装飾古墳が、最初は4世紀の気候悪化の頃に吉備王的な直弧文から始まって、五王政権下で九州や百済が激動の中国との交流不可能になって壁画系装飾になったと、これは大塚初重さんの意見を昨日書いたわけだが、その幾何学壁画装飾をなぜ在地豪族が描かれたのかは詳しく書かなかった。
まずこの壁画系古墳の特徴は、諸事情もあってほとんど鏡や剣といった副葬品を伴わないものが多いこと。一番の理由は九州の装飾古墳のすべてが発掘によって見つかっていないという背景がある。日本の壁画のある古墳で、学術調査で見つかった盛り土古墳壁画は高松塚と虎塚の二箇所だけなのである。あとは盗掘とか地震とか工事で発見されていて、その後、すべて開放状態。戦後の一時期に円盤愛好団体が占拠(チブサン)したり、戦災孤児やルンペンが住居にしたりで、まったく管理されなかったせいもあるだろうが、副葬品ばかりか遺骨も、へたすると石屋形の壁材やらまで、誰かが勝手に持ち出し可能だったわけで、なくても仕方がない事情がある。竹原のように多くの出土品があった記録が残された戦後すぐの発掘があった運のいい墓もあるが。
そういう事情は近畿でも同じだったのが戦後混乱期である。石棺のふたがもちだされて観音様が掘られたりはいくらでもあった。
そんなわけで当初は副葬品があたのかすらわからない古墳が多い。しかし、最初からなくても、この時代は実はおかしくはない。なにしろ中国が寒冷・乾燥の旱魃期に騎馬民族の来襲で安定しないまま崩壊したのだから、それまで平原遺跡などの2世紀までの豪華な副葬品が手に入らないはずだからだ。それで絵にして描いた可能性すらあるだろう。
地方の小さな古墳などは、石棺に銅鏡をつるしたレリーフなどが彫られていて、最初からあきらめている風さえ見られる。横穴墓などはもうはなからむきだしなので、いくらでも持って帰れただろう。農作の片手間とか・・・。過去の有名な学者には、出勤前に目の前の海に潜って弥生土器を拾っていた人もいたし・・・。多くの戦後草創期の早々たる学者も、子供のころ、公園や古墳で土器片を拾って学者になった人がいるという時代だ。古墳なんかいくらでも中に入れた。
とにかく後漢が滅亡してから魏ができあがるまでの九州は元気がない。そのかわりに、近畿では、日本海での北魏や新羅を経由した中国のよい品物が入っている。神獣鏡のような魏ではなく呉系の鏡や東大寺山鉄剣も、呉と手を結んで魏をけん制していた北魏から入手したのだろう。それで3世紀からにわかに近畿が元気になった。鏡の服装と言う風習はそもそもは北部九州の2世紀までのもので、当時は全国から先進地九州へ人々が来ており、それを真似したわけだが、元気と言っても本物の中国の鏡はやはり無理だったから、魏が三国時代の覇者となったとたんに半島の百済側にある楽浪・帯方郡へ真っ先にいくわけだ。
そのときには、どうしたって出雲経由では無理で、九州を出なければ地の利が悪い。そこで宗像海人族などを手なづけて、どうにかこうにか。だからそうなると玄界灘を経営する必要性に迫られる。それが一大率である。九州の覇者である奴国ではなく、伊都国にそれはおかれた。つまり伊都国と奴国は最初は対立するライバルだったわけだ。しかし奴国もなんとかしなければ魏の使者は近畿へ通交できない。しかも瀬戸内航路は海賊に占拠されてしまっている。こういう場合、毒を制するには毒を持ってするのだから、息長氏とか宗方氏とか隼人とか、出雲や丹後や越の海人族の説得が絶対必要だ。そういう場所から三角縁が出るのはそういうことだろうし、やがて福井の継体が出てくる背景もここにあるだろう。もっと言えば、日向の隼人は一番大事である。隼人を管轄できたのは葛城氏などである。そこで大古墳をまず日向に作ってあげることとなる。さらに神武東征神話で持ち上げるわけだ。
およそ宮崎の古墳群と神社郡には絶対的に『日本書紀』的な、記紀神話に合致するテーマパーク的な作られ方をしたにおいがするのである。おそらく工人をたくさん送り込んで近畿主導でイメージ化された場所であろう。ただしその背景にはそこが古い王家があったことが前提で、つまり日向には隼人系の国・投馬国があったからじゃないか???などと妄想する。
それで、副葬品は三世紀には九州で減って、大和で増えるとなる。鉄剣も同じだ。しかしそれらはダイレクトな輸入品でなく北魏経由のやや古いもの。そして足りない。だから国産レプリカがたくさん作られた。
宗教や祭祀の面でも、近畿の遺物は中国の呉的な古い神仙思想の絵柄ばかりで、それしか呉の同盟国だった北魏にはなく、結果的に北魏に流行った「鬼道」「女性シャーマン」が入ったわけだ。
しかしいざ本家の魏に言ってみたら「やれやれこんなものが好物か?」とあざ笑われえてしまったんだろう。しょんぼりして、いろいろ現地を検分して最新流行を見て帰ったものだから、やがて神獣鏡ブームは消えて、大和でもやっと方格鏡なんかが大事にされはじめた。中でも人物画像鏡は新しいので、一番重視されたようだ。死者の頭の上に置かれた。
チブサン古墳の王冠人物が見上げている丸い円七つは、星だろうと思う。会員族だから真横に舟のマストがあって、星あてをしながらやってきたポリネシア人を先祖に持っている隼人かも知れない。あの円モンはどうだかわからないが、茨城の虎塚古墳の円文はコンパスの下書きのあとがあるそうだ。そういう知識を九州も北関東も、渡来人から学んでいたのである。
鹿児島の西郷さんの顔は、実際はよくわかってないが、少なくとも銅像のモデルである叔父さんの顔は、どうもポリネシア系に見えてくる。
隼人がそもそもネアン×デニソワというインドシナ黒色人であった可能性はないとは言い切れまい?そうでなくとも琉球の港川系でもいい。台湾やインドシナ系だっておかしくないのだ。鹿児島弁が政治的に作られた方言だと言う説も筆者は疑問符をつけたい。そもそもオーストロネシア言語だったのでは?彼らなら縄文後期でも舟で中国へ行ける。
倭人という言葉はそもそも1世紀半ばにすでに黄河流域の曹操のじいあまの墓に書かれていて、中国人は倭人を知っていた。しかし大和のシャーマンはわざわざ九州を経由するルートを開発してまで半島の郡までいくのだから、直接には中国を知らなかったのである。知っていたら、神話で九州や日向や隼人神話を持ち上げたりしないだろう。
出雲神話だって井の一番に書くのは、半島や魏への港としての優秀さからであり、福井だって息長だって日本海の貿易種族である。それを和合でてなづけたから九州とは別の交易ができた。継体大王だってそうだ。五王政権が消えたあと、あとを受けて、五王の力で押さえつけていた九州とも主従関係を結んでいた。ところが筑紫磐井になんくせをつけたのは、筑紫が平家のような貿易の既得権益をないなししていたか、東国とつるんで挟撃しようとしたか、そうでなければ近畿継体側の独占欲のたまものに違いない。
磐井の敗北がなければ北部九州はまだまだ復活できたはずだ。
ところが実態はそうならず、継体が大和旧来の別王権にぶっとばされても飛鳥王権が新たにできたのが大和だった。そこからあとは装飾古墳は消えてしまうし、九州は完全に力を失ってゆくのである。残念・・・。