大神とは何か?
●土佐大神 とさのおおかみ
『日本書紀』天武天皇紀土佐大神の条
「土左大神神刀一口を以て、天皇に進る」
「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」
●土佐大神 とさのおおかみ
『日本書紀』天武天皇紀土佐大神の条
「土左大神神刀一口を以て、天皇に進る」
「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」
『土佐国風土記(逸文)』
「土左の郡。郡家の西のかた去くこと四里に土左の高賀茂の大社あり。
その神の名を一言主の尊とせり。
その祖は詳かにあらず。
一説に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ。」
「この二柱の神は、古来より賀茂氏によって大和葛城の里で篤く尊崇されてきた神とされ、大和の賀茂氏および、その同族が土佐の国造に任命されたことなどから、賀茂氏の神を当地に祀ったものであると伝えられている」人文研究見聞録サイト土佐神社よりhttps://cultural-experience.blogspot.com/2015/11/blog-post_16.html
ちなみに、『土佐国風土記(逸文)』によれば、土左大神には御子神として天河命(あまのかわのみこと)がおり、天河命には浄川媛命(きよかわひめのみこと)という娘神がいるとも記されています。」
土佐の表記は、古く平安時代までは「土左」であるが、近年は「土佐」表記を使う。
今の高知県の大部分。
今の高知県の大部分。
土佐神社は土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表(べっぴょう)神社である。 ※別表神社とは、神社本庁が定めた、神社本庁が包括している神社のことである。
文献によって表記や神社名がまちまち。
土左大神 - 『日本書紀』[原 1][原 2]、『土佐国風土記』逸文[原 3]
土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』逸文[原 4]
都佐坐神社 - 『延喜式』神名帳[原 5]
都佐坐神 - 『日本三代実録』[原 6]
高賀茂神 - 『長寛勘文』
土左大神 - 『日本書紀』[原 1][原 2]、『土佐国風土記』逸文[原 3]
土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』逸文[原 4]
都佐坐神社 - 『延喜式』神名帳[原 5]
都佐坐神 - 『日本三代実録』[原 6]
高賀茂神 - 『長寛勘文』
上記『日本書紀』と風土記では、土佐大神はアジスキタカヒコネ(書紀)と一言主(風土記・ひとことぬし)であるとなっていて、●高賀茂とは、奈良県葛城地方の高賀茂味鋤高彦根神社の祭神でアジスキタカヒコネである。高賀茂神、つまりこれが賀茂大神(くらおかみ、たかおかみとも。くらおかみはたかおかみの後戸神で、たかおかみがアジスキ、くらおかみが一言主ととらえる手がある)であるから、土佐大神の二柱のうち、ひとつはアジスキタカヒコネそのものとなる。これは『日本書紀』天武天皇時代の、中央政権の主張である。●一言主もまた葛城の神で、両者は葛城山中腹に高賀茂、やや高いところに一言主が祭ってある。
高賀茂神社の場合、出雲神話の神で、ともに地主神である一言主神をオオナムチの分身である賀茂神つまりアジスキタカヒコネが鎮撫する形で葛城の鎮守であり、一言主神社は記紀・雄略天皇(大王)の時に、天皇と同じ姿で神として登場し、天皇をいさめた神。つまり葛城山の山の神で地主神である。
つまり天皇氏よりも古くから大和にあった神々である。言い換えれば葛城氏は「先の先の大王(近畿に限れば、天皇大王家の前は蘇我王家、蘇我王家の前が葛城・吉備王家。日本全体では奴国王が最古で、次に邪馬台女王国、あとの地域にも群雄割拠で、丹後、越、蝦夷国家、隼人国家、球磨国家、北関東国家などなど、100以上の小王国が林立していたと考えられるが)」だった可能性もあるが、文献では天皇氏へきさきを出していた一族が葛城氏であると造られている。
住所=高知県高知市一宮(いっく)しなね2丁目16-1
「大神 おおかみ」とは=主として奈良の大神神社のことだが、ある地方には、ほぼ一箇所~複数個所の地域の大神がある。記紀や風土記に記載された、記紀神話に登場する神々が、地方へ流されたりして祭られていることが多い。特別なのかどうかわからぬが、紀伊国には大神が二箇所ある。
