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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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霊異記に見る村・里・郷・評  戸制は民間で無視された

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戸制
大宝律令(701)以降に「ヤマトの王権」により定められた行政単位

戸(こ/へ)とは、戸主とその下に編成された戸口と呼ばれる人々から構成された基本単位集団。戸籍・計帳の記載単位。
あるいは里・郷・保の構成単位となり、地方行政単位の最末端に位置づけられるもの。

「律令」戸制以前
日本においては律令制以前の6世紀以降(鎌田元一によれば評の制定は孝徳天皇朝『律令公民制』2001)に、ヤマトの王権が伝統的な部に属しない帰化系氏族を組織・掌握するために部分的に採用されたと言われている。

大化の改新後に新羅などの制度などを取り入れる形で施行されていったと考えられている。『飛鳥浄御原令』の段階で、50戸=1里の編成が正式に採用され、以後里制(郷制)終焉までこの基本原則に変わりが無かった。これが国―郡―里制度である。しかし最近の考古学の発掘で、多くの木簡に、「●●国●●郡五十戸」という記録が書かれてあって、実際には「里」は50戸という単位が先行しており、その後それを「里 り、さと、こざと」と言うようになったようだ。

戸とはどんな状況だったか?
戸は今使う一軒とは違い、かなり広い敷地を言う単位である。なぜなら一戸の中には戸主一家だけでなく、氏族で言う人・首・部・奴婢といったあらゆる血脈以外の一族が仕えており、それらも含めての一戸であった。つまり使用人や奴隷が住まわされている区画すら一戸に入ったのである。これは江戸期の商家を数倍に膨らませたような「集団」だったことになる。従業員から奴隷まで、だからその戸主の姓を名乗っただろう。

前述した「霊異記」に登場する紀臣とか中臣連とかいうかばねも、おそらく下層だが名乗っていたと考えられよう。考えてみれば戸主、あるいは氏族の長にとっては、かなりの責任を隅々まで行き届かせる必要があったに違いない。なにしろ、素性知れぬ奴婢まで同姓のうちに入ってしまうのだから。

さて、701年に大宝律令によって律令制の中の戸制について規定がある。

第一条 凡そこれ戸は五十戸を以って里となす

律令以前までは木簡にある通りまだ「里」がなく五十戸となっていた。
やがて「50戸=里 り」が生まれる。
おそらく天武よりあとである。

ところが奈良時代末~平安の『日本霊異記』を見ると、そのほとんどに「里」は使用例がない。多くが「村」となっている。どういうことか?

資料はここでは掲載しないが、『民衆の古代史』を読まれたい。

つまり里単位の行政施行が、地方にまで及んでいなかったのである。

これは評や郡にも言えることだった。
評は、国の孝徳大王(難波宮の飛鳥時代。天智の叔父)が決めた行政単位で、のちに郡に変る。孝徳大王の治世は非常に短く、すぐに皇極・天智によって打ち捨てられたため、孝徳は病んだあげくに死んでしまう。そのため、評単位は極めて短い期間しか使われなかったため、全国に広がる前に消えている。それが天武以降、大宝令で郡になる。いずれも読み方は「こほり」で、今で言う「ぐん」にあたる。

律令以後、国―郡―里の行政単位になったはずだった。しかし、霊異記にあるように、地方では里を使っていない。では村と里はどう違うのか?


村(ムラ)は民間で決めていた弥生時代からあった単位である。それがほぼ明治時代まで民間では存続した。

一方、里は、国の行政単位。行政上は里であっても、在地地元民はそれを使わない。いや、知らなかったと言って良いだろう。せいぜい知っているのは国の役人と対応できたムラ首長だけである。以下にわざわざ言って聞かせる必要もない。言っても無学文盲だから理解しないだろう。

それで地元民の間では、いつまでもムラは村のままだった。だから50戸の里よりも範囲が広いルーズな範囲の村には、複数の行政上の里が存在することになった。多いところで3つ以上あった地域もある。筆者が知っているのは大分県玖珠郡に里がいくつもある。


さて税の話である。
これも出土木簡によってわかったことだが、租庸調という租税以外に、木簡にはやたらニエが記載されている。ニエ、大ニエ、御ニエなどとある。次に品名が来る。アジ、鯛、黒鯛、鮑、にし貝・・・などと本当に書かれていて、どこどこの国のなになに郷の、どこそこからどれくらい、だれそれに・・・まで書かれている。だから伝票である。そこには記紀のような主観的潤色は一切ありえない。完全な客観資料である。うむを言わせない。

つまりそのニエとは、租庸調の払えない下層民からの献上物だったことがわかる。ところがそお品目のまあ豪華なこと。高級魚介類や特産品、加工品のオンパレードだった。長屋王などは、毎日それらを食べていたのである。セレブだったのである長屋王は。

その流れは明治直前まで続く。それがいわゆるのちに「御用達 ごようたし」商人になるのである。彼らはほとんどが元は賎民出身者である。まずもって間違いなく全部がそうである。そうやって氏族の回復を成し遂げようと言う涙ぐましい努力。だからそれは古墳時代の古墳職人でしかなかった土師氏から菅原道真が、四国の蝦夷俘囚でしかなかった空海が、あるいはただの紀州の漁師漁民でしかなかった紀氏から貫之が出たのと同様の行為で、まったく見下げることではないはずだ。儒教導入以前の日本では、敗北被差別氏族であろうとも朝廷にあがるチャンスがあったわけである。なんとなれば源平の武家ですら、最初は貴族の門番に過ぎない。

まだまだ霊異記には話題があるが、一旦これで終わっておきたい。
資料のある分析はとにかく疲れる。

次回から・・・さて?
おたのしみに。

スサノオもまだいろいろ残っているかな?

いやもっとスケールの大きな話題を探してみましょうか。






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