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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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豊後國行平 蝦夷と紀氏の出会いで生まれた日本の名刀

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紀新大夫行平(きの・しんだゆう・ゆきひら)
通称 豊後國行平
出自 紀氏あるいは蝦夷俘囚?


平安時代末期から鎌倉時代前期の豊後の刀工
後鳥羽院御番鍛冶の一人 紀新大夫•紀行平新太夫、紀ノ行平、紀ノ新大夫行平、鬼神大夫とも。
•僧定秀の子、あるいは門人とする。
行平 文武天皇御宇、豊後国紀新大夫浪平コト、細ヲ不知人行平ト…藤戸カ弟子也
◦罪(咎とが)を犯し、元暦年中に上野国刀祢庄に遠流され、正治元年(1199年)まで16年間服役したという。また相模由井の飯島(由比ヶ浜東端)に流されたという説もある。
http://meitou.info/index.php/%E8%A1%8C%E5%B9%B3






当ブログ過去の行平関連記事https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B9%D4%CA%BF&sk=1
ここからいくつか記事を抜粋。以下に貼り付けておく。


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「焼尾は製鉄地名である。
尾は蛇の尾で台地のはじっこ。そこにある鉱物のことであり、それを焼く=精錬するとなる。
国東には蝦夷俘囚の製鉄工人が入った伝承があり、江戸時代には有名な豊後刀鍛冶行平が来ている。
また海岸部にある伊美岩倉神社では10月14日、風来の鍛冶神と思われるケベスを祭る火の祭、ケベス祭が行われる。さらに伊美には伊美鬼塚古墳があって、こちらも「鬼」とつく以上、製鉄に関わった氏族がいた痕跡となる。線刻画で有名。」
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55136968.html

●平家残党の案内人
 宮崎県椎葉村および熊本県五木村五箇庄に平家落人伝説が存在し、それぞれ平家残党の末裔を自称している。この双方の残党を双方の隔絶された土地に案内したのが、不思議なことだが緒方三郎であるとされている。それでこの地域の人の多くが緒方姓を名乗っている。あるときは源氏に味方し平家追討の立役者と書かれ、つぎにはその源氏に追われる義経をかくまって流刑にされたとも書かれた三郎が、なぜかここでは平家残党をかくまうための水先案内人として登場する。実に立場のはっきりしない存在である。この不思議はひとえに豊後大神氏が1 ヤマト大三輪の血脈かどうかも定かでない宇佐大神氏の末裔と名乗ること自体出所不明で
2 豊後の海部郡を中心に臼杵・大野・緒方・佐伯などの地名を名乗って大友氏に仕えてはいたものの
3 どうも実際には蝦夷俘囚の血脈から出た疑いが濃く
4 その証拠に祖母山・高千穂の鉱山開発にいそしんで私腹をこやして豪族化し
5 金と鉱脈の象徴である蛇の子孫を名乗り、ヘビのご神文が尾てい骨にあったがために尾形と名乗ったのも
6 彼らが舞草(もくさ)鍛冶で知られる蝦夷鍛冶の血を引いたからではないか?
 7 豊後には舞草鍛冶の著名人として「豊後鍛冶行平(ゆきひら)」がいたことが全国日本刀愛好家の間でつとに知られている。」
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54409266.html

「儺(災厄)を払う儀式は数々ある。
仏式、神式、修験道式、陰陽道式・・・それぞれによって表現方法は異なるが、その本義はみな同じ。
国東はかつて鉄の里でもあった。
東北蝦夷が古代から伝えてきた舞草(もくさ)流製鉄。
その中で豊後に俘囚として送られたものどもがあった。
いわゆる「さえぎ」である。
かつて蕨手刀を鍛造してきた誇り高い彼らの精錬、鍛冶技術は全国に移送された彼らによって多くの鍛冶師、鋳物師(いもじ)、刀鍛冶を産んできた。その中で著名な日本刀の匠に豊後行平(紀新太夫行平・きしんだゆうゆきひら)がいる。
 
ここ鬼会の里(豊後高田市香々地かかじ・焼尾やきお)には行平が、配流先だった上野国(こうづけのくに・関東)から移住した場所だったという言い伝えがある。」
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53422659.html

日本の刀剣よもやま話2・東大寺陰陽宝劔・豊後行平昼御座剣
■昼御座剣作者は豊後行平
 「「昼御座剣の作者」
  本来,御剣の刀銘(作者名)を聞かれた時は,「無銘」と答える事が決まりとなっている。これは権威と名誉の問題でもあるので,かなり著名な刀工が鍛造している事は間違い無い。通説での古い処では永延二年(988・一条天皇・盗賊の巨魁,袴垂保輔を捕縛)備前の実成,介成,友成の親子や,後鳥羽天皇の勅作,が挙げられているが,他にも古剣書の「天文目利書」は古備前包平の作で内裏炎上のさい焼身となり,粟田口国吉が焼き直したとある。
  現在の昼御座剣は慶応三年(1867・正月明治天皇即位・将軍徳川慶喜・12月王政復古)八月,本阿弥百次郎が砥ぎ直し,その功により伊勢大丞に任じられた。豊後行平の在銘であった。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53010418.html






豊後鍛冶は平安末期、坂上田村麻呂の蝦夷討伐で西日本各地に連行された東北・蝦夷俘囚の持っていたわらびて刀などを作る簡易鍛冶(舞草(もくさ)鍛冶)技術者が豊後國にも入れられ、もともとあった在地の紀氏(きの・うじ)を中心とする渡来系鍛冶と出会うことに始まる。行平もおそらくそうした「舞草さえぎ」がおそらく紀氏に入門あるいは婚姻して生まれた人ではあるまいか?

土器の東西技術の融合から現在の陶器・磁器が愛知で生まれたように、刀鍛冶も豊後に限らず、全国的に起こったはずである。なんとなれば尾張も豊後佐伯も古代会員属・海部のあった場所で、もともとグローバルな港であった。特に源平時代~武士の時代にとって、彼ら刀鍛冶の武家に囲われた意味は非常に大きい。歴史的な出会いだったといえよう。なぜなら日本の刀剣がそれによって世界最高峰になったからである。

全国に名刀、名鍛冶のいた場所は多い。そこにもそれぞれ蝦夷と渡来の技術の出会いがあって、その名刀も生まれたことだろう。お調べあれ。



日本刀も、その始まりを古代から調べて歴史にしてほしく思う。






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