「大神 おおかみ」とは=主として奈良の大神神社のことだが、ある地方には、ほぼ一箇所~複数個所の地域の大神がある。記紀や風土記に記載された、記紀神話に登場する神々が、地方へ流されたりして祭られていることが多い。特別なのかどうかわからぬが、紀伊国には大神が二箇所ある。
なにゆえに葛城の地主神二柱が、ともに中央から土佐へ流されたかと言うと、称徳天皇と道鏡の時代の『続日本紀』はこう弁明している。
「『続日本紀』によると、大和の葛城山にあった一言主神は雄略天皇と狩りの獲物を巡って争いを起こし、命によって土佐に流されてしまったという。この流された神はしばらく別の場所に鎮座していたが、新しい宮へ移ろうと、須崎の鳴無神社から石を投げて、現在の土佐神社に宮を定めたということになっている。その投げた石は、今も「礫石 れきいし」という名で境内にある。
しかし『古事記』によると、雄略天皇と一言主神の関係は逆転し、葛城山中でいきなり神と出くわした天皇は、畏れ多いこととして着ていた衣服を差し出して崇めたとされる。この矛盾する話のために、賀茂氏の別の祖神である味鋤高彦根尊を「高鴨神」とする説も支持されることになった。この結果、現在の土佐神社の祭神は二柱となっているわけである。」
日本伝承大鑑サイト高知編よりhttp://www.japanmystery.com/index.html
簡単に『日本書紀』主張では、一旦、滅ぼした先の王家飛鳥蘇我王家の祟るであろう神霊は、蘇我氏の祖であるアジスキタカヒコネと一言主として、先の先の王家葛城王家と一括して、土佐へ流した。しかしその後、また大和の元の場所に戻されたのである。しかし土佐は土佐で神社は残り、形式上、やはり神は流されていることになる。意味不明。出雲オオナムチは大山誠一の説では蘇我氏のことであり、出雲神詞ではアジスキタカヒコネ・事代主・カヤナルミは藤原京の四方を鎮撫するとして置かれた神々。それをひとつ追いやれば、そこは鬼門となってしまう。だからあわてて戻したのだろう。アジスキタカヒコネは葛城氏と賀茂氏のおやがみであるから、武内宿禰系氏族すべての祖人だと言えるだろう。だからオオナムチ(大穴持=大地主神)である蘇我氏の先祖もろともに一旦追い出してしまったことになってしまった。オオナムチはちゃんと神社があり、なぜこちらではなく葛城の二神だったのか不思議である。霊力として弱いか?あるいは藤原氏にとっては直接的にル残したのは蘇我氏神霊だから、葛城はもっと前の河内王家が流懺したので、なくてもよいと思ったか?それを戻したというのは、不比等死後の藤原氏では、そのことがうっかり忘れられ、しまったそれもうちがやったことだった!と、言うことだったのかも知れないが、実は『続日本紀』の頃は、藤原家は橘諸兄の台頭や藤原仲麻呂の乱で衰亡しており、橘氏がそういう事情を知らなかった可能性があり、また道鏡事件も起こっている。土佐に葛城の神々を流したのは橘氏だったかも?となるとうっかりであろう。
それにしても6世紀の雄略朝に流されたはずの葛城の神を、「続日本紀」の天平宝字8(764)年に戻す(道鏡側近だった円興の弟である賀茂朝臣田守が戻したという)とは、あまりに時代に開きがありすぎる。二百年も忘れられていたということはなかろうと、上山春平はこれは役行者を流したことを言い換えたかと書いているが、それも奇妙で、役小角が流された簿は伊豆で、まったく土佐とは方向が違う。大山はそれより前の天武の壬申の乱関係で、蘇我赤兄・巨勢比等、中臣金の子供、蘇我果安の子供らが流されたことなどとの関与か?としている。まあ、それも変ではあるが。しかし土佐かどうかはわからないし、身内の中臣まで流したというのはまだ藤原不比等ではあるまいから、どうかとも見える。いずれにせよ戻したのは道鏡でいいのではないか。新興勢力としての人気取りだと大山も書いている。
●紀伊大神 きいのおおかみ
紀大神は二箇所にある。
①五十猛命=和歌山市伊太祈曽(いだきそ)の伊太祁曽(いたきそ)神社のご祭神
②アマテラス=日前国懸
紀大神は二箇所にある。
①五十猛命=和歌山市伊太祈曽(いだきそ)の伊太祁曽(いたきそ)神社のご祭神
②アマテラス=日前国懸
