「ユーラシア北方には、多頭の大蛇を退治する英雄叙事詩が数多く存在するが、その系統には二種類あり、一つはロシア英雄叙事詩系、一つはモンゴル英雄叙事詩系であり、中国の少数民族の伝承の多くは、このモンゴル英雄叙事詩系と考えられる。
中国北西部、ロシア、東欧に多頭竜蛇退治の話が存在するということは、さらに西方にルーツかあることになるが、大林太良か中国東南部の大蛇退治の話を挙げ、「さらに遡って行けば、中国北西部を経てイラン人に遡るという経路か考えられる」(「神話と神話学」)と述べたように、西方の多頭竜で最もよく知られているのは、「聖書」ヨハネの黙示録十二章三節の赤い巨竜である。
ゲセルが十二頭僻古斯の十一頭まで斬り落とすと、蟒古斯は助命を哀願した。躊躇するゲセルに、家来はせかした。「早く斬り殺さないと、そいつは銑鉄に変わり、斬れなくなりますぞ」。
ゲセルは蟒古斯の最後の頭に斬りつけたか、刃が立たない。脇の下も同じだった。ようやく腹部を斬り割くことかできたが、その途端、体内からは熔鉄がほとばしり出た。蟒古斯の霊魂は鉄剣の材料となる熔鉄に化したのである。
スサノオに斬られたヤマタノオロチの尾からは草薙剣が出現し、ヤマタノオロチの霊魂は不滅の鉄剣に化成したのである。
竜蛇退治の神話は鋏力の威力を語る神話でもあり、怪物退治には、そのために鍛えられた特別な武器か必要だった。
ギルガメシュは怪物退治のために新たに青銅剣を刀鍛冶に造らせている。「バアールとアナト」では、バアールが七頭の竜と戦う時には、神の鍛冶屋コジャルと(シスが造った梶棒を使用する。
ヴェーダ神話では、インドラか悪竜ヴリトラに挑みかかる時、彼は工芸神トヴァシュトリにより考案された矢を身に帯びていた。
スサノオの佩く十拳剣には、そのような製作のいきさつは記されていないが、特鋳の剣であったことは、「日本書紀」第八段に蛇の竟正(一書第二)、蛇の韓鋤剣(一書第三)、天蝿研剣(一書第四)、「古語拾遣」に天羽羽斬とあることからも推測できる。
多頭竜蛇退治と名剣説話とは、ユーラシア全域で密接な関係を持ちなから伝播したが、スサノオの神話も、その流れの中に位置付けられるのである。」
竜神を退治する神話は、トルコの首都アンカラの東にあるハトウシヤ遣跡から出土した粘土板に描かれているが、ハ卜ウシヤは紀元前十七世紀から同十三世紀に繁栄したヒッタイト帝国の都のあったところである。
女装の英雄か酒に酔った竜神イルルヤンカシュを退治したり、英雄と結婚する女神か登場するなど、スサノオ神話に類似する点か多い。
このヒッタイトの竜通治の神話は。ギリシアにも伝わえり、ヘラクレスは、沼地に棲み家畜を襲い土地を荒らす、九頭大蛇ヒュドラを倒し、その体を引き裂き、猛毒を含む胆汁を矢に塗り付けて己の武器とし、次には百頭竜を退治する。
バビロニアの神話「エヌマーエリシュ」には七頭蛇が登場し、紀元前二三〇〇年頃のアッカド王朝時代の印章には、シュメールのニンウルタ神がムシュフシュという七頭蛇を退治する絵が刻まれているが、ムシュフシュは巨大な蛇という意味で、バビロニア神話において、すべての神々を生み出した母なる神ティアマトの子である十一匹の怪物の中の一匹で、血液の代わりに毒液でその体を満たしているという。
その他、シュメールの多頭蛇退治については小林登志子の記述か参考になる(「シュメル神話の世界」二〇〇八年)。
ペルシアのゾロアスター教経典「アヴェスタ」ザームヤズドーヤシュトでは、三つの口と三つの頭と六つの眼を有し、千の超能力を持つ邪悪な竜ダーハカが英雄に退治される。
ペルシアの英雄叙事詩「ジャー・ナーメ」にも勇者ロスタムが荒野に棲む竜と戦う話がある。
