実は五月十五日の葵祭りには、大和建国、山背建国のすべての謎と、古代豪族の関係をすべていっぺんに解明できるほどの情報が隠されている。しっていますか?
京都五月の催し
鴨川納涼床開き
5月1日~9月30日
京都鴨川納涼床協同組合加盟各店
鴨川の西側に、料理店や御茶屋さんなどが川の上に納涼の床を用意し、料理などのもてなしを行っている夏の恒例行事。
最近は5月に床開きを行い、祗園囃子を奏でるのが地元ニュースで報道される。
最近は5月に床開きを行い、祗園囃子を奏でるのが地元ニュースで報道される。
鴨川をどり
5月1日~24日
先斗町歌舞練場
先斗町の舞妓・芸妓たちが日ごろのをどりの成果を披露する舞台。
狂言
・千本閻魔(えんま)堂
5月1日~2日 19:00- 3日~4日 13:00- 18:00-
閻魔大王などがでてくるなどの劇。こちらの狂言はせりふ有り。
・神泉苑
5月1日~4日 13:30-18:00
壬生狂言から分かれたもので、こちらは壬生狂言同様無言劇。
5月1日~4日 13:30-18:00
壬生狂言から分かれたもので、こちらは壬生狂言同様無言劇。
御茶壺道中
5月2日(八十八夜)
建仁寺~花見小路~八坂神社
宇治の新茶を徳川将軍家に献上する行事が起源。明治以降途絶えたが、昭和48年に八十八夜の行事として復活した。
陣笠に裃姿の武家や、茶摘娘姿の女性などが建仁寺を出発、八坂神社までの道中を練り歩く。
陣笠に裃姿の武家や、茶摘娘姿の女性などが建仁寺を出発、八坂神社までの道中を練り歩く。
稲荷祭(還幸祭)
5月3日 お旅所出発 14:00-
場所:お旅所(東寺道油小路)~伏見稲荷大社(京阪伏見稲荷駅下車)
4月の神幸祭からお旅所に備え付けられていた神輿5基を稲荷大社に向かえる為の祭事。
鷺森祭
5月4日~5日
鷺森神社(叡山電鉄修学院駅下車、市バス修学院道下車)
5月4日~5日
鷺森神社(叡山電鉄修学院駅下車、市バス修学院道下車)
さんよれ祭とも呼ばれる洛北の奇祭。宵宮祭での巡行には、着物に紅襷の小学生たちが扇をもち「さんやれさんやれ」とお囃子する。
上賀茂神社 競馬会(くらべうまえ)神事
5月5日 13:00~
上賀茂神社(地下鉄北大路駅→市バス御薗口町か上賀茂神社前下車)
平安時代に起源をもつ行事で、現在は2頭ずつが競い合う神事をみせる。
藤森祭
5月5日 武者行列 9:00- 駈馬神事 13:00-
藤森神社(JR奈良線藤森駅・京阪墨染駅下車)
境内では駈馬神事が行われ、立乗・逆さ乗・馬上で書を書く一字書き等の馬上妙技が披露される。
今宮祭
神幸祭 5月5日 還幸祭 5月13日(15日前後の日曜日)
今宮神社(地下鉄北大路駅下車→市バス船岡山下車)
神輿の拝殿あげおろしが最大のみもの。
松尾大社還幸祭
5月第2または第3日曜日 8:00-
松尾大社(阪急嵐山線松尾駅下車)
4月の松尾祭で船渡御を行ってお旅所に渡御した6基の神輿が松尾大社へ帰還する。葵と桂で神輿その他を飾りつけるところから古来「松尾の葵祭」と呼ばれている。
三船祭
5月第3日曜日 12:00- 船遊は14:00頃-
嵐山一帯および車折神社(阪急・京福嵐山線 嵐山駅下車)
今から1100年前の、宇多上皇の舟遊びに始まる行事。当日は渡月橋上流で、
大宮人の舟遊びを再現する。
大宮人の舟遊びを再現する。
葵祭
5月15日(関連行事 5月3日~)
上賀茂神社・下鴨神社 有料観覧席の予約:京都市観光協会
賀茂祭の別名をもつ。斎王代以下の行列が御所から下鴨神社と上賀茂神社に
いく祭で、京都三大祭の一つとされている。あでやかな衣裳で優雅にすすむ行
列(路頭の儀)がとくに有名だが、関連行事がいくつもある。
いく祭で、京都三大祭の一つとされている。あでやかな衣裳で優雅にすすむ行
列(路頭の儀)がとくに有名だが、関連行事がいくつもある。
・流鏑馬神事
馬をあやつり3つの的を射る。葵祭の定例行事の1つ。
3日 13:00-15:30 下鴨神社
馬をあやつり3つの的を射る。葵祭の定例行事の1つ。
