数年前に筆者が調べた記録上の息長氏人物たちの一覧である。再び掲載しておきたい。
◆実在した息長氏人名一覧
名前 時代 出展 備考
息長足日広額天皇(舒明天皇)629~641日本書記」父押阪彦人大兄皇子/母糠手姫皇女
息長山田公 642 皇極元年12・1 「日本書記」 舒明の殯宮で「日嗣」を誅している
息長真人老 711 和銅4・4・7 従四位上 「続日本紀」
息長真人子老 702 大宝2・1・17 従五位下 「続日本紀」 息長真人老の子
息長真人臣足 714 和銅7・1・3 従五位下 「続日本紀」 719年 出雲守
息長真人麻呂 729 天平元・3・4 従五位上 「続日本紀」
息長真人名代 733 天平5・3・14 従五位下 「続日本紀」 738 備中守
息長真人孝子 743 天平15・7・12 「正倉院文書」 中宮職音声舎人から皇后職へ(女性)
息長丹生真人国嶋 762 天平宝字6・1・4 従五位下 「続日本紀」常陸国部領防人使大目
息長真人広庭 765 天平神護元・正 外従五位下 「続日本紀」 女性?
息長真人道足 766 天平神護2・11・5 従五位下 続日本紀」771年長門守776年摂津山背検税使
息長真人清継 766 天平神護2・9・19 外従五位下 「続日本紀」
息長丹生真人大国 769 神護景雲3・4・24 正五位下 「続日本紀」 造宮少輔
息長真人黒麿 750 天平勝宝2・5・26 「正倉院文書」大和国城下郡人親族の借銭の保証人となる文書
息長丹生真人広長 761 天平宝字5・11・27 「正倉院文書」 左京七条二坊戸主 752東大寺画師
息長丹生真人川守 757 天平勝宝9・4・7「正倉院文書」右京九条一坊戸主759里人画師年39
息長丹生真人犬甘 757 天平勝宝9・4・7 「正倉院文書」 右京九条四坊戸口画師年22
息長丹生真人常人 762 天平宝字6・7・12 「正倉院文書」 造石山寺所 (画師)
息長真人真野売 747 天平19・12・22「正倉院文書」近江国坂田郡司解婢売買券
息長真人忍麿 747 天平19・12・22 少初位上 「正倉院文書」 近江国坂田郡司解婢売買券
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9 「平安遺文」 近江国坂田郡長岡郷長解 戸主秦富麻呂妻
息長真人福麿 832 天長9・4・25 従七位上 「平安遺文」坂田郡福擬大領 近江国坂田郡大原郷長解
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9 「平安遺文」 長岡郷戸主秦富麻呂妻
坂田酒人真人乙刀麻呂 年不詳 八世紀 「平城京二条大路 出土木簡」 庸米荷札(上坂郷戸主)
坂田酒人真人新良貴 747 天平19・12・22 正八位上 「正倉院文書」
坂田郡大領 近江国坂田郡司解婢売買券
坂田酒人真人広公 832 天長9・4・25 外従八位上 「平安遺文」 近江国坂田郡大原郷長解
坂田酒人真人公田狭 762 天平宝字6・8・18 「正倉院文書」
坂田郡上坂郷長 近江国坂田郡上坂郷長解
息長といふ人 1020 寛仁4・11 「更級日記」 美濃から近江に入り宿泊
以後息長一族に記録なし
名前 時代 出展 備考
息長足日広額天皇(舒明天皇)629~641日本書記」父押阪彦人大兄皇子/母糠手姫皇女
息長山田公 642 皇極元年12・1 「日本書記」 舒明の殯宮で「日嗣」を誅している
息長真人老 711 和銅4・4・7 従四位上 「続日本紀」
息長真人子老 702 大宝2・1・17 従五位下 「続日本紀」 息長真人老の子
息長真人臣足 714 和銅7・1・3 従五位下 「続日本紀」 719年 出雲守
息長真人麻呂 729 天平元・3・4 従五位上 「続日本紀」
息長真人名代 733 天平5・3・14 従五位下 「続日本紀」 738 備中守
息長真人孝子 743 天平15・7・12 「正倉院文書」 中宮職音声舎人から皇后職へ(女性)
息長丹生真人国嶋 762 天平宝字6・1・4 従五位下 「続日本紀」常陸国部領防人使大目
息長真人広庭 765 天平神護元・正 外従五位下 「続日本紀」 女性?
