●吉士(きし)とは何か?
「古代朝鮮において「王」・「首長」を意味する称号「於羅瑕」(「鞬吉支」)が渡来人の称号として日本で用いられ、やがてそれが姓となり、また氏ともなったらしい。本居宣長の『古事記伝』によると、新羅の17等の京位(中央役人の官位)中の14位である、「吉士」に由来するとなっており、「稽知」、「吉之」、「吉次」とも表記されている(金石文によると、新羅の官位制は6世紀初頭には成立していた)。」 Wiki吉士
百済人と高句麗人は言語がほぼ同じで、人種的に扶余(ふよ、夫余、부여(Buyeo)、中国語:扶余(Fúyú)))語つまり高句麗系言語族に分類される。内訳は扶余(夫余)、高句麗、東濊、沃沮、百済、濊貊の言語が含まれると考えられ、日本列島の一部まで含むとする説さえもある。百済王は代々「(夫)余」を姓とし、自らが高句麗系扶余族出身であることを名乗りにしていた。その百済余氏の王の称号が「おりこけ、おりけけ、おりく、おりくく」などと音読される「於羅瑕」でこれは百済王の自称であるが、民衆は「鞬吉支 こにきし」=軍君と呼んでいた。その最後の二文字を使ったのが吉士である。つまり百済の王の一族を自称した渡来人が吉士であり、難波、調、日高などの住み着いた地名を頭に持っていた。
『周書』は、百済王の姓は夫余で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。
「魏の延興二年(=472年)、その王余慶、その冠軍将軍駙馬都尉の弗斯侯、長史の余礼、龍驤将軍帯方太守の司馬張茂らを遣わし始め、上表して自ら通ず。云(いは)く、「臣と高麗、扶余に源(みなもと)を出し、先世の時、篤く旧款(きゅうかん、=古くから通じてきたよしみ)を崇(たっと)ぶ。その祖、( =故国原王)、隣好(りんこう、=隣国の友好)を軽廃(けいはい、=軽んじて止めてしまう)し、親(みずか)ら士衆を率ゐ、臣境(しんきょう、=我が国の領内)を陵践(りょうせん、=侵し踏みにじる)す。臣の祖、須(=近肖古王の子・近仇首王)、旅を整へ、電邁(でんまい、=勇み行く)し、機に応じて馳せ撃ち、矢石を暫(しば)し交(まじ)へ、の首を梟(さら)し斬る。爾自以來(それよりこのかた)、敢えて南を顧みること莫(な)し。」— 『北史』列傳第八十二(百濟傳)
渡来系氏族が多く、日本では難波周辺を本拠としていた。
この姓を持つ氏族としては
1.大彦命を祖とする。のちの難波吉士で、この一族に難波日鷹吉士(なにわのひたかのきし)・大草香吉士(おおくさかのきし)がある。
2.百済人努理使主(ぬり の おみ)を祖とする。のちの調吉士(つきのきし)
3.新羅王子天日槍(あめ の ひぼこ)を祖とする。のちの三宅吉士(みやけのきし)
の3つの流れがある。
1の難波日鷹吉士は当初は紀州和歌山県南部の日高郡を名乗るから日高郡に住まっていた日鷹吉士を、難波へまとめて難波日鷹吉士と呼ばれたのではないかと考えられるが定かではない。のちに一括して難波吉士と呼ばれる集団になり、大阪の岸部に住んだと考えられる。
2の調吉士も調も地名であろう。
調(つき)とは一般に租庸調の調をまかなうものであり、それを名にしているわけだから、調の地名は全国どこにあってもおかしくない。さらに何を献上するかを前につけた人々(井調など)もいて、必ずしもすべてが渡来系吉士だとは言えないケースもある。ただし、記録では継体紀に毛野臣の使者として登場しており、近江の毛野臣の家臣であったとしたなら滋賀県にいたとも考えられる。しかし今でも調のつく地名は多く、滋賀県にはないので、決めがたい。
調地名一覧http://kakijun.com/kanji/chimei/8abf.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/47024842.html?__ysp=6Kq%2FIOWcsOWQjQ%3D%3D
調(つき)とは一般に租庸調の調をまかなうものであり、それを名にしているわけだから、調の地名は全国どこにあってもおかしくない。さらに何を献上するかを前につけた人々(井調など)もいて、必ずしもすべてが渡来系吉士だとは言えないケースもある。ただし、記録では継体紀に毛野臣の使者として登場しており、近江の毛野臣の家臣であったとしたなら滋賀県にいたとも考えられる。しかし今でも調のつく地名は多く、滋賀県にはないので、決めがたい。