3日 13:00-15:30 下鴨神社
・斎王代禊神事
抽選で選ばれた「斎王代」が十二単姿で、両手を浸して禊を行う。
4日(上旬の日曜祝日をあてる) 10:00-11:00 下鴨神社(隔年交代)
抽選で選ばれた「斎王代」が十二単姿で、両手を浸して禊を行う。
4日(上旬の日曜祝日をあてる) 10:00-11:00 下鴨神社(隔年交代)
・歩射神事
当日道中のお清めなどを行う。
5日 11:00- 下鴨神社
当日道中のお清めなどを行う。
5日 11:00- 下鴨神社
・御蔭祭
葵祭前儀として重要な祭。比叡山麓の御蔭神社から神霊を迎える行事。
糺の杜で舞と雅楽が奉納される。
12日 9:00- 下鴨神社
葵祭前儀として重要な祭。比叡山麓の御蔭神社から神霊を迎える行事。
糺の杜で舞と雅楽が奉納される。
12日 9:00- 下鴨神社
・葵祭(宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀)路頭の儀出発 10:30-
当日。早朝行列に参加する者全員が御所に集まり宮中の儀が。その後、葵祭として有名な行事、路頭の儀が行われ、京都御所を出発し、丸太町通→河原町通→下鴨神社へ向かう。神社で社頭の儀が行われた後、行列は再び出発し、北大路通→賀茂川縁を通り、上賀茂神社へ向かう。
当日。早朝行列に参加する者全員が御所に集まり宮中の儀が。その後、葵祭として有名な行事、路頭の儀が行われ、京都御所を出発し、丸太町通→河原町通→下鴨神社へ向かう。神社で社頭の儀が行われた後、行列は再び出発し、北大路通→賀茂川縁を通り、上賀茂神社へ向かう。
当日は、御所や下鴨神社などには早朝からカメラマンや見物客がおしよせる。京都御所や下鴨神社前には有料観覧席もある。
上御霊神社 御霊祭
5月18日 11:30-
上御霊神社(地下鉄鞍馬口下車)
貞観5年の御霊会が起源で、祭礼として都で最古のものとされる。
悪霊退散を願い、3基の神輿が氏子地区を巡行する。
悪霊退散を願い、3基の神輿が氏子地区を巡行する。
うなぎ放生会
5月26日
三島神社(市バス馬町下車または京阪五条駅下車徒歩)
全国よりうなぎを扱う業者の人々が集まり、うなぎの供養を行った後、
境内の池にうなぎを放つ。
境内の池にうなぎを放つ。
業平忌
5月28日
十輪寺(JR向日町駅下車→阪急バス43系小塩下車(バス便少数注意))
5月28日
十輪寺(JR向日町駅下車→阪急バス43系小塩下車(バス便少数注意))
在原業平朝臣は晩年同寺あたりに住み、塩を焼いて風流を嗜んだといわれる。
当日は法要につづき、献茶・献花・献句・舞踊・小唄などが奉納される。
http://www.omatsuri.com/kyoto/05.html
当日は法要につづき、献茶・献花・献句・舞踊・小唄などが奉納される。
http://www.omatsuri.com/kyoto/05.html
葵祭りを彩る藤の花の牛車
京都の五月は忙しい。三大祭の葵さんが15日から始まる。
葵祭は元は賀茂祭、藤祭で、藤の花の頃だが、今年は花が全部早くておいつかなかった。
葵祭は元は賀茂祭、藤祭で、藤の花の頃だが、今年は花が全部早くておいつかなかった。
主催は賀茂氏である。
上賀茂(山背鴨氏が祭る)から下鴨(松尾の秦氏が祭る)へ斎王代が移動するのが見もの。
山背賀茂氏と松尾秦氏は、ともにヤマトの葛城御所あたりから移住してきた渡来系氏族。
葛城で婚姻関係、山背でも婚姻関係を結んだと思える。それが下鴨神社と松尾大社になるだろう。ヤマトからのコースは、北上して奈良街道で南山背を抜けて綴喜郡八幡から宇治、紀伊郡(伏見)の深草、稲荷で鴨川・高野川合流点の河合(下鴨)に入った。つまり河合神社は彼らにとっても聖地であった。そこに下鴨神社が建った。鴨氏主力はここから分かれてさらに北の貴船山を目指し、上賀茂に神社を建てた。鴨一族は水を管理する氏族で鴨脚氏が今も御所そばに井戸を持つ。
