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空白の天武以前/推古・斉明・天智・天武天皇はいなかった!斉明は神功皇后モデルで卑弥呼だった


空白の天武以前
・・・推古・斉明・天智・天武天皇はいなかった!
女王卑弥呼・男王・臺與から生まれた「皇極・孝徳・斉明重祚の虚構の造作」その相関関係と神功皇后の必要性

『日本書紀』では皇極女帝が重祚して斉明天皇となる間を縫うように孝徳天皇が即位するが、これは一巳の変(大化の改新直前の蘇我氏滅亡事件)で蘇我入鹿が誅殺されてのちのことで、蘇我王権=方墳氏族から持統・不比等の藤原京と律令制完成までのはざまの出来事であり、蘇我王権から藤原・持統王権つまり大和朝廷成立までの、どさくさのこととして描いた可能性があり、事実、彼ら天皇姉弟が大王だったのかどうか...いや、実在したかどうかすら疑問がある。

彼らも天智・天武も、母方息長王家の正統性のために作られている可能性があるのかも知れまい。

『日本書紀』の磐井の乱を、まったく反対に、磐井が新羅になど助力してはおらず、むしろ代々の筑紫の諸王がそうだったように、百済をこそ祖国として守ってきたと考えてみるような視点が必要ではないか?

『日本書紀』が大和朝廷、特に天皇よりも藤原氏のための史書だと考えれば、それは当然の「逆転の日本史」視点になる。

『日本書紀』編纂当時に、すでに百済はなく、日本は新羅としかつきあえないこととなっていたのだ。息長系譜は代々、新羅をほろぼそうとしてきた人物たちの系譜である。そこが論理的には百済を推してきた『日本書紀』成立時代とは政治的にまったく正反対なのである。非常に『日本書紀』の政治性には矛盾が満ちている。正反対のことになっていて、筑紫を悪者としてあるのだ。そこに天智天皇九州王家説が生まれる格好のヒントがあるのである。『日本書紀』飛鳥時代とは九州にあった王権の歴史ではないか?と。

 
そしてその息長血統すらも、実は空虚な創作の可能性がある。つまり蘇我王権の前の歴史は、また推古も斉明・皇極も孝徳も天智・天武も、持統以前の大王はみな、つまり今の天皇につながるような王家は、全部空白、すべては藤原不比等の創作だったと筆者は考えるものである。飛鳥蘇我氏よりも前に実在した王家は、記録上三つしかない。


①『宋書』倭国伝が書いた5世紀の倭五王地方王権と

②『三国志』魏志倭人伝が書いた邪馬台国を中心とした3世紀後半の女王国、

③『漢書』地理史が書いた筑紫の奴国

だけである。


まして『隋書』「俀(たい)国伝」ともなると、倭国どころか、どこの国の歴史なのかもわからない。時代は確かに日本の飛鳥時代であるが、倭国とも書かれておらず「たい国」では東南アジアの国かと首をかしげる副題で、ところが舞台設定に阿蘇山と書かれてあって、まずもって大和のこととはまったく考えにくい状況。となると蘇我王権とは筑紫島南部の球磨(人吉以南)あたりにあった熊襲国家だった可能性すらあるだろう。その証拠品が人吉市から出ている金メッキの神獣鏡かも知れない(人吉市才園(さいぞん)古墳5世紀)。これが魏志の狗奴国の後継国ならば?魏志は狗奴国が負けたとも、滅びたとも書いてはいない。むしろ邪馬台国が負けたと考えれば、『日本書紀』で吉備・葛城王家がほろびたことに合致する。

ちなみに「奴」とは朝鮮語で「国・・・奈良のナ」である。奴国の「な」を、定説は博多=那の津の「な」とするが、弥生以後の国家なら半島渡来人が作ったものだから朝鮮語のほうが?また奴=那=灘とする意見も捨てがたいのだが?海人族の住まった地名に那賀は多い。「海の目の前の国」の意味。往古、海人族は海を「灘」と、狭い範囲で呼んでいた。神戸市灘区などは海人が開いた土地であろう。



斉明に戻る。
なんとなれば、皇極女帝は勇ましく新羅を討とうとした男勝りの女帝として描かれ、まさに神功皇后のように激しく、勇ましい。それが一巳の変以後は、孝徳という男弟王が登場し、難波に王都を建てるものの、天智・皇極に裏切られ病死のあとに再び女帝・斉明が重祚して登場・・・しかも同じ人なのにまったく性格がおとなしく目立たなくなり・・・という、『日本書紀』の描いたどたばた劇は、どことなく魏志の邪馬台国女王が、

卑弥呼→男王になったがまた不安定になって→臺與女王
皇極女帝→孝徳大王で浪速へ遷都も不安定→斉明女帝重祚
アマテラス→男弟王スサノオと仲たがい戦争、岩戸隠れ→再登場


という三つの変換劇は似ていないか?もしや、魏志倭人伝の女王交代を、そのまま名前だけ置き換えて書いたのではないか?どたばたさせて蘇我王権滅亡への批判をかわしている?