調地名一覧http://kakijun.com/kanji/chimei/8abf.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/47024842.html?__ysp=6Kq%2FIOWcsOWQjQ%3D%3D
しかも調は「つき」と読むので、のちに月を名乗ったり、地名に変えたケースがあるからなおさらややこしい。さらに同音の「槻」まで入れると特定は無理である。調 淡海(つき の おうみ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族だが、百済系としてあるから、おそらく吉士出身とすれば、飛鳥時代から大和にいたのだろうが、名前が淡海(滋賀県)であり、大宝元年(701年)9月18日に文武天皇は紀伊国に行幸し、10月8日に武漏温泉に着いた。調淡海がこれに従ったことが『万葉集』に採録された和歌から知られる。とあるので、和歌山の土地事情に通じていたのであろう。とするなら和歌山にも可能性があり、継体紀の、先の日鷹吉士堅磐(かたしわ)と同一人物ではないかとする説がある。
3の三宅吉士だけは新羅の王子を祖としていて新羅系らしいが、日本での新羅の使用例についてはいちいち解説がめんどうなので、ここでは扱わない。百済系などもいたかも知れないが、とにかく屯倉ができはめてからそれに関わってか三宅と名乗っていたらしい。いまは不明。いずれ分析したい。
1と2を同じ百済系吉士としてまとめて考えよう。
つまり同族だとしておく。
つまり同族だとしておく。
日鷹が単なる地名ではないと見えるのは、普通なら「ひだか、ひたか」地名は太陽が東から昇る地形地名であるので「日高」でよいわけで、わざわざ動物の鷹を使った意味が知りたいわけである。(蝦夷地名の日高見国との関連は日鷹吉士が渡来人であるならないと言える)
日向国にも日高氏がたくさんあるらしい。
「宮崎県、鹿児島県、福岡県。和歌山県日高郡発祥。奈良時代に「氷高」の表記で記録のある地名。宮崎県日南市では1051年(永承6年)から1062年(康平5年)の前九年の役の際に日中に鷹が兜に留まったことが転機となって戦功があったことから「日鷹」と称しており、1063年(康平6年)に地名から改姓したと伝える。佐賀県唐津市浦の日高城は推定では戦国時代の日高氏による築城。鹿児島県鹿児島市城山町が藩庁の鹿児島藩士に江戸時代にあった。鹿児島県肝属郡南大隅町佐多馬籠に江戸時代に門割制度の日高門があった。門名は推定では人名から。」
https://name-power.net/fn/%E6%97%A5%E9%AB%98.html
「宮崎県、鹿児島県、福岡県。和歌山県日高郡発祥。奈良時代に「氷高」の表記で記録のある地名。宮崎県日南市では1051年(永承6年)から1062年(康平5年)の前九年の役の際に日中に鷹が兜に留まったことが転機となって戦功があったことから「日鷹」と称しており、1063年(康平6年)に地名から改姓したと伝える。佐賀県唐津市浦の日高城は推定では戦国時代の日高氏による築城。鹿児島県鹿児島市城山町が藩庁の鹿児島藩士に江戸時代にあった。鹿児島県肝属郡南大隅町佐多馬籠に江戸時代に門割制度の日高門があった。門名は推定では人名から。」
https://name-power.net/fn/%E6%97%A5%E9%AB%98.html
もっともこれは人名である。人はどこへでも動くので証拠にはならない。
また北海道の地名は新しい移住者が旧地名をつけたケースが多く参考にはできない。
埼玉県の高麗郡に日高があるが、これは今来の渡来人が集団移住した場所だからで、高井などと同じく高句麗由来かも知れない。北関東にはむしろ調地名と人名が多い。
兵庫県の日本海側、豊岡や城之崎に日高町がある。ここは三宅吉士氏が祖とするアメノヒボコの本拠地で、百済系吉士はあとから入れられたのだろう。
群馬県日高町
大分県日田市日高
高知県高岡市日高村
宮城県 登米郡 日高村
茨城県 多賀郡 日立市日高村
新潟県刈羽郡日高村
愛媛県越智郡日高村
しかし郡名まで日高だったのは和歌山と日田市だけである。
日田はつまり古くは「ひたか」だったことがわかる。
広島県安芸郡に日高の荘という荘園があったらしい。
これでは地名の決定打が見つかりにくい。
すくなくとも、和歌山県日高郡日高、大分県日高郡日田日高が優良な震源地であろうが、日鷹地名表記ではない。なぜ最初は日鷹なのか?