そのルーツは朝鮮半島南部海岸部の海人族・倭種であろうと思う。出雲から吉備を経て、紀伊、河内に入る。紀ノ川上流で葛城氏と婚姻し、同族関係になり葛城賀茂氏となる(祖神アジスキタカヒコネ=賀茂大神)。葛城賀茂神社で祖神と高オカミ神=雷神及び、出雲の八重事代主を鎮守。賀茂都波神社建立。それ以後の移動は史書は語らないが、考古学遺跡によって上記移動はおそらく間違いない。秦氏とともに入ったか、先に入ったかであろう。それで京都では両者に同じ伝説(おだまき・丹塗り矢伝説)が伝わる。おそらく桜井市の大三輪氏とも近縁で、そのために三輪山由来の伝説を持った。秦氏はそれを受け継いだが、松尾では秦都理子孫は先住壱岐氏らとも関係して月神も祭る(松尾月読神社)。さらにぞれ以前に瀬戸内海の海人族とも半島からの移住運搬の縁で大山咋(くい)=大山積(大山祇)=三島大神を祭神とした。彼らが葛野を切り開き、河勝が生まれるかどうかは知らぬが、葛野と松尾は保津川を隔てて嵐山に対面して住まっている。
大山咋(日枝大神)の咋は土地開拓のための杭の神格化。大山積とはまったく同じ山の神、海の神である。摂津三島の三島溝咋もこれ同族だろう。
「これに関連して、『本朝月令』に引用された「秦氏本系帳(ほんけいちょう)」には、賀茂氏の「丹塗り矢伝説」とそっくりな物語が記されている。
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昔々、秦氏の娘が葛野川(かどのかわ)で洗濯をしていた。すると、上流から矢が一本、流れてきた。彼女はそれを持って帰り、戸上に刺しておいた。やがて、娘はひとりでに懐妊。男の子を生んだ。あるとき、宴会を開き、秦氏の祖父母が男の子に向かって、父親に酒を飲ませよといった。すると、男の子は戸上の矢を指さし、これすなわち雷公といい、そのまま天井を突き抜けて、天に昇っていった。
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昔々、秦氏の娘が葛野川(かどのかわ)で洗濯をしていた。すると、上流から矢が一本、流れてきた。彼女はそれを持って帰り、戸上に刺しておいた。やがて、娘はひとりでに懐妊。男の子を生んだ。あるとき、宴会を開き、秦氏の祖父母が男の子に向かって、父親に酒を飲ませよといった。すると、男の子は戸上の矢を指さし、これすなわち雷公といい、そのまま天井を突き抜けて、天に昇っていった。
これにより、鴨上社は別雷神とし、鴨下社は御祖神と称す。戸上の矢は松尾大明神である。以上、これら秦氏三所明神として奉祭する。しかして、鴨の氏人は秦氏の聟(むこ)である。秦氏は愛する聟のために、鴨祭を譲与する。今日、鴨氏が禰宜として奉祭するのは、この縁があるためである。」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=288381
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=288381
これが今の葵祭の発生縁起である。
上社から持ってくる別雷神がアジスキタカヒコネ=貴船のオカミで、賀茂大神。これは貴船賀茂氏が山背の祖先である鴨氏に、秦氏を仲介者として、祖神アジスキタカヒコネの霊魂の印を持ち帰る、つまり御魂返しの儀式かと見える。仏教で言うお盆の祖霊帰宅のようなことだろう。上記文にある戸上の矢というのが松尾大神である。丹塗り矢=松尾秦氏、玉依姫=賀茂氏娘。両者のめでたい婚姻縁起を壮大な祭りに仕立ててあるのが葵祭である。
そもそもは伽耶から引き継がれてきた三者のえにしと由緒がここにページェント化された優雅なお祭り。しかも三者だけではなく、葛城氏や紀氏、河内・大和の大三輪氏、瀬戸内村上水軍・越智氏などの海人族、さらにはのちに山背に遷都して来た桓武天皇家(現在の天皇家の直接先祖)も深く関わることになる。大和神社に賀茂大神アジスキタカヒコネは「雷神」として祭られているし、三島神別名たかおかみ・くらおかみの雷神もアジスキタカヒコネだと言っていい。賀茂別雷神である。
