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[転載]稲の呪符・倭人の出発点確定か?!

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日本の北部九州倭人のルーツとして、これまで半島経由してやってきたと言われてきた稲作・製鉄。その場所の特定と意外に短時間の間でやってきたことが、ここまで書き連ねてきた海人族倭人の甕棺や舟形木棺に描かれた模様の一致によってどうやら確証を持って提示できる資料にめぐり合うことができた。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1583928/72/54290472/img_0?20180712082730
辰巳和弘『他界へ翔る船 「黄泉の国」の考古学』新泉社 2010より画像編集

◆十字型稲穂の呪符
中国四川省というから長江文明発祥地である。
遺跡は成都(せいと)市の市街地、商店街のど真ん中にある。
そもそも四川省には膨大な数の船形木棺が出ていた。
商業街船棺墓遺跡の発掘は2000年。最初は建造物遺構が出てきたので開始される。
ところがその中でここの船形木棺が出てきて、その舳先(へさき)に不思議な紋様が描かれていた。
十字に交差したそれぞれの線分の端っこが三つ又の鳥の足指のように開いていた。
この情報は日本に届くまで少し時間があった。

それを、はて、どこかで見たような?と辰巳は首をかしげた。
そう、よく似た紋様は日本の佐賀市から1990年代に出ていた。
こちらは朝鮮の金海でよく出てくる甕棺であるが、まったく同じ十字型。
ただし端っこは三つ又ではなく「五つ又」。
まるで人間の指の数にあわせたようでもあり、かといってやはり鳥の足のようでもあり、はたまた「禾」のようにも見えた。稲穂だろうか?
甕棺に詳しい常松幹雄は福岡市博物館発行の『弥生人のタイムカプセル』に寄せた「カメ棺に描かれた弥生人の世界」(1998)にこう書いた。

「束ねた稲穂を十字に結わえた『稲魂』の象徴で、それぞれの十字の先端の線刻は、稲穂と解釈できる。カメ棺に葬られる人はやがて祖霊の仲間入りをし、祖霊は再び新たな生命として誕生する。この線刻は
、人の生死の輪廻を稲魂の去来に見立てた表現と思える」

さて、その可否はあとに回すとして、実によく似ている。
こちらは甕棺。
それも朝鮮半島海岸部のプサンに近い金海(キメ)式甕棺に刻まれている。
まずは佐賀の弥生初頭人と、弁韓の人々とは同じ甕棺埋葬でつながっており、おそらく同じ「倭人種」であろうかと見える。双方はすでに縄文時代後期からつきあいがあったと考えられる。よく似た土器や遺物が出ているからだ。
この倭種たちがどこから来るかが問題だった。

稲作や金属器の想定からは長江文明発祥地である四川や福建などから長江をたどって来ただろうことは、最近ではほぼ確定していたと言っていい時代になっていた。
そして四川省にある三星堆や馬王堆などが候補地にあがっていた。

しかしながらほぼ一致するような遺物、線刻模様は初めて出た。

・・・・・・・・・・・・・・・

筆者は最初、舟葬の特徴的な模様である鳥、天鳥船の鳥の足かと見えた。
しかし十字型である。
稲穂は説得力がある。

古い時代の稲穂の刈り取りは石包丁が金属器時代になっても使われていたことから、稲を穂元から短く切る――キビ対応型刈り取り法だったことがわかっており、現代の神社の供物に捧げる稲も、やはり稲穂をしばって差し出すことから、稲穂を束ねる行為に稲魂の集中という意味があったのだろう。
するとこの先端の形はやはりどうやら「禾偏(のぎへん)」に見えてくるから不思議だ。

実は禾偏は単独で「キビ」という意味があって、これが最も古い穀物という意味になる。稲作前にイネ科植物といえばキビなのだ。すると縄文時代あたりからすでにこうした模様が双方で出て来てもおかしくない。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1583928/72/54290472/img_1?20180712082730


ほぼ確定したと言っていいだろう。
倭人のルーツは長江中流域である。

黄河文明南下によって四散した倭族が押し出され、長江河口部で小国家を建てていたものが、さらに北上して渤海を渡って半島南部へ。そこから佐賀まで来た。
成都が紀元前5世紀前後、佐賀が紀元前4世紀と、そのタイムラグは意外に短い(約100年前後)。
ほとんど直行に近い時間間隔だが、佐賀の甕棺は金海式であるのと、同じ甕棺葬が四川にあったかどうかは課題である。

以前の調査では日本人と同じD型DNAを持つ南越人=滇国人は甕棺墓をベトナム北部に持ち込み、インドシナにはインド南部から、中国南部には黄河文明南下と同じ頃に出現することがわかっている。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53583926.html

すると意外かも知れないが、黄河文明人のキビ作、小麦作とともに十字型も入ってきた可能性すらでてきて、なおさら面白くなりそうだ。

また国内で、舟形木棺や舟形埴輪が最もそして早く隆盛したのが大阪と奈良であることも重要。(どちらも中心部よりも河川上流域が多い)紫金山の舟形木郭で3世紀終盤である。
ただし、縄文・弥生・古墳時代を通して、九州や日本海を経由しないダイレクトな文明流入はちと考えにくい。

北部九州には早くから甕棺・舟形木郭が着ているが、舟形埴輪はなぜか東九州や朝倉でしか出てこず、しかもその後舟を描かれた装飾古墳が登場するのは早くて4後半~6世紀と、畿内の舟形木棺と埴輪に遅れているのだ。そのタイムラグの100年間に実は「倭国の乱」は起きているのである。
このことは北部九州からの東への移動をバックアップする素材となるのではないか?

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典


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