いよいよ「新しいスサノオ論」は最終章とあいなった。
なぜイズモの神を天孫の三柱の貴神に仕立てねばならなかったのか?
ここが肝である。
そしてそのスサノオが国土イズモにおいては、なぜオロチを退治するヒーローにされたのか?
かつ、その後のスサノオが、なぜ武塔の神(ムーダン)として青き蓑笠姿で、蘇民将来説話に再び登場するのか?
すべての答えは大和の王権にとっての・・・いや、飛鳥の継体~蘇我王権にとっての、イズモという港の、「日本海交易における政治的最重要性」に隠されている。
それゆえにこそ、イズモは祟る神のいた場所になった。
滅ぼしたからである。
その時代は、神話のような太古の話ではなく、奈良時代からさほど遠からぬ飛鳥の前の継体大王による日本統一の時代である。
継体は筑紫に対抗できる良港を探していたことはもう何度も述べてきた。それは琵琶湖から福井へ出て出雲、出雲から百済へという、筑紫君磐井とは別の海上ルートの確立である。ヤマトには、イズモほど、日本海で最良の、半島に最寄の場所はない。それ以上西へゆけばもう筑紫の強力な勢力圏だった。
そのために継体はイズモを簒奪せねばならない。殺戮と暴行と侮蔑・・・。
蘇我王権は、継体の王権を受け継いだ葛城系子孫だった。
それは古代においては、イズモがヤマトにとっての祟り神になったことになる。
ゆえにこそ、オオクニヌシは三諸の山(三輪山)に祭れと言ったのだ。彼もまた、大和大物主同様、ヤマトにとっての祟り神となったという意味なのだ。完膚なきまでにそれを滅ぼしたからである。
そのためには、イズモの主力神ではならなかった。あまり知られてもいない神がよかったのだ。その神スサノヲをヤマトの王家の祖先神のひとつに、どうしてもせなばならなかった。そうしなければ、殺されたイズモの神々の祟りがくるからにほかならない。
けれど、ただでイズモのスサノオを兄弟にするわけにはいかぬ。彼には一度、黄泉へ落ちてもらわねばならなかった。そのみじめな道行きこそは、スサノオとイズモにとっての「通過儀礼」だったのではないか。
是《ここ》に、八百万《やおよろづ》の神、共に議《はか》りて、速須佐之男命《はやすさのおのみこと》に千位《ちくら》の置戸《おきと》を負はせ、亦《また》、鬚と手足の爪を切り、祓へしめて、神《かむ》やらひに、やらひき。
又、食物《くらひもの》を大気都比売神《おほげつひめのかみ》に乞ひき。爾《しか》くして、大気都比売《おほげつひめ》、鼻・口・及び尻より種々《くさぐさ》の味物《うましもの》を取り出して、種々《くさぐさ》に作り具《そな》へて進める時に、速須佐之男命、其《そ》の態《わざ》を立ち伺ひて、穢し汚して奉進《たてまつ》ると為《おも》ひて、乃《すなわ》ち其《そ》の大宣津比売神《おほげつひめのかみ》を殺しき。
故、殺さえし神の観に生《な》りし物は、頭に蚕《かいこ》生り、二つの目に稲種《いなだね》生り、二つの耳に粟《あわ》生り、鼻に小豆生り、陰生《ほと》に麦生り、尻に大豆生る。
故《かれ》是《ここ》に、神産巣日御祖命《かむむすひのみおやのみこと》、玆《こ》の成れる種を取らしめき。
あわれスサノオは重い荷物を背負わされ、爪をはがされ、神やらいに地上界へと追放されてゆく。堕ち逝くスサノヲは青き萱の蓑笠を着て、堕ちてゆく。スサノヲはそのときから一介の民の信じる「来訪神=武塔の神」へと変化したのである。
宿をこうても、その身なりで断られ、ようやく命からがら蘇民将来によって招き入れられる。まさに来訪神、精霊である。落ちぶれたスサノヲは、まさに太田道灌さながら。髪はざんばら、頬はこけ、垢だらけ、背中にはダニやノミがたかる始末。
これは源義経ではなかろうか?
そういう通過儀礼の末に、イズモに降り立つと、今度はヤマタノオロチに苦しむ良民を救わねばならない事態に・・・。
そうやってようやくスサノオは地上の王になれたのだった。
ところがオロチから出てきた草薙剣は、またアマテラスへ献上するという忠臣ぶり。
もう前に、アマテラスへは自らが呪をもって生み出した男神五柱を献上しているというのに。
これほどやったと描かれねば、スサノオはヤマトの祖先の一人にはなれなかったのだ。
しかも結局はスサノオもその後継者オオクニヌシも祟る神にされてしまうのである。
紀氏がそうだった。大伴氏も物部氏も、そして蘇我氏も。みな、敗北した王権だった。
やがてイズモと、スサノヲが息子を連れて入った紀伊・熊野で、彼らは鎮魂されたのである。補陀落(ふだらく)渡海信仰の平安時代になってやっと。
その荒ぶる魂は、紀氏たちの手によって、空海のいる高野山を控えた僻地熊野におさまった。そこは第二の黄泉、根の堅国でもあった。
紀氏も蘇我氏もヤマトが追放した葛城・吉備王権の子孫なのである。そう、武内宿禰の末裔たちだ・・・。宇智(うち)の臣下なのである。だから紀氏たちが連れてきた渡来人たちもスサノヲと武内宿禰を敬い祭ったのだろう。奈良でも山背でも。檜隅の漢氏でさえもが。
おまけ
オオゲツ姫は淡路の女神。
阿波、淡路の「あわ」はあわ・ひえの粟である。食物、五穀を献上する国がここであった。それはアマテラスには豊受大神であり、秦氏には稲荷でもある。ゆえにオオゲツヒメとは庶民からの贄や租庸調の象徴であり、同時に巫女神の斎(とき)の係りなのである。それをまた天皇の名にするならば、「とよみけかしぎや」ヒメとなるであろう。推古女帝である。豊・御毛・炊飯・姫。