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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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蔚山なの?蔚珍なの?どっちなの?秦氏出身地

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●蔚珍郡
もともと北の蔚珍、南の平海に2つの行政官が置かれていた。現在の蔚珍郡の枠組みができたのは植民地時代に規模の小さな両郡が統合されて以降である。
古代には高句麗と新羅が争奪した。
朝鮮王朝時代には空島政策をとっていた鬱陵島を平海郡守が管轄した(鬱陵郡参照)。
朝鮮王朝時代・植民地時代には江原道に属していたが、1963年に慶尚北道に属した。

三国時代 - 高句麗により、現在の蔚珍に于珍也郡(のち古于伊郡)、現在の平海に斤乙於県が置かれる。
505年 - 新羅の領域に入り、于珍(のち蔚珍)と呼ばれる。
757年12月 - 溟州に属し蔚珍郡となる。
940年 - 高麗王朝により蔚珍県・平海県が設置される。
1413年10月 - 朝鮮王朝が蔚珍県と平海郡を設置。
以上Wiki蔚珍郡より

なるほどあちこちに侵害された歴史である。
これなら多くの現地人国外逃亡が起こりやすかっただろう。
日本に渡来遺跡ができ始める3世紀前半は、新羅地域にはまだ高句麗や百済ほどの規模の大きな国家が成立していない。辰韓からようやく斯羅ができ始めるが、秦氏の脱出はこの頃徐々に始まり、半島で三々五々したが、百済が押し込まれるといよいよ居場所がなくなったのだろう。渡来がほぼ終わったのは4世紀である。『日本書紀』など文献は、秦氏の来訪をその頃にまとめて書いたのだろう。だから記録上、渡来は4世紀というのが定説になったのだが、実際には3世紀前半から、少しずつ始まっていたのである。

●蔚山
「三韓時代には辰韓に属して、西南部地域には于尸山国があった。中部地域には屈阿火村が形成されている。新羅時代には中部地域の屈阿火県と西部地域の居知火県、西南部地域の于火県、東北部地域の律浦県、南部地域の生西良郡があった。統一新羅時代の757年に屈阿火県が河曲県に、居知火県が巘陽県に、于火県が虞風県に、律浦県が東津県にそれぞれ改称された。 」Wiki

「蔚山広域市は古代、新羅国の町であったが、さらにその前の3から4世紀末までの三韓時代は辰韓の国の中の于尸山国であり、後に成長する新羅国に吸収された歴史があった。この時期が神功皇后の三韓征伐にあたり、以降、秦氏の日本列島への渡来が増えた。」
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12074417851.html

「進歩した古代の製陶技術から、窯. の形、通風装置、燃料の処理など鉄 ... 蔚山市達川( タルチョン)遺跡の鉄鉱石採堀. 場では甕、壺,高杯など弥生式土器 」
PDF 古代の鉄その2

こちらは考古学的に弥生式土器や鉄鉱砕石屈などが出て、またすてがたい場所である。



イメージ 3
蔚山捕鯨基地跡
捕鯨の歴史は新しい記録しかないが、始まるためには技術ある漁師がいる必要がある。ここにはいたのだろう。


イメージ 2

蔚山左兵営城
http://koreancastle.com/
三国時代にまず土城はあったが、石によるものは1500年(朝鮮燕山君6年)に初めて築かれた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に崩壊したものを1617年(朝鮮光海君9年)に再築城

韓国海女
海女(朝鮮語: 해녀:ヘニョ、英語: Haenyo)は、大韓民国(韓国)において、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業とする女性である。17世紀の書物では「潜女(Jam-Nyeo)」として記述されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%A5%B3_(%E9%9F%93%E5%9B%BD)


イメージ 1
蔚山海女


蔚山にも海女はまだいるのだ。
文献では済州島海女は17世紀を遡らないが、朝鮮の古代記録が度重なるアジア諸国家の侵略による戦火で全部消失したことを考えれば、古代から風習があったと見てよかろう。



こう見て来ると、秦氏の半島の居住地は、どちらでもありえそうに見えてくる。というよりも「ウル 蔚」という地名が秦氏が移動した結果両地方に残った可能性がある。

世界的に英国からの移住者が米国にボストンとかニューヨークのように、故国の地名をつけることはよくあることで、秦氏も故国の蔚山・蔚珍のどちらも捨てがたく「ウル」だけを「うづ」と日本語読みして太秦に残しただろうことは想像に難くない。文献が「禹豆満佐」と拝命したという記録は、朝廷側からは自らを権威づけられ、秦氏から見れば名誉になる話だ。つまりできすぎた話なのである。最初から山背葛野に入って秦氏自身が「蔚勝 うるまさー」と名づけていた土地を、太秦と表記する許可を得た、というのが実態ではないか?

