「允恭天皇は先に玉田宿禰に反正天皇の殯を命じていたが、地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ玉田宿禰だけがいなかった。玉田宿禰はこの時酒宴を開いており、尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れた。允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため捕えて殺したという[1]。このようにこの地震の記事は政治的事件の発端として記されており、地震そのものの状況や被害の様子は記されていない。また西暦506年以前は日本暦が明らかでないため厳密に西暦には換算できず、西暦換算が416年であるかも疑わしいとの見方もある[2]。」Wiki允恭地震
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%81%E6%81%AD%E5%9C%B0%E9%9C%87
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原文
允恭天皇五年秋七月丙子朔己丑。
地震。先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰。主瑞歯別天皇之殯。則当地震夕。遣尾張連吾襲。察殯宮之消息。時諸人悉聚無闕。唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言。殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。則亦遣吾襲於葛城。令視玉田宿禰。是日。玉田宿禰方集男女而酒宴焉。吾襲挙状、具告玉田宿禰。宿禰則畏有事。以馬一匹授吾襲為礼幣。乃密遮吾襲、而殺于道路。因以逃隠武内宿禰之墓域。天皇聞之喚玉田宿禰。玉田宿禰疑之。甲服襖中而参赴。甲端自衣中出之。天皇分明欲知其状。乃令小墾田釆女、賜酒于玉田宿禰。爰釆女分明瞻衣中有鎧。而具奏于天皇。天皇設兵将殺。玉田宿禰。乃密逃出而匿家。天皇更発卒囲玉田家。而捕之乃誅。
『日本書紀』允恭天皇5年7月14日(ユリウス暦416年8月22日、グレゴリオ暦8月23日)の条項に「地震(なゐふる)」の記述が登場する。これが日本で最古の地震記事である。
ただし・・・。
『日本書紀』記述を読み解く場合、まず第一に『日本書紀』という書物が、中国的な天命事変の繰り返しで大王や天皇が代わるのだという認識である。ゆえに、天変地異を、このようにさらりと「地震あり」としている場合は、その地震が実際に起こったかどうかわからないと思うほうがよろしかろう。
『日本書紀』記述を読み解く場合、まず第一に『日本書紀』という書物が、中国的な天命事変の繰り返しで大王や天皇が代わるのだという認識である。ゆえに、天変地異を、このようにさらりと「地震あり」としている場合は、その地震が実際に起こったかどうかわからないと思うほうがよろしかろう。
一方、『続日本紀』貞観大地震の記事のように、極めて具体的で詳細な事後報告がある場合は、正真正銘それは起きたと判断できることになる。そこの見極めをちゃんとしておく必要がある。貞観大地震は、その後の時代にまで和歌になって語り継がれており、まず事実であったと判断できる。しかし允恭年間となると、記紀編纂時代からあまりにも遠く離れた時代であり、果たして地震が語り継がれたかどうか、いや允恭という天皇がいたかどうかも定かではない。なんとなれば、これらの河内王朝は、大和の王権の前の政権として「滅ぶべきもの」として置かれている可能性の方が大きい。それこそが『日本書紀』の中に厳然として隠されている「藤原政権下王権が正統である」ことを言うがための前置詞であっただろうとするのが正しい把握法である。
結論としては、416年に地震があったかどうか定かではない。
というよりも、極めて政治的書物としてはっきりしている『日本書紀』の記述を信じることにこそ問題がある。かつて日本はその失敗を犯し、国を亡国にしていることをお忘れなく。ここには玉田宿禰すなわち葛城政権を大王が滅ぼすという事件のための前ふり、正統性としての天変地異=地震があったとしか書かれていないということである。
『日本書紀』を考えるには複雑な時代背景や政治性という、経験の少ない世代が扱うには危険が多いのだ。まして、なんでも信じ込みやすい多感な青少年は安易に踏む込むべきしろものではないということになる。おばかが読めば毒薬になりかねない。
お忘れなく。99パーセントは嘘だと思うほうがよかろう。あとの1%をどうやって見出せるか。記紀研究とはそういうものではなかろうか?主観的人間には難しかろう。