T・H・カスターは、バビロニア、ハッツティ、カナンの古代オリエントに、神々と竜の戦いの物語の流布することをいい(矢島文夫訳「世界最古の物語」一九七三年)、エリアーデも「蛇類の、あるいは海の怪物に対する神の戦いは、よく知られているように、ひろく流布した神話のテーマを構成している」(中村恭子訳「世界宗教史1」二〇〇〇年)として、アッカド、ヒッタイト、古代イラン、ヴェーダ期のインドの例を挙げる。
インドの竜神または蛇神のナーガは、大蛇を神格化したもので、半蛇半神、時に多頭で表現され、ヴィシュヌ神が使者として使役するアナンタもしくはシェーシヤなどと称される蛇は、五頭、七頭、九頭で、ヴィシュヌ神はモンスーンの期間中、長円形にとぐろを巻いたアナンタの上に眠り続け、雨を降らせるという。
ヒンズー教に伝えられている物語では、クリシュナ神か戦う毒竜カーリヤは、ガンジス川または海に棲み、五頭で、五つの口から炎とともに猛毒を吐き出している。
このように多頭竜蛇退治の神話は、古代メソポタミア地方に生まれ、西はギリシアへ、東はユーラシア大陣北方を蛇行しながら横断し、騎馬遊牧民の集落に立ち寄りつつ、遥かな時間をかけて朝鮮半鳥に到着した。
ユーラシア大陸のステップ地帯.砂漠地帯、あるいは森林地帯では.蛇は退治すべき邪悪な存在で、、中国では皇帝のシンボルになっている竜でさえも、西アジアやインドにおいては悪竜であり、玄奘の「大唐西域記」には次から次へと悪竜・毒竜が登場する。
古代オリエントでは、多頭竜蛇は退治すべき邪悪な存在であったが、漢代画像石においては、瑞獣として他の動物たちとともに描かれており、中国では、竜は皇帝のシンボルで、蛇と竜は極めて近しい存在だと考えられていた。
漢民族にとって、多頭の大蛇あるいは竜を退治する話は受け入れ難かった。
中略
英雄叙事詩に登場する多頭の竜蛇も、多くは北方に棲んでいる。
「ジャンガル」の郷古斯は北方の氷海に棲み、多くの蟒古斯を従えている大蟒古斯は、周囲を氷海に囲まれ。その北側には白雪か厚く積み重なった峻嶺が聳えているのだ。
同様にヤマタノオロチも。出雲の北方に榛息していなければならないので、出雲を脅かし、やがて征伐される運命をたどる多頭の怪物の棲む地として、越は設定されたのである。
斬り殺された蟒古斯の霊魂は不滅であり、鉄もしくは鉄剣に化すと騎馬遊牧民は信じていた。」
山口博『創られたスサノオ神話』
山口博『創られたスサノオ神話』
蟒古斯 マングス
大蛇・多頭の蛇
世界各地に点在する各種北方英雄神話に登場する大蛇
地域によってマング、盤古、マンガス、マンガオなどと言葉は変化するがすべて蛇。
マングスを名に持つ王族はモンゴル・ホルチン族にいる。表記は虫偏のない「莽古斯」だが、音は同じマングスなので、意味は同じだろう。
「1624年、ホルチン部の王族は後金(後の清朝)のヌルハチと姻戚関係となり、同盟を結ぶ[4]。清朝第2代皇帝ホンタイジの5人の皇后のうち、3人はホルチン部出身であり、第3代皇帝順治帝はその子であるため、第4代の康熙帝共々モンゴル語に堪能であった。」
中略
「1593年、ホルチンのタイジ(Taiji、台吉)であるチェチェク(Cecek、斉斉克)の子のウンガダイ(Unggadai、翁果岱)はナムサイ(Namusai、納穆賽)の子のマングス(Manggūs、莽古斯),ミンガン(Minggan、明安)等と、海西女真のイェヘ(Yehe、葉赫)部タイジのブジャイ(Bujai、布斎)に随い、ハダ(Hada、哈達),ウラ(Ula、烏拉),ホイファ(Hoifa、輝発),シベ(Sibe、錫伯),グワルチャ(Gūwalca、卦爾察),ジュシェリ(Jušeri、珠舎里),ネイェン(Neyen、納殷)の諸部とともに建州女真(Manju、満洲)に侵攻した。イェヘ連合軍はヘジゲ(Hejige、赫済格)城を攻めたが下せず、その後もヌルハチに敗れた。ミンガンは馬を乗り捨て裸で遁走し、ウンガダイはウラ部のタイジであるブジャンタイ(Bujantai、布占泰)を助けたが、満洲軍によって敗北した。ここにおいてマングス,ミンガン,ウェンゴダイは前後して満洲に遣使を送って好を乞うた。」Wikiホルチン