宮崎県に日高姓が多い理由を考えてみたい。
高鍋郡を昔は鷹の目と言ったことを谷川健一が書いている。
これは鷹狩りをする鷹匠が多かったからだが、神武東征で重要な場所になっており、五瀬命はこのあたりの出身らしい。持田古墳群があって、考えるに、この一族は記紀成立前後に日向へ入り、西都原古墳群を作った一族ではなかろうかと思う。つまり8世紀に記紀神武東征を裏付けるために、既存の大古墳群に天皇陵らしき前方後円墳を、無理な位置、窮屈な空き地に「割り込ませた」のではないか?それは男狭穂塚、女狭穂塚の二基の近畿的な大古墳である。どうみても二其は重なるような無理な位置関係にあり、重なっていることから夫婦の墓であるという伝説を生みもしているし、狭穂塚とは、どうもそこが狭苦しい空き地だったことを思わせるのである。
彼らが古来の「才伎 てひと」であった難波日鷹吉士ではなかったかと思えるのは、彼らの近畿での先住地が紀氏の神武伝承に関わりのある熊野の奥地の日高だったからである。(つまり神武に逆らったのが三輪地域のナガスネ彦だったことはお忘れなく。纒向はニギハヤヒによって開かれた蝦夷の多かった地域だったのだと物部氏の史書は言うのである)紀臣は『日本書紀』成立時に編纂に関わり、藤原不比等とも盟友関係にあった。ならば自分たちの出自を神武伝承に託したのは当然で、九州に出発地を求めたのも無理からぬことだ。紀氏そのものが伽耶滅亡を経て佐賀県の基肄(きい)郡に入り、そこから南九州を経て豊後から瀬戸内海で愛媛、広島、岡山、讃岐、阿波、淡路島から紀ノ川河口部淡輪へ入った、そのままのコースを神武もたどるのであるから。そのときに日向の高鍋も、当然通過する。神武がここから船出したとなっているのだから。
このルート上にまさに日高、日鷹姓と地名は存在しているのである。
さて、日本の古代に渡来した氏族には、「ふるきのてひと」と「いまきのてひと」の二通りが記録されるが、ふるきとは伽耶滅亡時渡来した人々で「てひと」とは技術者であろう。いまきとは百済滅亡時のそれであろう。その中の王がいた。百済の場合はそれが百済王一族であることははっきり書かれている。余氏の子孫たちである。しかしふるきの王族、つまり伽耶由来の王族はよくわからない。継体前後の倭五王~飛鳥時代に、百済は高句麗に攻め込まれるようになって、三々五々、王族の倭国筑紫島への逃避行は百済の史書にも記録はある。有名なのは昆支の弟余紀と東城王(末多王)の逃避行と、武寧の倭国筑紫の小島での誕生話である。
東城王は5世紀までには筑後川沿線に入っており、そのまま神崎郡に三田川地名が残るし、ここには百済から七支刀(しちしとう)が贈られてきた痕跡がある(高野の宮)。また『日本書紀』には、日本書紀には、雄略天皇の時代に呉から天皇に献じられた鵞鳥を三瀦郡の水沼、水間氏 水間君の犬が喰ってしまい、鴻10羽と養鳥人(とりかい)を献じて罪を贖い許されたとの記録があり、吉野ヶ里のある三田川地域はかつて米多(めた)と呼ばれていて三田川は「めた」地名がなまったものだ。そこの首長は米多君である。「めたのきみ」は東城王の別名「末多王」(めたおう)に近い。水間君の犬とは、性格が荒々しかった、水間と隣接する米多の末多王のことを言っている可能性がある。瀬高町の高野の宮にある七支刀は刃が六つしかなく、一本は折れている。
百済を助けたお礼に王から倭国王へ贈られてきたこの刀を、受け取るとしたら米多君の支族であった物部阿遅古連の子孫である水間君ではなかったか?それに東城王の犬が噛み付いた(奪い取ろうとして刃が折れた?)?なぜ。本来それは物部氏ではなく末多王が受けるべきものだからだ。
瀬高町太神の高野の宮、七支刀人形
玉名市のすぐそばである
筑紫の水沼君 つくしのみぬまのきみ
「旧事本記」に「水間君の祖、物部阿遅古連あじこのむらじ」とある。