大三輪氏が三輪山に鎮魂した大物主はヤマトの先住神。天皇家にとっては伊勢よりも最重要な祟り神である。そもそもここは物部氏の祖・天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊ととみのナガスネ彦のいた場所だったが、天皇家があとからきてこれを押しのけるように住まった。そのため崇神天皇に祟りがあり、大物主は河内の陶邑のオオタタネコをして鎮魂させれば我はおさまるとしたため、その子孫大三輪氏が今でも大神神社祭祀を司る。つまり大物主は近畿先住民で、物部氏、葛城氏、その祖武内宿禰と枝族すべて、大伴氏、和邇赤坂彦氏、小野氏・・・などなど、あるいはナガスネ彦のような縄文的先住民全部の代表地主神だったと理解できる。つまり記紀成立以前に、前の王家だったが服属させられた人々だから祟るのである。
そして、その祟りを抑えようとしたのが笠縫邑に祭られたアマテラスの斎王だった。それが箸墓の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/モモソ姫)や大和姫ら一族であろう。しかし失敗してホトを突いて死んでしまったり、その怒りを押さえ込めない。アマテラスでもだめならと、結局この天皇家祖先神は伊勢にぶっとばされた?かっこうになっているのである。
大和建国のわかりやすい解釈だと思っている。
おまけ
深草にある藤森神社はもともと物部氏の武器庫だったところ。それが蘇我氏にやられて馬子の妻だった物部守屋の妹のものになった。それが今度は蘇我氏がやられて藤原氏の手に。その前に、蘇我氏は藤森兵庫を稲荷秦氏にまかせたので、そのまま大蔵・内蔵は秦氏と東漢氏の管轄で明治まで続くのだ。途中で忌部氏が関わったと自分で言うのだが、それは不確定といわれる。日本の租税と武器のすべてを実は秦氏と漢氏が牛耳ってきた・・・渡来人がです。その痕跡としての藤森神社です。
■本殿中央(中座)御祭神は素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱。
神功皇后が摂政3(203)年、新羅より凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び纛旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされた、それが当社の起こりである。現在、本殿東にある旗塚がその塚である。延暦13(794)年、桓武天皇より弓兵政所の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われた。
■本殿東殿(東座)御祭神は舎人親王、天武天皇の二柱。
天平宝字3(759)年、深草の里藤尾の地に鎮座。藤尾は現在の伏見稲荷の地である。永享10(1438)年、後花園天皇の勅により、時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を三麓の藤尾の地に移し、藤尾大神を藤森に遷座し、東殿に祀り、官幣の儀式が行われた。舎人親王は、日本書紀の撰者であり武道にも優れた文武両道の神であった。皇室や藤原一門の崇敬厚く、貞観2(860)年、清和天皇の宝祚に際し奉幣の神事が行われた。これが藤森祭(深草祭)の初めである。
■本殿西殿(西座)御祭神は早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱。
早良親王は皇太子となられた後、蝦夷で反乱が起こったので征討将軍として当神社に詣で戦勝を祈願され、出陣しようとされたところ、これを伝え聞いた反乱軍は畏怖し、乱は戦わずして平定された。英武の方であられたが、延暦4年、事に座して淡路に流される途中で亡くなられた。延暦19年、親王は崇道天皇と追号され、塚本の地(京都市東山区本町十六丁目)に祀られた。
