この常識のどこをどう日本人が勘違いし始めたかだが・・・。
まずはどうしてウグイスは梅の花には来ないかの理由だが、
ウグイスは虫を求める肉食の野鳥なので、梅の木に来たとしても花の蜜には興味がなく、また梅の木には虫がつかないからである。
梅の木に春先、蜜を求めてやってくるのはまずはメジロである。
まぐれもなくこの鳥はメジロでしかない。
「「梅に鶯(うぐいす)」は間違いだ、あるいは「梅に鶯」は本当は「梅に目白」だと言う人は、まず第一に「梅に鶯」の意味を誤解しています。
「梅に鶯」というのは梅にウグイスが来ると言う意味ではないのです。二つのものが調和したり似合ったりすることのたとえなのです。梅は春を待つ人々に咲きかけ、春告鳥とも言われるウグイスは春の訪れを歌い共に親しまれました。この二者を取り合わせることはこの上もなく春の訪れを盛り上げてくれます。和歌や絵画に好んで取り上げたのは梅にウグイスがよく来るからではありません。日本人の早春のイメージであり理想であり文化なのです。
「梅に鶯」は辞書にも載っている意味の定まった言葉です。
取り合わせが良い二つのもの、美しく調和するもの、と言う例えの成句です。成句、つまり決まりきった言い回しなので、それが間違いと言っても始まらないのです。「猫に小判」も成句です。小判で遊んでいる猫なんぞ見たことがないので間違いと言っても始まらないのです。
「梅に鶯」、この例えは、単に併せておくとよいとか並べておくと縁起がいいというより、もっと憧れに満ちた強い想いが込められています。
<梅とウグイス、早春を代表する二大スター、夢のコラボ>
今風に言えばそのような気持ちを込めて私達の祖先は梅と鶯を取り合わせることはすばらしいと思ったのです。滅多にない事だからこそ憧れたのです。
一方、「梅に目白」の光景は、メジロがいる地域で梅が咲いていれば毎日でも見ることが出来ます。美しい光景ですが憧れの的になるほど大げさなことではありません。
結局、「梅に鶯」は間違いだと言う人はそのたとえの成り立ちを思いやらず、梅にはどんな鳥が来るか、あるいはウグイスはどんな所を好むかという観点でのみ解釈していたのです。
「梅に鶯」、この例えは、単に併せておくとよいとか並べておくと縁起がいいというより、もっと憧れに満ちた強い想いが込められています。
<梅とウグイス、早春を代表する二大スター、夢のコラボ>
今風に言えばそのような気持ちを込めて私達の祖先は梅と鶯を取り合わせることはすばらしいと思ったのです。滅多にない事だからこそ憧れたのです。
一方、「梅に目白」の光景は、メジロがいる地域で梅が咲いていれば毎日でも見ることが出来ます。美しい光景ですが憧れの的になるほど大げさなことではありません。
結局、「梅に鶯」は間違いだと言う人はそのたとえの成り立ちを思いやらず、梅にはどんな鳥が来るか、あるいはウグイスはどんな所を好むかという観点でのみ解釈していたのです。
特に、自然科学を尊び実証性を重んじるあまり文化的観点の乏しくなる人は、目の前の事実のみで判断する傾向があり、「梅に鶯」が万葉や江戸の文化を背負っていることが見えないようです。」
「梅にウグイス」は日本人がメジロを見てそれがウグイスだと勘違いするに十分な色合いであったために、慣用句になった。それは理想像でしかないということなのである。
♪ 梅にウグイス 吉原スズメ
都都逸(どどいつ)を唄うような町民には教養は期待できない時代に、この慣用句はできあがった。
春は薄桃色。そこにウグイス色・・・春の情景・・・ならばその鳥はいい声で春を告げる緑色のウグイスに違いない・・・。まさに主観的な日本人が勘違いするにふさわしい。
また「ウグイス色」は本来のウグイスよりもメジロの色をさしているので、勘違い、取り違えの証拠になる。ウグイスの体色は決して鮮やかな萌黄色ではなく、薄汚れたような灰色に近い。
美しい声だから姿も色もきっと美しいに違いない・・・。勝手な妄想である。
美人なら声も綺麗に聞える、いや美しいに違いない。だからウグイスもかわいらしく、鮮やかな春色だろう
・・・
ま、そういう思い込みは世の中に山ほどある。
クレオパトラはブスだったが絶世の美女だとされてきた。
顔はブスでもクレオパトラは性格が美女だった。あるいはその女体が美女だったのだろう。美女とは外見だけではない。心や尽くし方やでも男は美しいと思うものだ。
勘違いで価値観が決まってしまうなどは、今でもたくさん起こる。だからブスでも無男でも、この世は生きていけるのだ。捨てたもんじゃない。生きていける。あきらめるのはまだ早い。