日本書紀には 『即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此筑紫の水沼君等の祭(いつきまつ)る神、是なり』 とある。
「旧事本記」に「水間君の祖、物部阿遅古連あじこのむらじ」とある。
日本書紀には 『即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此筑紫の水沼君等の祭(いつきまつ)る神、是なり』 とある。
「末多氏居住地の筑後川を隔てた対岸が、あの水沼君(みぬまのきみ)の本拠地である。筑紫国造家は最初の居住地であった糸島半島から、やがて筑後のこのあたりまで南下してくる。そこには高良山や女山がある。継体の追っ手に追われて?次第に筑紫の玄関から有明海方面へと移動したのである。継体の先祖である意富富杼王(おほほどおう)同族には『古事記』に筑紫米多(めた)君、息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君などが記録がある。筑紫米多君は筑後の吉野ヶ里あたりに住まった渡来系で、末多(まったの)君と書訓するのが正しい。百済武寧の父親で末多(まった)王がある」https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56811544.html?__ysp=5ZCJ6YeO44O26YeMIOS4ieeUsOW3nSDmsLTmsrwg5pyr5aSa546LIOawkeaXj%2BWtpuS8neaJv%2BOBsuOCjeOBhOOBguOBkui%2BnuWFuA%3D%3D
これは筆者の過去記事からの抜粋である。
筑後の筑後川沿線から熊本北部玉名あたりまではまた、往古は肥(火)の国であり、火中君(ひのなかのきみ)が治めていた地域でもある。玉名市に中という地名もある。
さて、評価の低かった先の隅田八幡人物画像鏡解読記事にある鏡の銘文を再読していただきたい。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
きびのとし(西暦503年?)の八月に、「부(ふよ)」大王の年に、男弟王(東城王)がオシサカ宮におられたとき、私、甥の斯麻が長寿を念じて、※開田の中の肥=火の「あたい」の部民であるイマスリ(=今来の青銅技術者の通称か?)二人らを(肥後から)遣わして、上質な白銅鏡を作らせた。
いかがだろうか?
日十を一文字だと考えて、石渡たちは「早=そが」と読むが、筆者は自説で「부=ふよ」だと推定した。
熊本県に「開き」地名はない。しかし鹿児島県最南端に開聞岳があって、ここに枚聞神社がある。「ひらきき」は「広く聞く」とも「広く開く」とも考えられ、また熊本県玉名市岱明町に開田(ひらきだ)がある。江戸時代に水田を切り開いた地名か?また玉名市には中地名がある。そもそも肥中君は火の直「あたい」であった。疋田神社。ひきたは引いた。おそらく菊池川で阿蘇石を引いた、その河口部が玉名だからではないか?開中費直とは「火の国のひらきだの中にいる肥の直」ではなかろうか?これなら扶余大王=東城王が最初にいた筑後川吉野ヶ里に非常に近い。それがどうして和歌山県紀ノ川の隅田八幡に?まあ、お待ちあれ。おいおい見えてくる。
東城王の百済王在位は479~501年である。つまりキビの年が503年なら、すでに東城王は他界していることになり、斯摩は武寧王になっているはずである。武寧の父・昆支が死ぬのが477年で、翌年武寧王は即している。しかしこれは百済での話である。もし東城王が死んだのではなく、生きていて、百済史から消えただけで実は、三田川から大和の桜井市に移住して부大王と呼ばれていたとしたら?つまり銘文の日十大王は一文字で「부 ふよ」大王だとしたら?石渡たちの言う「そが 蘇我」大王ではなかった?いや、東城王=蘇我満智ないしは稲目だったとしたら?
