず、継体同様に北方騎馬遊牧民の神話主人公に仕立て上げられている。両者のどちらもがスキタイや匈奴である、あるいはそうイメージされて書かれたのである。ところが『出雲国風土記』のスサノオはまったく地方の農耕神としてしか描かれてはいない。出雲ではスサノオは重要な神ではない。であるにも関わらず、紀州熊野の大神は出雲の熊野から南下したスサノオの子供に見えていて、熊野大神はオオクニヌシと並ぶ出雲の国魂だと出雲国造家は言い募る。すなわち出雲国造とは在地ではない、中央から送り込まれた管理者・監視人なのである。
さて、『日本書紀』は龍=華北王権を滅ぼすべきものとした中国にとっての猛悪民族である騎馬遊牧民の思想を、そのままスサノオにおっかぶせ、それに対する越のヤマタノオロチもまた北方の遊牧民であるとすることで、ヤマトの王権には他人の喧嘩(けんか)にしてしまおうという記紀の意識が垣間見える。つまり日本海文化圏すべてを南方系島嶼文化の従来の日本人とは完全に区別し、やれ鼻から生まれるだの、田んぼを壊して糞をまくなどの、あくまで騎馬民族の風習で彩っている。
継体もまた、その登場は越、近江という畿内の埒外にあった野蛮人から出たような書き方である。道教思想に言い換えれば、ヤマトは西王母で、スサノオや継体は東王父か?
飛鳥時代になり、蘇我王権が終末になると、天智はいきなり新羅・唐に戦いをいどみあえなく散る。天武をはさんで、藤原政権下では内向き文化が蔓延し、遣唐使も菅原道真の提言で立ち消えになり、主に新羅とだけつきあうようになる。そこには天智以来の中華=仮想敵国、龍、退治すべきものという騎馬遊牧民族の思想の必要性が見えてくるのではないか?藤原氏の政治が復活した平安時代以後も国風文化が咲き誇り、ヤマトはいよいよ内向きになってゆく。もし藤原政権がなければ、日本と中国はずいぶん仲良くしていけたかも知れないではないか?
以上が筆者の新しいスサノオ理解である。
詳細は出展してある山口の詳細分析をお読みいただきたい。