同様の蛇は、メソポタミア~インド、南方ではスメルと言う。
シュメル、ズメイなどと地域で違うが、これはメソポタミア以前のシュメール族が蛇の民族だったことの伝播であろう。
シュメル、ズメイなどと地域で違うが、これはメソポタミア以前のシュメール族が蛇の民族だったことの伝播であろう。
マングス同様頭が複数の大蛇状の妖怪、あるいは怪物である。
スメルはシュメール人が聖なる数としていたらしい七つの頭を持つ竜である。
わかりやすく言うと羽のない四つ足のキングギドラ。胴体がダックスフントのように長い。
足のない蛇状のものもあるようだ。しかし頭は七つ。
スメルはシュメール人が聖なる数としていたらしい七つの頭を持つ竜である。
わかりやすく言うと羽のない四つ足のキングギドラ。胴体がダックスフントのように長い。
足のない蛇状のものもあるようだ。しかし頭は七つ。
聖数は地域によって3~100以上まで多種多様である。千手観音みたいな奴もいたようだ。
というよりも千手観音がこの蛇から創造された仏かも知れない。
日本ではヤマタノオロチは八つだが、聖数には3と8が多い。ただし八には単に多いという意味もある。要は複数ならいくつでもいいわけだ。複数の頭を持っていることが重要である。
さらにペルシアやその影響下で生まれたギリシア神話には、頭髪すべてが蛇であるゴルゴンなんぞもいた。これもおそらく騎馬民族侵略などの影響だろう。あるいはもともとパミール高原で生まれたものかも知れない。人類の出アフリカで最初の集住地としてイランのパミール高原やメソポタミアがあったことは間違いないことだ。その原初的な神話の怪物のイメージが、北は騎馬遊牧民、南は船の民やアーリア人などによって広まったのであろう。神話の原型がそうやって中央アジアからユーラシアの東西南北へ形を変えながら広まる。すると北は朝鮮、南は東南アジアまで到着し、その後、海を渡らねば日本へは到達できない。
おそらく縄文時代には北方からすでに伝播しているだろう。サハリン、樺太、北海道から。後期には南北海道の遺跡から中国華北の遺物がもう出ている。南は琉球、あるいは対馬コースで九州南北にそれぞれ入っていた。つまり日本列島には複数の多頭大蛇怪物の話が時代を経て入ったはずだ。
この三つの侵入路の可能性は、そのまま日本人のルーツを知るための重要事項だし、それ以前、その後も、この三つの主要通路によって、北方神話、南方神話と各文化や道具、また神仙思想や道教や仏教など多種多様の文化事象伝説の進入が起こったはずだ。
中でも4~5世紀の半島における伽耶・高句麗・百済の消滅は最も大きい。彼らは日本のオンドル遺跡から考えれば、すでに滅びる前の3世紀前半(環境の寒冷・乾燥化時期)からもう三々五々始まっていたと見る。三世紀前半にすでに京都の宇治の巨椋池や深草に弥生オンドル遺跡が見られる。これは彼らが半島からいち早く下見に来ていた秦氏や漢氏や紀氏、葛城氏であった可能性があるのではないか?
するろ3世紀後半に、突如としてヤマト地方に前方後円墳後円墳や吉備式土器が登場した。そして弧文も登場。この弧文の原型は欧州の唐草やパルメット模様の影響がある。これらの極めて西欧的でこれまでは日本とは無関係だと思われていた模様は、それぞれやはり南北のシルクロードで形を変えつつ到来するものであろう。