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注釈つき『魏志倭人伝』全文 その2

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【政治・歴史】

●組織
 女王國自り以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸國之を畏憚す。常に伊都國に治す。國中に於て刺史の如き有り。王の使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣らしめ、郡の倭國に使するに及ぶや、皆津に臨みて捜露す。伝送の文書・賜遺の物、女王に詣るに、差錯するを得ざらしむ。
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官で あったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた Wiki)
 
●上下関係
 下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲り或は跪き、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。対応の声を噫(ああ、あい、はい?)という。比するに然諾の如し。
 
(「女王國」 邪馬台国は女王国の首都であるので、これは邪馬台国を首都とした連合体の総称として魏志は使っている。「邪馬台国はどこにあったか」は正しい使い方だが、邪馬台国が=女王国なのではない。「邪馬台国連合」と言うよりも「女王国連合」と呼ぶのが正しい。
 
また女の王という観念は当時の東アジア世界ではありえない。それは儒教国家だったからである。男尊女卑思想で女王は存在し得ない。それは蛮族の行いであるが、魏はそこに目をつ縫って倭を尊重している。飛鳥王朝では隋書俀国伝で、推古女帝は隠され、倭王は男となっている。これは儒教が日本にも入ったから隠したともいえるが、そもそも女帝ではなく、蘇我馬子が事実上の王を僭称したとも考えうる。魏志は女王が珍しかったのであろう。それが南朝から生まれる神仙思想=大地母信仰に合致し、鬼道と書いた。鬼道とは南朝後裔を謳う公孫氏の祭祀である。邪馬台国はつまり魏より前は公孫氏と通じていた「南朝的な」国であったと言える。魏は半島を挟撃する相手として倭を見たので、大事に扱ったわけであろう。)
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【歴史と女王制】

 其の國、本亦男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿無く、男弟有り、佐けて國を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。唯男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。
 

【遠隔地】
 女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。又、侏儒國有り。其の南に在り。人長三・四尺。女王を去る、四千余里。又、裸國・黒歯國有り。復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し。
(「船行一年にして至る」ということは陸地を歩かずに行ける、つまり海辺の国か島国ということ。)
 
では侏儒国とはどこだったか?
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55078588.html
黒歯國はここだ!南米チリのチロエ島・マプチェ族のDNAはアイヌ琉球縄文人系
 http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55075561.html
セルクナム(オナ)族 日本人にDNA類似の南米最南端民族
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55073807.html
 
 
倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周施五千余里なる可し。
 

【朝貢の顛末】
 景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将いて送りて京都に詣らしむ。
 其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、
 
「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じ、以て到る。汝が在る所遠きを踰え、乃ち使を遣わして貢献せしむ。是れ汝の忠孝、我甚だ汝を哀れむ。
 
今、汝を以て親魏倭王と為す。金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して仮綬す。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。
 
今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見労賜して遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地縐粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」
 
と。
 
(銅鏡は画文帯神獣鏡ではなかったかというのが今は有力?真珠は正確には不明。後世に残りそうなものは金印・金八両・五尺刀二口・銀印・黄幡の枠組みだろう。そのうちの一本は東大寺山古墳出土のものか?黄幡の枠組みは黒塚古墳出土のU字型鉄製品ではなかろうか?もちろんいずれも推論である。)
 
装封は中国では一般に「封泥(ふうでい)した。「ふうでい」とは泥で封書し、王印を押したもの。西欧の蜜蝋に似る。金印もそういう使い方をするもので、今のような陽刻印ではなく陰刻印である。封泥は残るだろうが、開くときにはばらばらに割れただろう、発見はほぼ無理。)
 

【顛末】
 正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、并びに詔を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。
 
 其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木フ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す。
(倭王には女王表現がない。卑弥呼かどうか?これは伊都国王あるいは奴国王か?)
 
 其の六年、詔して倭の難升米に黄幢(おうばん)を賜い、郡に付して仮授せしむ。
 
イメージ 1
 
(黄幡(おうばん)とは上のような形で、「U字型」のパイプに多数の紐が垂れ下がっている。戦意高揚のための旗印)

 其の八年、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載・斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ。塞曹掾史張政等を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為して之を告喩せしむ。
 
 
●卑弥呼の死
 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女、壹与、年十三なるを立てて王と為し、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹与を告喩す。壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送りて還らしむ。因りて臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。
 
 
(「大いに冢を作る」  大いにであって大きなではない。)
 
(「以って」 何を以って死んだのかが書かれていない。
これについて岡本健一氏は、膨大な中国の史書を凌駕して、「以て死す」の使用例を調査された。その結果、「約900例のどれもが非業の死を意味する文脈だった」と確信した)
 
 
 
 
 
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