昨日の記事で、考古学が北野廃寺を広隆寺の創建と見ることを書いた。それは昨今、定説化したかに見えるが、さて?それでいいのだろうか?
この説の提唱者は考古学者の田辺昭三である。
彼は北野平野神社近くで出た北野廃寺跡遺跡こそが太秦の広隆寺の前身だと信じて疑わない。その理由は出土した軒丸瓦の様式が広隆寺創建時代に合致するから、それだけだ。なのにも関わらず文献学者の中村修也などまでが、安易にこれを肯定し論を述べ立てている。
まことに無邪気に田辺は「『日本書紀』などにある広隆寺前身としての九条河原里と荒見社里、五条荒蒔里は、北野の平野神社そばに全部あったのだ」と決め付けている。
しかし、これらの地名にある九条も五条も平安京条里制時代の地名であるから、建築学が想定する条里制では、一条~三条あたりに当たっている北野にそれがあったはずがない。
●条理地名の九条、五条は北野にはありえない。
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田辺は京都の地理を知らないでこの説を展開したのだろうか?
九条は平安時代には東九条町で、今もなお東九条町は存在する。だから九条とは下京区の・・・つまり平安時代は山背国紀伊郡の地名であって、北部葛野郡の北野ではありえない。五条も同じである。それらが北野の平野社そばなどにあるはずがないのだ。
北野廃寺は野寺(常住寺)だったことは、発掘された墨書土器が語っている。
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この土器に「秦寺」とか「秦公寺」とあったというのなら、北野廃寺は確かに蜂岡寺跡だろう。しかし「野寺」は広隆寺が記録上一切使用していない名前である。
こんな杜撰で無知蒙昧な定説があってよいのだろうか?
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