万世一系と『日本書紀』が言い募る天皇の系図で、あきらかに無理につないだらしきところが複数個所ある。

①まず崇神の三輪王家からヤマトタケル伝説をはさんで仲哀が神に殺され、なぜか突然応神と息長の姫・神功皇后の新羅征伐と帰還があって、いつのまにか河内王家へ王朝が交代。

②さらにその河内王家が武烈大王の子供がないというありえない話になって越前から正体不明の継体大王が登場、息長血統と書き始める。

③さらに継体の子供らが早めに死ぬと、いきなり蘇我稲目が現れて(中国の周王の前で釣りをしていた太公望の登場のようだ)息子の馬子大臣と推古と聖徳太子が出現して、大和物部氏と崇仏・廃仏戦争が始まる・・・。

④蘇我氏が滅んで、またまた息長血脈の嫁入りと天智がひきつぐ息長血統の異常なまでの保護、持ち上げ。

⑤天武がすごいといいつつ、実は草壁は死に、持統と言う息長系譜が復活

⑥天武の血脈が全部が全部若くして死に、結果的には桓武という息長血統だけに。

⑦続日本紀になって、ようやく、『日本書紀』で改竄した歴史のために不比等の四人の子供が死んだと書かれた。つまり反藤原勢力の報復。

これらのつなぎの場面は、みな前の大王家の生き残り女性とに婚姻や遠い親戚とかいう無理な系譜になっており、神功皇后の限りなく息長氏(架空氏族)の血と葛城大王家の血筋が不可思議にからみあって継体へとつないであるし、なにかうそくさい。蘇我馬子の祖先にしても造作であるし、一巳の変で切り替わった大王家面々も創作。そもそも飛鳥のはじまりであった欽明そのものからしていなかったと考えられる。

中でも持統の前に置かれた二人(重祚させて三人にしてある)の女帝は、いかにも持統以下の傀儡3女帝の正当性のための前例であった可能性が非常に高いのだ。孝徳もそうである。その系譜の元ネタは魏志倭人伝の女王記事ではないか?

斉明の和風諡号(いみな)にその謎は隠されはいないか?

天豊財重日足姫尊 あまとよ・たから・いかしひ・たらしひめ

「あまとよ」は持統の諡号に高天原がつくための前例的な天の世界の意味。
 「たから」は幼名宝皇女から。
「いかしひ」は女帝即位の前例に「名前を生かしただけの姫」だろうか?
大事なのは最後。ちゃんと息長の姫のあかしである「たらしひめ」がついているところ。



彼女は明白に神功皇后のモデル、前例として創作された女帝ではないか?(大山もそう書いている)

それが重祚するのは卑弥呼と臺與の前例から創作。つまりこの女帝と弟の孝徳は、明白に魏志倭人伝の邪馬台国女王記事から不比等が創作した、存在しない天皇ではあるまいか?




それが、入鹿が死ぬときに「これはどういうわけなのか?」と足元で聞かれ、時の皇極女帝は「わたしにはなにがなにやら」と知らなかった振りをさせられたり、あるいは馬子のときに三韓の調の場で出てこなかった推古女帝もまた、いない存在だったであろう。つまりこれらの女帝は、明白に不比等が、持統、元明、元正という天智の血筋が即位することの前置き、前例として創作されたものと考えるものである。もちろん聖徳太子もそうである。祟る入鹿と蘇我一族の神霊を慰める手管として聖徳太子は登場するのだ。

太子が、「丁未(ていび)の変」で物部守屋を倒したとき、祈願したお礼に大阪上町台地に四天王寺を建てたとあるが、四天王寺は実にそのころまだないのである。その証拠は日本最初の寺院とはそのあと皇極(のちに斉明)、つまり蘇我王家が建てた飛鳥寺なのだと同じ『日本書紀』はちゃんと書いてあり、完全矛盾。また四天王寺のある場所ですでに祭祀をしていたのは難波吉士(なにわのきし)氏らである(加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」など)。https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/f5593bc82c50de74897cc03b9f06c612

●※吉士
「吉士とは日本古代のヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つ。
「吉志」・「吉師」・「企師」とも表記される。

「渡来系氏族が多く、難波周辺を本拠としていた。この姓を持つ氏族としては

1.大彦命を祖とする。のちの難波吉士で、この一族に難波日鷹吉士(なにわのひたかのきし)・大草香吉士(おおくさかのきし)がある。

2.百済人努理使主(ぬり の おみ)を祖とする。のちの調吉士(つきのきし)[2]

3.新羅王子天日槍(あめ の ひぼこ)を祖とする。のちの三宅吉士(みやけのきし)

