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貧窮問答歌的古代庶民イメージは間違い? 逆転している歴史

『万葉集』巻五に載録されている。律令体制下の公民の貧窮ぶりと里長による苛酷な税の取り立ての様子を写実的に歌った歌で、長歌とその反歌である短歌それぞれ一首ずつより成る。成立年は憶良が筑前守に在任していた天平3年(731年)から国司の任期を終えて筑前国から帰京した天平5年(733年)頃にかけてとされる(ちなみに憶良は帰京後まもなく没したと推測されている)。
題である『貧窮問答歌』の意味については近年までは貧者が更にそれよりも貧しい窮者にその窮乏を問うものであるというのが定説であったが、現在では貧者に対する問答の歌と解して役人が貧者を尋ねているという説が有力視されている[1] 。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A7%E7%AA%AE%E5%95%8F%E7%AD%94%E6%AD%8C

Wikiには一方で、こういう正確で現在的なことも書く人がいる。
これまでは、奈良時代の庶民の困窮振りを描いたと評価されたが、昨今ではそうではなく、官吏だった山上憶良のような役人が、そんなことでどうするのか?と問いかけている歌だと考えられるようになったという。

要するに、古代は貧困者たちばかりではなかったという話である。
というのも「霊異記」「今昔」などに描かれた庶民には、毎日仕事で生きている人々が生き生きと描かれていて、全部が全部、古代庶民は租庸調にあえでいたわけではないのである。

むしろこの問答歌は、税を取り立てる側から、貧民への厳しい喝、檄の意味があったというのだろう。税には何種類もあり、払えないなら労働(庸)や、にえと呼ばれる調副物(調以外)の納入が認められており、けっこう政治が庶民によりそっているのが見えるのである。決して無理は言っていない。むちを持って取り立ててもいなかったのだ。そうではなく、むちは、ちゃんと働けよなのである。さらに庶民にはおめこぼしも記録された。本来の律令どおりにはやっていないのだ。

優婆塞にも百杖の刑はしておらず、罪人は死罪ではなくほとんどが流刑・配流・ところ替えで対処している。武家社会ほどのみかじめ料の世界ではないのが古代だった。

従って、今、貧乏な人々が貧窮問答歌を政治不備への言い訳にしたがるのは奇妙なことになるかも知れない。あの人たちは、本当に自分の意思で働かない指導せねばならない人々だったと。

逆転するよね。価値観が。今の学校ではそうなってきているんだよ。そりゃあ変だ!って言うのは筆者以上の年齢のものだけになっちゃったな。


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