山口博も書いていることだが、日本の古代史は坂本太郎の唱えた理論でできていたと言ってもおかしくない状態だったが、そろそろ彼の考え方の修正がほどこされていかねばならない段階になっていると言える。
往古の歴史家、研究科のほとんどが坂本の幻想にとらわれすぎていて、新しい着想に重いがなかなか至らない。しかし律令国家体制が奈良時代からあったのだ、それはその前の聖徳太子と蘇我氏と秦氏が作っていたプレ律令を基盤に、天武以後、大宝律令で成立し、奈良時代に養老律令となって開花した・・・。
その坂本の整然としたいたはずの論理が、昨今、クエスチョンと批判に晒されるようになった。
まず聖徳太子を基盤に考えられた坂本の考えが、聖徳太子は実はいなかった、あとから作られた聖人物語だったとなり、根本から崩壊しかねない状況に。さらに『日本霊異記』の中に出てくる平民や私度僧たちが、生き生きとして生活し、ニエを納めている状況は否定できず、しかも律令が定めたはずの法律が施行されていない部分が多い。おめこぼしが多かった。そして地方へゆくほど例えば筑紫の観世音寺の記録などもそうだが、けっこう地方は自由に人々が変更や潤色がしやすい法律だったことを述べているなど、実は律令体制が完全履行されてはいない・・・「なんちゃって律令国家」だったことが見えてきたのである。
つまり表面上の法治国家であり、内情は地方へ行くほど実は「放置国家」で、租庸調やニエさえちゃんと納めていれば、中央はほとんど地方政治や法に関与していないのだ。
だから最近では、近代からしか日本の法治国家体制など実現していない、とまで学者が言う時代になったのである。
ちゃんと昔、歴史を習った人ほど面食らうはずだ。
だが広瀬の前方後円墳国家理論でも、地方ではやはり定型的墳墓のおきてなど無視されていたのだから、日本はアバウトである。江戸期でも徳川の御意向は武家は守っても、民衆は知らん顔。なんとなれば明治時代まで、平民のほとんど誰も天皇のことを知らなかったわけである。日本は建国以来、民衆はなにそれ?誰それ?の時代だったのだ。
われわれは古い学校の教えてきたことは一回忘れたほうがいいのかも。