三世紀の崇神(三輪)王朝のあと、記紀は応神を始祖とする河内王朝へ切り替わってゆく。
その変わり目に登場した武力王が景行天皇とその皇子ヤマトタケル、そしてその子仲哀(たらしなかつひこ)天皇である。「たらしなかつひこ」の「たらし」には息長系の古さを証明しようとした意図があっただろう。
つまり崇神系譜が纒向の狭い一角から出てくるのに対し、景行以後の三代には、あとの河内王朝へつなぐための創作された存在だった可能性が高くなる。
ヤマトタケルの存在そのものが雄略天皇の事跡から作られたと考えられ、その姿はちょうど倭五王最後の倭王・武の上表文にある「祖先が東五十五国、西六十六国を平定した」にそっくりの、鉄を簒奪せんとする略奪と暴力の侵略者のイメージである。
ヤマトタケルは幼少時代の名を「小碓命(おうすの・みこと)」と言う。この幼名は碓氷峠の名前になった。双子の兄がいたが、父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭姫命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
兄は親のいいつけに逆らう性格だった。タケルは業を煮やして兄を屋敷から引きずり出し、腕力にまかせてひねりつぶしてしまう。怖ろしい鬼っ子である。
父・景行は恐れをなし、タケルを熊曾建(くまそたける)征伐に追い出してしまう。
タケルが熊本県の球磨郡にある免田(めんだ)へ降りてゆくコースは、ほぼ推定できる。それはクルソン渓谷から一気に球磨川を降下する道である。
景行天皇のルートがこれだった。
「景行天皇の熊襲征伐:白髪岳や狗留孫(くるそん)渓谷一帯に住む熊襲
(熊本の伝説 日本の伝説26 角川書店、昭和53年より)
合戦の峰から南に2キロほどで人吉に入るが、芦原に天子という石の小祠がある。熊襲征伐にちなむもので、肥薩の国境に高くそびゆる白髪岳(1416メートル)や狗留孫一帯に住んでいたという熊襲を討つために景行天皇が軍を進められ、ここで休息されたところであるという。
掃討戦は一か月に及び、天皇は「五月の壬辰の朔に、芦北より発船したまひて」火国に来ておられる。
ところで、球磨郡内には芦原の天子のほかにも十二か所の天子がある。上村字麓の天子、上村字石坂の天子、上村字塚脇の天子、免田町久鹿の天子、多良木町牛島の天子、深田村草津山の天子神社、錦町一武字本別府の天子および御手洗、錦町木上字平良の天子神社、相良村柳瀬字三石の天子、山江村字山田合戦峰の天子、山江村城内の天子、人吉市中神町古屋敷の天子いずれも景行天皇の足跡を意味するものであろうが、天子でなく、天下という地名がさらに二か所あるからおもしろい。一つは、装飾吉墳で有名な錦町京ケ峰の天下神社で、あと一つは人吉市原田の天下山である。そして天下を土地の人は「アモイ」とよんでいる。これは万葉集に「久方の天の門開き、高千穂の、嶽に阿毛理(天降り)し、すめろぎの、神の御代よ(以下略)」とあるように、神が天から降りたったところという天降りがいつのまにか「アモイ」に転訛したのではないかと思われる。」
クルソンとは地元では「おくるさん」などといわれていて、伊豆の修善寺にもまった同じ文字で狗留孫山があるが、その意味はおそらく「来る尊」であろう。
天皇と命がやってきた方角である。
景行天皇は九州へ来ると最初に鉱山のある山である大分県祖母山へ向かっている。
さらに祖母から宮崎県高千穂へ入り、一気に小林・高原・えぼのへ向かう。えびのから白髪岳を越えるとすぐあさぎり町で、ここに狗留孫神社が鎮座している。http://hifumi.sakura.ne.jp/powerspot100.html
ヤマトタケルもこの道でやってきたのだろう。
記紀ではここまで細かい道のりは書いていない。
新深田遺跡は、「地下式板石積石室墓」とよばれる古墳時代の古墳が集まった古墳群。
この古墳の特徴は円墳や前方後円墳のように高塚古墳の墳丘の内部に石室を造らず、石室を地下にそのまま収めた造りになっている。
地下式墓は熊襲の曽於族つまり隼人の古墳様式であるが、ここのは一風代わっている。積石塚になっていてこれは高句麗様式。要するに熊襲を蛮族などと思ってはならないことがよくわかる。高句麗や金鍍金のような南朝の豪族・官僚しか下賜されない遺物を持っていた雄族なのである。その財力・武力の基盤は球磨川周辺でとれた鉱物・鉄である。景行天皇やヤマトタケルの目的はこれだった。この鉄のイメージこそが倭五王を匂わせている。
近隣の鉱物地名には、
相良村の鷹屋山、三尾山、
水上村の山犬切、
五家の荘(ごかのしょう・平家部落)には大金峰・小金峰(だいきんぽう・しょうきんぽう)などがある。
また五木村にはヤマトタケルを祭る白鳥神社・阿蘇神社(阿蘇氏は多氏)が建つ。
さらに人吉市には数ヶ所、古墳時代の横穴古墳群(大村横穴・京ケ峰横穴など)があり、装飾を持つ。絵柄は菊花文と弓矢である。この氏族は免田式土器の盆地づたいの北上にあわせるように日田市へと向かっている。これは靫負(ゆげい)大伴氏という多氏氏族の下にいた日下部(くさかべ)氏や膳(かしわで)氏の熊襲合流を示すかと思える。球磨族は滅ぼされたのではなく中央氏族の西日本・九州経営のための「草」となり靫負氏族の中に取り込まれたのであろう。阿多隼人のように。
彼らが鉱物探査氏族から修験者(天狗)へと転進していったと見るにやぶさかでない。
このようにヤマトタケルの神話は、現実には5~6世紀の倭五王が九州を平定してゆくさまを、三輪王朝の交代劇はなかったかのようにつないだコラージュになっている。
つまりそれは崇神の大和の三輪王朝のような地域国家がやった事跡ではなく、倭五王と筑紫の宰相である多氏がやった事績を、うまく取り込んで、あたかも纒向の王家の事跡に見せた、いわゆり偽書行為、簒奪行為であった。
園証拠にその直後、葦北には吉備王の子孫である芦北国造アリシトが登場し、百済との深いえにしをむすぶかたわら、大伴氏を「わが君」と呼ぶ立場にあったことになっている。
つまり倭五王・河内王朝の本貫地は吉備・出雲連合体であろう。
岡山県の造山・作山大古墳はともに吉備に存在した倭五王の前身の墓ではあるまいか?
全国ナンバー4の大きさを誇っている。
こうして飛鳥時代に、筑紫の大王家であった多氏・秦氏・大伴氏・筑紫国造家などの多氏血脈は八幡神として、瀬戸内の玄関口宇佐に祭られることとなった。祟る神として四拍手でもって、封じ込められたのである。
さらに、当事者にされた景行~仲哀ヤマトタケルらもまた、作られた神となって大和のいずこかに祭られ、封じ込められたのであろう。おそらく直弧文によって結界を張られて。
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