『日本書紀』は雄略のあとに武烈をはさんで継体を、息長氏のために「近江ないしは福井三国から」登場させている。その息長氏の系統樹の筆頭に置かれていたのは筑紫末多君であった。それが百済東城王だったら?そもそも継体が近江や三国出身ではない可能性は非常に高い。紀州のほうが確実性があるだろう。しかも紀氏の伝説の王だ。
もう少し遡ろう。
『日本書紀』河内王朝の大王は10人もいる。しかし中国記録の倭王は五人。それ以外の記録には倭王旨や倭王弥という名前も見える(水野祐ら)。しかしそれでも7人。『日本書紀』はこれらを日本の天皇に置き換えるのに、人数を水増ししている。さらに武烈を入れて、継体まで登場するので、神功皇后の持っている息長の血脈王は12人もいたことにしてあるわけだ。
そしてその息長の血統は継体が引き継ぎ、さらにその血脈を引いたのが天智・天武・持統・桓武以下の現在の天皇家なのである。しかし倭王が五人だったなら、『日本書紀』のそれらの天皇のうちの7人は水増し天皇だっことになるまいか?それは誰だろうか?
武は雄略、これは鉄剣銘文からまずはよしとしておこう。では応神~武烈までの天皇は武以外の倭王四人でいいのか、いいのなら誰が誰で、誰が水増し天皇かである。武烈は雄略の分割された空想王でいなかった。応神は祖人「祖禰」としての存在感しかない。しかもその東征譚は神武そのままであきらかな紀氏伝承の始祖王であるに過ぎない。次の仁徳からが讃だとすると、珍は、済は、興は誰だろうか?四人の天皇がいるが一人は水増しである。そして別系統で市歯辺の子孫にオケとヲケという同じ名前の二人の天皇が挿入されてこれも嘘だろう。清寧もいない。雄略のあとはすぐ継体であろう。継体は雄略の弟だろうが、これが蘇我稲目である。満智=東城王=雄略と武烈である。継体の子供二人は蘇我馬子と弟だろう。欽明以下の飛鳥の天皇はいない。馬子のあとはもう蝦夷と入鹿で蘇我氏五代の大王時代だったのだ。その実態は東城王の子孫たちである。
これは百済系大王家。
しかしその前に伽耶系大王家が日本には渡来していたはずである。それが崇神以下仲哀までであり、つまり『日本書紀』は伽耶王家=4世紀葛城大王家を消してある。さらに3世紀吉備王家=邪馬台国も消してあるのだ。卑弥呼は神功皇后にするためである。なぜ?初代の近畿の大王が女帝であることに正統性のために神功皇后を卑弥呼として置くがためである。だから時間を水増しする必要があった。卑弥呼は3世紀の人だからだ。そのためには子供の応神河内王家の始まりは3世紀の後半でなければならない。すると飛鳥時代最後の藤原京時代の8世紀前半までは、なんと400年以上期間ができてしまう。そこに水増し天皇を当てはめる必要がある。それが干支一巡とか二巡とか、さまざま喧々諤々されてきた『日本書紀』天皇創作の実は正体ではないか?
