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卑弥呼・男弟・壹與の墳墓はここ

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考古学的発掘結果に準じるならば魏志邪馬台国時代にジャストフィットする遺物が出ているのは大和(おおやまと)古墳群の古いプレ前方後円墳(纒向型弥生墳墓)しか「まだ」ない。今のところ推定充分な墓は、、、
 
卑弥呼・・・中山大塚墳丘墓・・・理由、庄内式土器の編年が3世紀後半の形式で合致、吉備型特殊埴輪出土
壹與・・・箸墓古墳(箸中山)
男弟・・・黒塚古墳・・・・・・・・・・・理由、庄内式土器及び画文帯神獣鏡、U字型鉄パイプ遺物が魏が難升米に与えた黄幡に類似
そしていずれも纒向のある奈良湿地帯の上にある河岸段丘上に立地している。ひとつ小高い場所に造られたのは纒向石塚やホケノ山というもっと古い墳墓のあとである。そして黒塚と中山大塚のサイズはともに130メートルで径百歩に近い。壹與の箸墓はその倍以上あり、葺き石などもさらに立派になっており、過去の発見された土器などからも、時代が少し下がる。
 
この意見は古庄浩明説に合致する。
 
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纏向遺跡からは弧文の刻まれた円板もでている。
この模様は筑紫西部に多い直弧文や葛城地域、摂津地域の直弧文、さらに吉備の弧帯文と類似する。
 
 

 
もっともこういう意見もある・・・。
 
4.4 卑弥呼の塚
■「卑弥呼の塚」は何処か 
 奈良盆地の東側の山麓に沿って、北から大和(おおやまと)古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群の3つの古墳群がある。これらの古墳群で、3世紀に造られた古墳を表3に示す。この中でヒエ塚古墳、ノムギ古墳、纏向勝山古墳、東田大塚古墳は3世紀後半とされ、布留0式の土器が出土していることから270年を遡ることはない。中山大塚古墳は特殊台形土器が出土したことで、箸墓古墳と同時期かさらに古いとされたが、円筒埴輪が含まれていたことが明らかになり、箸墓古墳より新しいと考えられる。波多子塚古墳は出土した埴輪や土器式から、東殿塚古墳よりやや新しく3世紀末よりも4世紀初頭の可能性が高い。結局、邪馬台国が奈良に在ったとすれば、年代からみてマバカ古墳、纏向矢塚古墳、纏向石塚古墳、ホケノ山古墳の中に卑弥呼の塚があることになる。ただし、ホケノ山古墳からは庄内式とともに、布留式の土器が出土しているため、年代の見極めが難しい。
http://www.kurumi.sakura.ne.jp/~mmrnet/yamataikoku/himiko4.html
 
 
 

 
 
ひとつ前にアップしておいた記事から類推するに、黒塚古墳被葬者はもと奴国王ではあるまいか?1.5世紀の金印を後漢から与えられた王の名前が「奴国王・帥升」で、「帥」とは九州では「王」「族長」を表し、「升」は難升米にもつけられている。代々世襲した文字だと考えられる。つまり難升米の読み方は「奴のますめ」で、「米=め」は巫覡を表す言葉である。奴国の族長の血脈であろう。
 
彼こそが魏志が言う、卑弥呼の男弟だったのではないかと思う。
その墓が黒塚古墳だろう。
ならば埋葬当時には銀印も置かれていた可能性がある。
 
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纒向型墳丘墓は箸墓で完成し、その後西日本に拡販してゆくが、それ以前に、大和では弥生墳丘墓は周溝墓が多い。この周溝墓を九州で多く造ったのは筑紫東部の奴国の領有である。西部は長江経由の甕棺。
 
大和と奴国が縄文的な伊都国よりも血脈的に近しかったことの証明である。
 
 
記紀神話との整合性はどうか。
崇神紀には崇神が宮殿内に持っていたアマテラスと倭大国魂の神霊を移したまいて、大物主をあらためて祭らせた、とある。倭大国魂とは黒塚古墳北部の大和神社祭祀者だった倭国造・倭直(やまとのあたい)氏が祭った奈良盆地の国魂である。アマテラスとは筑紫西部に起因した長江系海人族の太陽神であり、南九州の山の神から生まれる各種大地母と合体させた海人系の女神である。これを記紀はアマテラス=卑弥呼、倭大国魂=男弟にそれぞれ比定しようとしていたのではあるまいか?
 
こうしてみると考古学的にも文献的にも、邪馬台国は筑紫博多の北東部、志賀島から板付地区の奴国から続く南朝鮮伽耶連合の版図にあった検丹里遺跡の加羅国系渡来人国家と伊都国の長江海人族縄文系国家の連合である。
 
 
そう仮定すると、あとの時代の日本語。文化の基層にある縄文系と渡来系のミックスマッチがなるほどになる。また逆に伊都国的甕棺風習が消えたこと、周溝墓から前方後円墳という邪馬台国的な墳墓様式の大流行も整合になる。
 
では伊都国は一大率を設置されるほどの中心国家ではなかったのか?という疑問が残る。それは監視施設だと魏志は書いている。つまり伊都国こそが監視されていた。そして取り上げられた地域である。伊都国にはその後の古墳時代で海人系の装飾古墳が見当たらない。糸島半島を根城にした筑紫国造家の祖先はヤマトの膳氏系の大彦=多氏である。
 
伊都国は南九州の狗奴国的な海人族・隼人と最初に婚姻関係を結ぶが、ヤマトではその神武とコノハナサクヤの子孫タギシ耳が多氏祖先であるカムヤイミミによって殺され、母方血脈をたちきられるのである。そして越の名前を持つヌナカワ耳が次の天皇になる。つまり崇神の三輪王家とは多氏血脈天皇になっている。崇神が大和大国魂を追い出す意味は、その倭直の祖先が播磨・豊後の海峡を牛耳っていた椎根津彦だったからである。瀬戸内航海を牛耳っていて瀬戸内が自由に横行できない。そして関門海峡も同じく牛耳っている氏族があったがそれは筑紫東部の奴国である。
 
奴国は遠賀川式土器と稲作と鉄器を広めた國である。
 
 
このように伊都国と奴国の間にあった以外な反目関係に気がつけば、邪馬台国は以外にあっさりつきとめられる気がする。
 
しかし謎の四世紀、大和にあった邪馬台国は河内の勢力によって突然政権交代する。これが騎馬民族的な征服国家である倭五王政権である。
 
彼らの巨大古墳は大和古墳群の纒向型を簒奪し、大型化し、さらに内部には鉄器と武具、馬具であふれさせ、外側は出雲的・高句麗的な葺き石と、水の祭祀で張り巡らしてある。きわめて大陸色の顕著な見せる古墳になってゆく。
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