「天武期持統期の神々への奉幣は国家的祭祀で行われている。天皇家の祖神とされる伊勢の神はともかく、その他の神は一地方氏族の祖神であるはずがない。とは云え紀伊には太陽神として日前神が鎮座しており、国懸神が伊勢に先んじての皇室の祖神の天照大神のこととは考えにくい。ましてや天武の回復祈願にでも皇祖神の天照大神を祀ることになった伊勢の名は出ていない。
天武期に紀伊国国懸神と書いている。しかし持統期には四所の一の紀伊大神、五社の一の紀伊となっているのは伊勢の天照大神と同様に紀伊に日前神として天照大神が祭られた可能性も考えられる。これは『日本書記』の編纂は、大宝二年(702)の伊太祁曽三神の分遷以後の和銅七年(714)からであることからも推測できる。
日前神の名が神代紀以来登場するのは嘉祥三年(八五〇)の『文徳実録』で、紀伊國日前國懸大神社とある。従って、紀伊国国懸神とは紀伊國日前神ではなく、国懸神の神格の一である「紀伊國に坐す大神」と見るのが素直な見方。即ちこの頃では木の神の五十猛命ではなかろうか。」神奈備へようこそサイトhttp://kamnavi.jp/ki/nitizen.htm
見ての通り、アマテラスは持統が天皇になってから置かれたのだからイタケルよりもあと。つまりそもそもはイタケル=スサノオの子供が紀伊大神で間違いない。しかし記紀では、スサノオに、アマテラスとの誓約で生んだ八王子・王女以外に子供がいたとは、いつのまになのか?駆使稲田比売との子供だろうか?いきなり新羅から親子で出雲に戻るとされるが、なぜか種を紀伊半島にまく。
そもそも大山説なら、出雲などまったくスサノオ・イタケルと関係なく、まずは紀伊半島の熊野に二人は入り木々の種をまいたので、紀州の大神としてイタケルが祭られる。記録上は文武天皇の時代で、古くない。アマテラスが日前・国懸(くにかけす)に祭られたのと同時期に、イタケルも、『日本書紀』記録にあわせて置かれたに違いない。しかしこれは不比等が意図した、蘇我氏オオナムチの出雲大社祭祀の元ネタがばれてしまうことであるので、記録しなかった可能性があり、イタキソの祭祀はもっと古くから海草郡の紀氏たちが行っていた神こそがイタケルだった可能性がある。その紀伊における父であるスサノオを出雲開闢神に利用した。風土記はスサノオなどは紀氏だけが祭る神だったので書きたくないが、しぶしぶ、地方神として名前だけ出した・・・。
筆者もそれは共感できる。紀氏は木の仮面をかぶり、祭祀ではよく踊ったと考えるからである。これは纒向で出ている仮面、さらに豊後国東突端の伊美におけるケべス神(=岐部の神で紀部であろう)がやはり仮面をかぶるからである。出雲風土記のスサノオも仮面をかぶって陽気に踊る気のいい地域神として登場している。
『出雲国風土記』にはスサノオのオロチ退治はなく、まるっとそこに名も知らぬ地元神の国引き神話=国家成立話がはめられている。つまり出雲ではスサノオはいない神であり、紀伊と同名の熊野神社も、『日本書紀』以後に作られたものであろう。本来スサノオは紀直、紀臣の祖人として紀伊半島海岸部で紀氏が祭る神だった。それは同族である葛城氏の本拠であるから、紀ノ川火口部北側~葛城山地、そして京都桂などは紀氏が一国と飛び地にしており、葛城とも婚姻関係にあって、スサノオ--武内宿禰子孫氏族としてある。蘇我氏ももし本当に葛城であるなら、出雲築杵宮のオオナムチz=オオクニヌシとは蘇我入鹿一族だけでなく、葛城の神も祭られている可能性がある。
葛城氏の本拠地にある極楽ヒビキ遺跡で、葛城襲津彦の古墳に当たる墓には直弧文のつけられた靫の埴輪があるが、直弧文は大坂の紫金山古墳からも出るし、北部九州の装飾古墳からも出る。だから直弧文は流懺された吉備と葛城一族が祟らぬように貼り付けられた印だと筆者は思うのである。そしてその×を除くと表れる吉備系弧文こそが、纒向でも出たのだから、それこそが邪馬台国の氏族が吉備と葛城であったことになるとも思うのである。だから彼らの流懺は、ずっと新しい持統と不比等の時代にはありえないはずだ。それは4~6世紀に起こったことになる。おそらく秦氏がやってくる4世紀以後のことである。すると肥後の阿蘇ピンク石などの阿蘇の石材が使われなくなる時期こそは、吉備・葛城の衰亡だと見えてくるのである。その頃、紀氏もまた佐賀県の基肄郡を離れて、太平洋を紀州へと動いている。石棚のある石室が動き、やがて北関東へ彼らが移住したこともはっきりしている。紀氏こそは前方後円墳の時代が終わってもまださきたま古墳群などを作り続けた氏族だっただろう。