伽耶王家は4世紀に日本に逃避してくるはずである。それを三輪王家だとする。しかし6世紀には東城王が登場するから、200年の開きは神功の前に景行やヤマトタケルや仲哀という三輪つまり纒向王家とは関係なさそうな筑紫の王家の話を入れて穴埋め。直後の5世紀から神功と応神が新羅をにくしとする王として登場。そりゃそうである、彼らは百済王家だからだ。三輪王家=吉備王族は伽耶系であり、葛城王家も伽耶系であり、それを滅ぼす雄略倭王は、もう百済系である。だから『日本書紀』は百済ばかりを守ろうとしてある。それが東城王の余王家の故郷だからにほかならない。その王統こそが東城王=末多君=息長氏の正体である。息長の子孫だけを天皇にしたいのである。しかるに東城王の子孫は蘇我氏だった。蘇我氏だけは大王ではなかったことにしなくてはならない。そこで、唐突に敏達天皇に息長広姫が嫁ぐことになった。つまり息長血脈をリセット、再構築したのである。その子孫が天智・天武・持統そして文武や桓武だった。
武寧王の死に際して、継体大王は日本や江南でしか成育できない、半島にはない楠木の棺を贈った。武寧と継体が兄弟だったからだ。
天智は百済王・余豊璋を日本で守ってやり、百済王にして新羅に対抗させた。みずからも軍船で白村江で戦った。天智と豊璋が親戚であり兄弟だったからだ。
そうでなければ、なぜ近畿王家はあれほど執拗に滅亡してゆく百済を援助しようとしたか?また飛鳥の蘇我王家も百済余昌らの仏教と寺院と技術者を受け入れたか?兄弟だったからだ。
ということは、息長系列筆頭だった末多君のあとを受けた筑紫国造家は当然難波吉士の言う大彦の末裔であって、新羅と結託することなどありえなかったことになる。
さて、持統天皇である。
天智天皇の娘。
母親は蘇我越智娘(おちのいらつめ)
倉山田石川麻呂の娘である。しかし妻の名は不明である。
持統は彼女の第二番目の娘である。
鵜野讃良皇女 うののさららのひめみこ。
鵜野・讃良は枚方市から四条畷市にかけて馬牧を経営していた渡来人、河内馬飼氏の馬牧のあった地名である。河内馬飼氏は百済系で、持統の「乳母=ちちぶ」だった。
持統女帝はなぜか母方のそのまた母親がわからないのである。
そんな天皇がありえようか?
一説では茅渟王の娘つまり斉明女帝の娘ではないかという説もある。
しかしそれならなぜ記録に残さないのか?
石川麻呂が斉明の子である天智に殺されたことにしてあるからか?
藤原不比等はなぜ持統を担ぎ、なぜ『日本書紀』を予定変更してまで女帝であることを正当化したか。つまり神功皇后まで創り上げて息長氏=東城王子孫であることは隠しつつも、息長氏血統にこだわり、天智にこだわり、蘇我氏のまねをして百済を守ろうとした天智を祖人とあおいだのか?卑弥呼を利用し、アマテラスや宗像の三女神までを利用してまで、なぜ持統女帝を正当の、しかも初代の天皇という蘇我氏ではない新しい大王家にしていかねばならなかったのか?それはただ藤原王家のための傀儡天皇だっただけなのか?違う。
そこには持統の出自の最大の謎である蘇我氏の娘のそのまた母親・・・それが藤原不比等に関与した、誰かだったからではなかったか?
いずれにせよ蘇我氏の持つ扶余大王の血脈は持統に受け継がれたのは間違いない。その結果文武も聖武もそれを受け継ぐことになっている。そしてそれは蘇我大王家の血でもある。そして百済滅亡の結果、百済を受け継ぐことになったのは日本の天皇と言う意味にもなった!
しかしそこには息長氏同族である東城王の末多君の血も当然まじっているわけである。ゆえに息長氏血脈は天皇家のバックボーンなのでもあるから、結局は天皇とは、百済王の子孫だとならざるを得なくなってしまうのである。そのことを不比等は息長氏だけをクローズアップすることにより、百済王家や曽我王家とは、持統は違うのだと言いたいのだろう。しかしながら息長氏そのものには実態がない。百済扶余大王=東城王との関係を切られているから実態がなくならざるを得ないのである。
持統には蘇我氏の血が入ったが、天智の息長血脈のほうが大事だったから、母親遠智娘の母親についても消した・・・不比等や紀臣にとっては都合が悪かったのだろう。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干したり 天の香具山・・・
天の香具山は物部氏の祖でもある。
夏、紀にけらし・・・白=百済=扶余の大王か。
わからない。
付
蘇我氏が百済王子孫ではなく、伽耶葛城王の子孫だったとしたら、日本の近畿の王家は、伽耶由来、百済由来、また伽耶由来になって蘇我氏を殺した藤原氏が、物部同族中臣系列としての王家を取り戻したと見るのもあるか?そうすると持統の祖母は中臣氏の娘だったのか知れない。不比等の妻・娼子が蘇我の娘だったという例もあることだし。仲良く王権を交替していれば、なにも入鹿を惨殺する必要もなかったのだろうに。もし持統の血に中臣か物部の血も混ざっているとすれば、天皇家は百済系と伽耶系とそして倭人の三位一体と解釈できて落ち着くのだが。