平安京条里の再現プロジェクトは昭和のはじめに、建築史の福山敏男が手がけ、田辺昭三や中村修也が信じ込んだ、「平野そばに九条も五条もあった」意見のきっかけになった。しかし福山の書いているのは、五条荒蒔は紙屋川(天神川・荒見川)によって北にある今の太秦広隆寺南大門と南北に結ばれる平安京条里の西の基点になっただろうということと、九条荒見西河里から北野天満宮までの広範囲に秦氏が手に入れた土地があったということだけなのである。どこにも蜂岡寺が平野社にあったとは言っていない。田辺らはそこを読み間違えたのかも知れない。
五条荒蒔は間違いなく天神川沿いの条里制五条なのである。では九条荒見と九条河原里はいったいどこにあったのか?平野でいいのか?
京都通百科事典によると荒見とは
「紙屋川(かみやがわ) 天神川(てんじんがわ) 京都通百科事典(R)の詳細解説のページです。京都観光・京都 ... 散斎(あらいみ)」を意味する「荒見」から「荒見川(あらみ)」とも称されていた 現在も、衣笠に「荒見町」や「大祓町」の地名が残されている 」
http://www.京都通.jp/Geography/RiverKamiyaGawa.html
「紙屋川(かみやがわ) 天神川(てんじんがわ) 京都通百科事典(R)の詳細解説のページです。京都観光・京都 ... 散斎(あらいみ)」を意味する「荒見」から「荒見川(あらみ)」とも称されていた 現在も、衣笠に「荒見町」や「大祓町」の地名が残されている 」
http://www.京都通.jp/Geography/RiverKamiyaGawa.html
つまり荒見は川の名前であるわけだ。荒見川は本流名が天神川、西陣当たりでは紙屋川、九条あたりで粟見川である。とすると地名荒見は九条かいわい下京区にあるはずだ。
ところが京都市で荒見の地名が残るのは北野の北にある衣笠荒見町しかなかった。
で、平野神社の旧社名を調べると、荒見という社名こそ見当たらないが、平野神社には「荒見の祓い」という祭事があり、それは「大嘗会の御とき、荒見川の祓ひとは平野の橋より少し北にて行はるるなり」というのが見つかった。
https://sites.google.com/site/miyakomeisyo/home/maki-no-roku--go-genbu/hirano-mori
それで平野北部衣笠山山麓に衣笠荒見地名が残ったようだ。おそらく平野橋のあるあたりに荒見社があったのかもしれない。
しかし「広隆寺縁起」には「九条河原里のうんぬんの土地と同条荒見社のうんぬんの土地をあわせて」蜂岡寺の旧地だったと書いている。同条であるからそれは九条だろう。では九条荒見とはいったいどこなのか?見当たらない。で京都市に聞いてみた。すっるとやはりわからないという。
お手上げである。
九条でないところに九条と言う地名があった場所はほかにないか?と聞いてもわからないそうだ。広隆寺縁起はなぜ九条という地名を使ったのだろう?それもわからない。記述間違いだろうか?そういわれてみれば蜂岡寺ができたのは平安京条里制以前だ。縁起の記録も承和年間である。九条や五条がその当時、どこにもある地名だったのか?わからないままとなった。
どうやら広隆寺北野創建説をくつがえすに足りることは発見できなかった。
この謎は死ぬまで解けない宿題となってしまったのだった。
次回、いさら井、牛祭り
それにいしても広隆寺縁起などにはなぜ北野の平野社が記録されなかったのか?
慙愧の念に耐えない。
この上は京都考古学が絶対に証拠を見つけるべきであると京都市資料館研究員に申し上げて電話を切ったものだった。しっかり決めんかい!