太秦という表記だが、おもしろいことだが始皇帝の秦や漢帝国ではローマ帝国を大秦としていた。偶然の類似かどうかは知る由もないが、太としたのは、蔚の文字に「鬱蒼とした」があって、大氏族となった秦氏にふさわしいように見える。まさに秦氏はうっそうと、煩雑な、混沌の氏族なのである。いずれこれらの発掘で、もっと倭人、倭国、海人族とのつながりの証拠品が出てくるだろうと思う。

さて、ではそれ以前の秦氏はいったいどこにいたのか?
それはまだまだわかろうはずはない。
中東・イスラエルといった目で見てしまえば、人類のすべてはアフリカを発してそこを通過して拡散したのであるから、何の意味もなくなってしまいかねない。彼らがユダヤ教徒であったなら、飛鳥時代に仏教を広めたことと矛盾してしまう。もし仏教拡散を朝廷へ近づく手段とし、実は影では摩多羅神としての人を食う神=障礙神 をユダヤの神として信仰したというのなら、あまりに証拠が希薄である。ユダヤの神は唯一神ヤハウェ(יהוה)(エホバ)であるが、われわれ日本人が知るところのエホバの神格や意味合いは、ほとんどがキリスト教の旧約聖書によって加工されたもの(三位一体や12使徒とその分離放浪、出アフリカなど)であり、本来の原子キリスト教やイエス直前の変貌したユダヤ教について、何も知らされてはいないのである。そこを取り違えてはならないだろう。

メシアを聖徳太子だとするのも逆である。『日本書紀』が聖徳太子を創作したのは、秦氏の海外知識からの創作であって、メシア的なイメージの産物でしかない。まして太子が厩で生まれたというのはキリスト教の伝承であり、ユダヤ教の伝承ではない。

摩多羅神というのは、まだら=混血民族のことであり、秦氏そのもののことである。まだらとは神仏習合神全部であり、その根本はインドのヒンドゥにあった障礙神 マハーバーラタ、シバのことである。そうした自然災害を神格化した神が、ユダヤ教にある必要がある。キリスト教が作り出したサトゥリヌス(やがて悪魔へ変化)のような時の神、災害神がだ。もしあったとしても、すべての原始的信仰には災害神はあるもので、なんら証拠にはならない。

災害神とは宇宙の摂理そのものであり、地球環境がなすわざを「たたり」とする考え方で、果たしの場合、それが摩多羅神だっただけである。そういう神ならアメリカインディアンでさえ持ちえている。特に秦氏が中東から持ち込むべき信仰だったわけではないのだ。日本にすら最初からそれはあったのである。ヤマタノオロチやスサノオやオオクニヌシはまさにそうである。

それでもなお、秦氏の関わった渡来知識には、あまりに広範囲な世界的知識がなければ無理だと思われるものがある・・・。そうかも知れない。それは彼らの中に、スキタイや中東人イランの商隊やが混じっていたからにほかなるまい。それらの故国まで追及するのは、大陸東西南北の混沌のすべてを答えろと言っている様なものだ。

ひとまぜ朝鮮国の東南部、新羅になった地域から彼らは直接やってきたとわかっただけでも充分だ。どこに?あちこちにだ。舟は海流でどこにも行ってしまう。豊前もそうだし、北陸もそうだし、出雲もそうである。最後に山背葛野に入った。そのルートは宇治から深草であり、河内から大和、山背南部でもあろう。そもそも彼らには本体というものがない。核となるのは葛野と稲荷と豊前なのである。あとはもうどんどんくっつき膨らんでいった。つまり混沌、つまり蔚なのである。大阪市の勝山や鶴橋や、豊前の田川に行くといい。まさに混沌である。東京の大久保でもいい。つくばでもいい。隅田川でも。

混沌の民族をひとつにできるのは障礙神信仰=マハーカーラだけだとすぐにわかるだろう。
それが日本の祟り神の始まりである。



 




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