の3つの流れがある。 」Wiki吉士より


●難波吉士・大草香部・日下部
多くが今の大阪府吹田市岸部に住まった。有名な後裔子孫に岸部一徳・シロー兄弟(ザ・タイガース)。

●大草香部吉士(おおくさかべ・きし)は草香部皇子(安康天皇が殺した)の名を雄略天皇時代に名乗ったと造るが、非常に怪しく、海部氏関係で靫負となった日下部との関係者かも知れぬ。日下部はこれも諸説あるが、四国の久米部など海人族関連氏族だろう。浦島伝説を持つ。日下と書くのは「草香部皇子の親衛隊門番のくさかべがいたところであり、そこに日が昇るので、くさかべの日の本と」。

有名なのはもとは大阪湾の海岸だった東大阪市日下。大和の港であった草香江(くさかえ)がここである。西に金剛・葛城・生駒の山地が連なり、そこから日の出するヵら地名となった。日本国命名の元になったと言われる海人族的な地名。ニギハヤヒを祭る石切剣矢神社がある。この矢こそが日下部たちの職掌で、ゆえに靫負(ゆげい=大伴氏の象徴的武芸軍団で門番。靫(ゆき)とは飾り矢を背負って最前線に立つ勇猛なものが背負った矢筒である。羽を下にして矢先を上にした威嚇する姿であったという。一般的に実戦の矢は羽を上にして靱(やす・ゆき)に差す。)となった。日下部たちはもともと大阪湾河内湖のもっと南の草香にいたが、その後ほかの氏族に追われて仕方なく草香江に移住。そこを彼らが再び草香と呼ぶのである。だから日の本の日下と枕詞にまでなるのは、日下部たちの力があったからだろう。それを最初の国名にしようとしたのは蘇我入鹿であろう。しかしその行為を奪って天武から日本となったとしたのは藤原不比等である。なにもかも蘇我氏の物まね、コピーの朝廷のはじまりであった。一般に蘇我飛鳥時代の「日本」国主張は聖徳太子だと考える人が多いが、聖徳太子は実は、殺した蘇我氏の理想像であり虚像として、不比等の娘・光明皇后が考え付いたもので、要するに前の王家を滅ぼしたことへの、藤原氏的な「神やらい」思想だったのである。

●おまけの久米部
「久米部(くめべ)とは、古代日本の軍事的な職業部(品部)。「来目部」・「久目部」とも書き、「大来目部」とも言う。
 
本来は久米直が伴造として管掌してきたもので、のちに久米直とともに大伴連の統率下に入った。中国・四国地方に分布し、宮廷の警衛・軍事にあたった。

久米部は 中国地方・ 四国地方を中心に、東海道沿いにも分布しており、 伯耆国・ 美作国 ・伊予国には久米郡が存在した(久米郡 (愛媛県)・ 久米郡 (愛媛県))。 岡山県には、現在も 久米郡が存在する。一方で、従来から大伴氏が統轄していた大伴部が東国に多いこと、『古事記』では対等な立場で描かれている「久米氏」と「大伴氏」が、『書紀』などでは大伴氏に久米部が従属するかのように記述されていること、久米直氏が 八色の姓でも賜姓されていないところから、久米部を管掌していた氏族が衰亡し、久米部も大伴氏に管理されるようになったことが想像される」Wiki久米部



「くさかべ」は天武の長子・草壁皇子に似る名前である。アメノオシホミミのモデル。そこから前倒しで造られたという見方は無理か?天武は大海人皇子でやはり海と関係深い。「おおあま」は海人族に育てられたという意味だ。それが日下部の正体かも???いずれにしても部がつくので、大王家の部民出身である。部民は貴族でも武家でもない。これをシナベという。大王のために専用の世話や守護をする下層民出身者。


つまり聖徳太子なども、あとからの創作。丁未の乱が廃仏論で起こるというのも嘘。原因はおそらく蘇我氏による物部氏=ニギハヤヒが配下にしていた、大物主を信仰する縄文人ナガスネ彦集団という中央集権の邪魔者を排除した事件であろう。つまり出雲国譲り以前にあった本当の国譲りを描いたものだろう。不比等は神道氏族として、聖武の仏教傾倒に困り果てていたわけで、そのことも影響してか、廃仏を唱えた守屋のされたことを、聖武への戒めとしたかったのかも知れない。持統以後の日本は、仏教よりも神道が強く、空海以降はしぶしぶ神仏習合に踏み切るが、仏教ははかばかしくない貴族へは向かわず、しかたなく民衆しかも部民、中でも被差別者へ向かうしかなかったのである。つまり一向宗、延暦寺、日蓮宗などなどそうである。




結論
蘇我王権も大和にはなかった可能性がある。それは大和でもない別の国家。例えば狗奴国王権のこと?

持統よりも前に、大和にはすべての王権は存在せず、『日本書紀』全部が、中国史書と朝鮮の史書、及び九州南部にあった狗奴国の歴史から創作し、大和に置き直しただけのまがいものの歴史である。

『日本書紀』は持統だけが実在で、それより前はすべて虚構。つまり『日本書紀』は日本の正しい正史ではなく、藤原氏のための偽書である。

今のところ筆者はそう考えるしかない。




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