息長真人道足 766 天平神護2・11・5 従五位下 続日本紀」771年長門守776年摂津山背検税使
息長真人清継 766 天平神護2・9・19 外従五位下 「続日本紀」
息長丹生真人大国 769 神護景雲3・4・24 正五位下 「続日本紀」 造宮少輔
息長真人黒麿 750 天平勝宝2・5・26 「正倉院文書」大和国城下郡人親族の借銭の保証人となる文書
息長丹生真人広長 761 天平宝字5・11・27 「正倉院文書」 左京七条二坊戸主 752東大寺画師
息長丹生真人川守 757 天平勝宝9・4・7「正倉院文書」右京九条一坊戸主759里人画師年39
息長丹生真人犬甘 757 天平勝宝9・4・7 「正倉院文書」 右京九条四坊戸口画師年22
息長丹生真人常人 762 天平宝字6・7・12 「正倉院文書」 造石山寺所 (画師)
息長真人真野売 747 天平19・12・22「正倉院文書」近江国坂田郡司解婢売買券
息長真人忍麿 747 天平19・12・22 少初位上 「正倉院文書」 近江国坂田郡司解婢売買券
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9 「平安遺文」 近江国坂田郡長岡郷長解 戸主秦富麻呂妻
息長真人福麿 832 天長9・4・25 従七位上 「平安遺文」坂田郡福擬大領 近江国坂田郡大原郷長解
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9 「平安遺文」 長岡郷戸主秦富麻呂妻
坂田酒人真人乙刀麻呂 年不詳 八世紀 「平城京二条大路 出土木簡」 庸米荷札(上坂郷戸主)
坂田酒人真人新良貴 747 天平19・12・22 正八位上 「正倉院文書」
坂田郡大領 近江国坂田郡司解婢売買券
坂田酒人真人広公 832 天長9・4・25 外従八位上 「平安遺文」 近江国坂田郡大原郷長解
坂田酒人真人公田狭 762 天平宝字6・8・18 「正倉院文書」
坂田郡上坂郷長 近江国坂田郡上坂郷長解
息長といふ人 1020 寛仁4・11 「更級日記」 美濃から近江に入り宿泊
以後息長一族に記録なし
ほとんどの記録が天平年間に集中しており、それは聖武天皇と藤原光明子の時代。それより前の四名は天武~元明時代で、天武が息長を真人に任じた直近の時代ゆえにたくさん子孫が記録されたのだろう。なお不比等は720年頃まで存命だったと推測されている。その後は藤原四家長子が流行り病ですべて死んだため娘・光明子が後を継ぎ、子の仲麻呂へつないだ。ゆえに光明子存命期間中までは息長、あるいは真人の人名の記録があるが、仲麻呂の時代以後、見えなくなる。藤原氏の最初の隆盛期はここまでで、中央でしばらく権勢を失うこととなる。では平安時代の藤原家中興の祖である道長が復権してのちに息長記録は復活しているかと言うと皆無である。従って言える事は、息長本家の氏姓を記録された時期は第一期藤原氏隆盛の期間のみであり、その後はまったく記録がないことになる。どういうことだろう。
(『正倉院文書』の記録は息長姓のひとたちが奴婢を売った記録ばかりである。土地や奴婢を売るとは坂田郡や奈良を立ち去った、つまり氏族が解散して零落したからだろうか?)
考えうることは、息長氏とは藤原不比等が『日本書紀』天皇の母方息長血脈の正当性を証明するために捏造された、あるいは存在する氏族ではあったが天皇とは無関係だった地方氏族だったのではないか?という疑問である。
ただし、まったく存在しない人々であったはずはない。すべてが捏造であれば誰しも疑問を持つだろう。氏姓はあったはずである。しかも坂田などの分家がいくつか
あって、その人々は現代まで残っている。坂田は息長氏発祥の地であった滋賀県坂田郡にちゃんと息長地名もある。ならば中世以降、地名を名乗ることは多かったから、息長や坂田姓の人がいくらでもいても不思議ではない。しかし坂田は多いが、息長姓の現代人は10数軒しかない。実に面妖ではないか?天皇家の母方なのである。普通なら明治時代に爵位などもらっていてもおかしくはあるまい。
つまり『日本書紀』の記録した息長氏に、実態がないと言うしかなくなるのである。
あとは息長直系子孫である誰かの出現と告白を待つしかないのではあるまいか?
『日本書紀』息長血脈のオリジナル系図
「息長氏考」サイトの息長系図
解とは奴婢を解き放つこと。長解はそれが半永久的であること。すなわちそれは雇用していた一族そのものの解体を意味したであろう。息長氏は藤原衰亡によって役目を終えて、保護もなくしたのである。ということはやはり息長氏は中央での力も何も持たされていなかった氏族なのだ。名前だけを貸したような存在であった、と解釈するほかはなくなる。
次回、藤原不比等、天智天皇ご落胤説