地元の緑色の石英閃緑玢岩(せきえい・せんりょく・ひんがん)を使った秋田県大湯環状列石https://4travel.jp/travelogue/10030722
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※参考・緑色の石で造られる環状列石
Kawakatu翡翠色の呪・配石墓としての大湯環状列石再考
日本のストーンサークル(環状列石・配石遺構とも言う ※配石墓を含む)一覧
※世界の環状列石には調査によって墓域を含む遺跡がありそれらを配石墓(はいせきぼ)と呼んでいる。英国のストーンヘンジや日本の大湯や三内円山遺跡の列石などが環状配石墓となっている。Kawakatu
ここでは全発見数180箇所以上のほんの一部を紹介する。
■北日本
余市町 西崎山環状列石
深川市 音江環状列石
旭川市 神居古潭
ニセコ町 曽我北栄環状列石
秋田県鹿角市 大湯環状列石(野中堂・万座)
北秋田市 伊勢堂岱遺跡
青森県青森市 小牧野遺跡
弘前市 大森勝山環状列石
平川市 太師森環状列石
岩手県滝沢市 湯舟沢環状列石
八幡平市 釜石環状列石
九戸郡洋野町上のマッカ遺跡
洋野町種市 西平内I遺跡
巣差巻市 清水屋敷遺跡
? 安長6区遺跡
滝沢村 湯舟沢遺跡
陸前高田市 門前貝塚
■関東には中期以降にやってくる
群馬県安中市 天神原(てんじんばら)遺跡 (福島県楢葉町天神原遺跡とは別)
群馬県安中市 野村遺跡
東京都町田市 田端遺跡
静岡県富士宮市 千居遺跡
山梨県都留市 牛石遺跡
■西日本
和歌山県海南市 溝ノ口遺跡
その他長野県八ヶ岳山麓遺跡や大分県宇佐市佐田京石頂上メンヒルなど各地に散在する。
「配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造され、日本各地で発見例が増えてきている。現在までのところ最も古いと考えられているのは長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡の配石で、縄文時代前期のものと推定されている。ドルメンが多いが、大分県には人間の背丈ほどのメンヒルを環状に並べた佐田京石がある。」Wikiストーンサークル
玦状耳飾分布と環状列石分布はほぼリンクする。
●ストーンサークルの起源は縄文中期人の起源を教えている
日本の環状列石の多くは縄文時代の紀元前6000年末~4000年の前後(縄文中期~後期)に登場するが、これらは遺物の類似などから中国東北部、北朝鮮国境近くの遼河文明(りょうが・ぶんめい)の影響であったと考えられている。その移住の原因はまず環境の変化があり、さらに貴重なヒスイへの欲求もあったと思われる。
これらに共通する遺物は姫川産ヒスイ製の箆(へら)状垂飾・管玉・玦(けつ)状耳飾などである。
下図・箆(へら)状垂飾と上図・管玉・玦(けつ)状耳飾(どれもヒスイ製品)
遼河人は日本のヒスイを求めてやってきたと言っても過言ではなかろう。
すると縄文中期~後期の人々は彼らであり、最初に姫川に入ったとも考えうることになるのかも知れない。もちろんヒスイを探して日本海側全域に探しに来ただろうが。
「ストーンサークルの密集域が円筒土器文化圏(東北北部)と重なっていること、円筒土器は遼河文明と関連していること、遼河文明と関連する三内丸山遺跡[1]からもストーンサークルが発見されていることから、日本にストーンサークルをもたらしたのはY染色体ハプログループNに属すウラル系遼河文明人[2]と考えられる。
ただしウラル系民族に環状列石を造る文化は元来なく、東アジアに環状列石を伝播させた集団はY染色体ハプログループR1bに属す集団と考えられる。彼らはトカラ語派の担い手[3]としてアルタイ地域まで到達していたことが明らかとなっており、アファナシェヴォ文化では、ストーンサークルを伴った墓槨がみられる。その文化が東進して遼河文明に入り、ウラル系遼河文明人を介して日本にもたらされたと考えられる。秋田県に多いJCウイルスEu-a2(JK)タイプもこの流れと共にもたらされた可能性がある。」
Wikiストーンサークルよりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB
スキタイの石柱墓
また環状列石を造る文化はその後も縄文環状集落という後期文化につながるとも考えられ、縄文人のルーツや、その「野生の思想」(円の思想)の源泉が中国東北部の遼河流域地域にあったと考えられ、彼らがY染色体ハプログループR1bに属す集団であろうことは近年、かなりがえんじがたく(否定しにくく)なってきた。
同じ円の思想で貫かれる環状列石と環状集落
「ハプログループR1b系統は西ヨーロッパと南ヨーロッパに顕著に分布している系統であり、バスク人やケルト系民族に80%以上の高頻度に見られる[4][5][6][7]。ヤムナ文化人で高頻度に見つかる[8][9]ことから、印欧語族の担い手である。(R1bはケントゥム語、R1aはサテム語の担い手である[10]。)ヨーロッパ西部には青銅器時代に分布を広げ[11]、ウーニェチツェ文化の担い手[12]と考えらえる。またトカラ語派とアファナシェヴォ文化の担い手である[13]。大航海時代以降の人種の流動に伴って、南北のアメリカ大陸やオーストラリア大陸にも分布の範囲を拡大した。またバシキール人にも86%の高頻度である[14]。この流れとは別に、古代にもアフリカ内陸部へ移動したR1b系統の一集団があったと見られ、ハプログループR-V88に定義づけられる分岐系統がチャド語派の言語を話すカメルーンの先住民族の間において高濃度で発見されている[15][16][17]。」
つまり縄文中期末~後期の人の中には、
欧州ケルト民族やスキタイ民族・テュルク民族などの血を引く
北方系民族の中国遼河経由来の来訪者があったようだ、
となる。
もちろん前期までにやってきた人々とその後混血しただろうが、
環状列石の4割が秋田県に存在することと、秋田県の民俗誌の言う「秋田美人と白人の血」うんぬんにはあながち否定すべきでない因果関
がありそうな按配である。
ところが、今の日本人のDNA遺伝子にR1bハプログループの痕跡は皆無である。これはどうしたことだろう?弥生時代にやってきた人々の遺伝子は主として
D1→D1a←チベット民族
D2→D1b←日本人(アイヌ、琉球含む)
D3→D1c←チベット民族
D4→D2←フィリピン・マクタン島住民
D2→D1b←日本人(アイヌ、琉球含む)
D3→D1c←チベット民族
D4→D2←フィリピン・マクタン島住民
つまり、アジア人のほぼ全体からケルトや騎馬遊牧民の遺伝子はほとんど凌駕されてしまったと考えるのが一般的だ。
●現代日本人のハプログループの割合
ということは、アジアではその後たくさんのバイカル湖系D遺伝子の人々が広がって、結果的に先に来ていたR1遺伝子の白人的な人々を飲み込んだことになる。しかもD遺伝子のほうがかなり優性だったと言えそうだ。
大湯環状列石からは、実は同時に南海産イモガイや蛇行剣も出ており、北方系移住者と南方系交換貿易の人々の同居と交流があったことがわかっている。
そこへ弥生時代以降、さらに寒冷地対応したモンゴロイドが入ったのだ。そうやって次第に縄文人の白人的痕跡は飲み込まれてゆくが、奈良時代以後、さらに蝦夷討伐による空白の東北への屯田開拓民が西日本から大量に入れられたことで、これは政治的に縄文人たちの遺伝子は完膚なく消えたということがわかるのである。そして蝦夷俘囚の西日本移住で、面白いことに鹿児島や大分や瀬戸内などに、むしろ縄文の色合いの強い人も残ったし、蝦夷激減後の北海道ではアイヌだけがその遺伝子を引き継ぐ唯一の少数先住民として残されることとなったのかも知れない。
アイヌがいったいいつごろから北海道に移住してきたかは今後まだまだ研究が必要だろう。縄文初期からなのか、先土器時代からいたのか?それとももっと前か?わからない。そしてアイヌもまた、全日本人同様に、明治の同化政策以来、どんどん混血してゆく。
こうして世界の人種の相違は消えてゆく運命にある。
民俗学、人類学、遺伝子学には絶望的、しかし世界の一元化と平和にとっては有益。
それは歴史の必然であろう。