天長3年、伊豫親王、井上内親王の二柱を合祀し、官幣の儀式が行われた。塚本の宮は、たびたびの火災により小天王の地(深草西出町)へ移り、応仁の乱で焼失したため三柱は藤森に遷され、西殿に祀られた。
毎年5月5日に行われる藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされている。菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集めている。
日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を御祭神としてお祀りしていることから、学問の神として信仰されている。
藤森祭に奉納される駈馬神事が馬の神事であることから馬の神として信仰され、馬主、騎手、競馬ファンの祭典が毎年行われて多くの人々の参拝がある。
神功皇后が摂政3(203)年、新羅より凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び纛旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされた、それが当社の起こりである。現在、本殿東にある旗塚がその塚である。延暦13(794)年、桓武天皇より弓兵政所の称が授けられ、遷都奉幣の儀式が行われた。
■本殿東殿(東座)御祭神は舎人親王、天武天皇の二柱。
天平宝字3(759)年、深草の里藤尾の地に鎮座。藤尾は現在の伏見稲荷の地である。永享10(1438)年、後花園天皇の勅により、時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を三麓の藤尾の地に移し、藤尾大神を藤森に遷座し、東殿に祀り、官幣の儀式が行われた。舎人親王は、日本書紀の撰者であり武道にも優れた文武両道の神であった。皇室や藤原一門の崇敬厚く、貞観2(860)年、清和天皇の宝祚に際し奉幣の神事が行われた。これが藤森祭(深草祭)の初めである。
■本殿西殿(西座)御祭神は早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱。
早良親王は皇太子となられた後、蝦夷で反乱が起こったので征討将軍として当神社に詣で戦勝を祈願され、出陣しようとされたところ、これを伝え聞いた反乱軍は畏怖し、乱は戦わずして平定された。英武の方であられたが、延暦4年、事に座して淡路に流される途中で亡くなられた。延暦19年、親王は崇道天皇と追号され、塚本の地(京都市東山区本町十六丁目)に祀られた。
天長3年、伊豫親王、井上内親王の二柱を合祀し、官幣の儀式が行われた。塚本の宮は、たびたびの火災により小天王の地(深草西出町)へ移り、応仁の乱で焼失したため三柱は藤森に遷され、西殿に祀られた。
毎年5月5日に行われる藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされている。菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集めている。
日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を御祭神としてお祀りしていることから、学問の神として信仰されている。
藤森祭に奉納される駈馬神事が馬の神事であることから馬の神として信仰され、馬主、騎手、競馬ファンの祭典が毎年行われて多くの人々の参拝がある。
さて、もうひとつ最後のおまけ
葵祭りの神輿・・・鳳凰ですが、秦氏が騎馬遊牧民族だったとしたら、この形状はもしかして・・・?西から宇佐神宮の日本最古の神輿も秦氏(宇佐 大神氏)が納入したものです。
ペルシアか?スキタイか?あるいはイスラムかユダヤか?なんてね。
ペルシアか?スキタイか?あるいはイスラムかユダヤか?なんてね。
画像おおきに。Kさん。