装飾古墳の直弧文の考え方が少し変わった。
これまで、筆者の「誰も言い出さない古代史観」では、古墳の直弧文は、九州の外からやってきた国造的人物の墓であり、直弧文は地元民が、彼を再び生き返らぬよう呪をこめて刻んだ・・・と考えてきた。
彼が吉備系人物であろうという考えは変わらないが、どうも騎馬遊牧民の馬の天地逆さま埋葬や中国の土器破壊埋葬を知ってから、古代人の死生観が少し別ではないか?と気付かされたのである。
日本の古墳時代でも破鏡があり、縄文時代には土器・土偶の破壊埋納の習慣はある。なぜそうしたかは、先に書いたように、死んだあとそれらは黄泉の世界では再生され、使える、あるいは動くようになるのだという山口博の意見が大きかった。
また出雲の大量出土した銅剣も、柄に×印のあるものがある。
スキタイの習慣では、馬は、足を上にして埋葬されており、頭部だけが切断して一緒に埋められる。埋葬武具もすべて折り曲げてある。これも同じで、死者の愛馬があちらでまた生き返り走り出すという発想だったらしい。どうも南方風俗ばかり見ていては、日本にあった北方系文化を見落とすことになるようだ。
すると直弧文も、ばらばらにして組み合わせたり、真ん中に大きく×してあるのは、スキタイと同じように、永遠のしるしだった吉備系弧帯文を、あの世でヨミガエルと考えての行為だった可能性もあろう。そう思いなおしたのだ。
弧帯文は吉備楯築が最も古く、少ししてそれが鯉食神社古墳など、数箇所に広がった痕跡がある。そしてその後消えて、今度は数十年後の3世紀後半のヤマトの纒向の箸墓から弧文円盤が出る。九州ではその早い時期の呪模様はまだ出ておらず、4世紀後半の古墳から直弧文が出るようになる。つまり、この種の死者再生呪模様は、吉備が最古の2世紀で、次に3世紀後半の纒向、最後が吉備と北部九州の4世紀後半と、ほぼ50年間隔の動きがあることになる。ということはこの模様は吉備のものであることになろう。
であるなら、ほかの弥生の河内から出てくる吉備系土器や、その後の纒向の吉備式土器埴輪(特殊器台・特殊壷)を出雲やヤマトに持ち込むのも吉備人なら、4世紀古墳時代に北部九州に直弧文を持ち込んだのも吉備人と、今のところするしかあるまいと思う。
そして九州の、彼らの古墳には、内部に壁画がないということも、九州在地人たちの装飾古墳隆盛とは違う人たちの古墳が直弧文や、なにも装飾のない墓ではないかと誰でも気付くはずだ。
また近畿の鏡を割る風習も同じだろう。むしろ壊さねばならなかったことになる。再生はこの世ではなく、あの世で生き返るという死生観らしいのだ。
弧帯文・直弧文的な「永遠の絵柄」を、もう一度北方に探さねばなるまい。
いくつかあることは感じている。