筆者の科学論文理解は、あくまでも古代史、古代人の行動原理、死生観のために存在するので、ケルトの渦巻きや日本の古墳の弧文の渦巻きや蕨(わらび)手模様の「永遠」について利するところがあると考えている。
まず「平衡」の意味がわからない方もおられよう。
同じ音の漢字熟語には平行や並行があるが、横並びになったという意味を持つそれらと平衡は少し違う。平衡の「衡」とは和訓は「ひら」で、奥州藤原清衡とかよく人名には使われた漢字。意味は「つりあいがとれている」である。だから平衡とはつりあっていて平坦・・・安定した状態=常態ということになる。それが皮膚という袋にいっぱい詰め込まれているのが人間だ。人間は生命が入って出入りしている、管状の袋なのである。口がボトルの口で、肛門が出口の、みみずと同じである。ペットボトルが底に弁の付いた穴=肛門を持って、足をつけて歩いているだけだ。すべての生物の基本構造とまったく同じなのだ。頭に袋を思い浮かべて、足をつけてやれば人間である。ハンプティ・ダンプティ、群袋である。スキタイの水筒である。ワインが入った皮袋。砂金が入ったずた袋。米俵なのだ。
平行は直線的なものの位置であり、並行は物体や生物が肩を並べて並んださまで、平衡はすべてが三次元でつりあった常態のことである。人体と言う皮袋に臓器がおさまり、ひとつひとつは血管と神経でつながっている。全部をひとつひとつにするには血管と神経までずるずるっと芋づる式に引っ張り出さねば生きられない。いいですか?臓物でさえ、脳みそでさえ、全部が数珠つながりなんですぞ。天才の脳みそだけとりだして未来に保存するなんて絶対に不可能なのだ。ひとつが切れれば生命も途切れるのだ。
移植がどれほどすごい技術か押して知るべしだ。やっとそこまで考えて気がつくのだ。外科医はすごい。透析はつらい。毎日永遠に続く。梨香子がんばれ!!
人体は通常、常態であるが病気や精神などでバランスを崩す。そして福岡はそこに時間が加わって「生命が動く」と考えた。これまでの生物学に時間観念はなかった。われわれは、生命とは細胞膜の中にあると思っていた。しかしそれは水溶液でしかなく、生命は流れ出してゆく細胞膜にこそあると福岡は言うのである。いや、細胞が死んで流れだす、流れていることこそが生命なのだと。
それが動的・・・動いている・・・はて、それではまったく意味にならない。矛盾してしまう。静的な平衡というのならわかるが。いったいどういう概念を福岡だけの言葉は意味するのだろうか?
昨日も書いたが、川の水はわかりやすかろう。
川の流れは氾濫でもない限り、いつも変わりがないように見える。
しかし、流れてくる水は上流の水源から毎秒涌いてくる水だから、実は毎日毎秒違うわけである。ミクロでは違う水なのに、マクロでは毎日同じに見えてしまう。これを福岡だけは動的平衡が保たれていると言っているわけである。
人体にも同じことが起きている。
皮膚細胞も内臓細胞も、毎日毎時、入れ替わっているのだ。
つまり人間や動物のすべては毎時、見えない脱皮を繰り返す「容器」なのであると。
顕微鏡では見えるその死んだ角質細胞は、はがれおちて床に散らばるか、空気にまいあがるのはわかるが、内蔵や皮下組織などの中の細胞はどうなるのか?
それも排泄される。
ひとりの人間の体の全部は、隅から隅まで毎時、入れ替わって更新されているのだが、本人も他人もそれには気づかない。昨日も今日も変わりがないと思い込んで生きているわけだ。しかし実はいつも更新されている自分なのだ。
鏡を見てもそんなことはわからない。
外見は短い間ならいつも同じである。
外見まで一変していたら、誰が誰だかわからなくなることだろう。
毎日、顔や手相や指紋が変わったら、いくらでも犯罪ができてしまう。
しかしマクロでは一新している。
顔や指紋が変わらないのは、遺伝子にモンタージュされた図面が指示するからだろうか?知らない。
福岡のユニークなのは、そこに気づいて、それまでの客観分析から脱皮し、死生観に飛び出したところだろう。それは理系ではなく文系の考えることなのである。
「永遠の生命」と彼は言う。
どこかで聞いた単語だろう。
このブログが弧文や弧帯文、直弧文、装飾古墳の絵柄を言うときに、常にこの古代人の死生観を付け足してきた。
あるいは鶴岡真弓のケルトの絵柄にも同じ意味がある。
だから筆者もケルトを学んでみたこともある。
ちょっと別の例証を引っ張り出してみよう。少し遠回りになるが。
海生動物のホヤの仲間の「尾索動物」の中にユニークな奴がいる。
普段は単体の複細胞生物で無性生殖なのに、あるときだけ脊髄のように横並びに寄り集まって有性生殖するクラゲのような、カエルの卵のようなゼリー状の奇想天外な生き物サルパである。
記事と画像
(画像などの切り取り貼り付けはできなくなりました。記事にはオリジナル画像しか使えないのでそこんところ寂しいだろうけどご理解願います)
BSの野生番組でこれを見て、その奇想天外、奇天烈ぶりが忘れられない生物だ。
オオサルパは大きくて20センチまで育つが、サルパは2センチくらで、透明で、赤い内臓が透けて見える。ちょっと気色が悪いたい焼きのような奴だ。
タルムシ類と呼ばれ、筒状で、ちょうどペットボトルの上下を切ったような生物である。それが繁殖期だけどこかから集まってきて、横一線に並んで、みんなボトルの東部をさかさまにした格好で海中を浮遊し、植物性プランクトンを食い尽くす。ジェット推進して動き回るが、プランクトンが濃い場所では動けずに沈んでしまう。それが中国などの海岸に打ち上げられたのが発見される。でかいクラゲの塊のようだ。
進化論学者や生物学者は、この集まって背骨のようになることが、太古の脊椎動物の始まりの姿ではないかとされているらしい。確かに脊髄に見える。
つまり一匹のミクロの個体が、集まってマクロ視点では一匹の長い生物のようになる。似ているというならイワシのような弱い魚が天敵に食われまいとして寄り集まってでっかい生物(童話スイニーみたいにね)に見せる行動があるが、少し違う。有性生殖をするために一本に合体するのだ。伊勢海老の繁殖期の隊列に似ているか?
これが脊椎動物の最初のきっかけだとするのなら、まさに一匹のサルパこそが動物の細胞だということではなかろうか?それが寄り集まり一個の動く複細胞生物になる。人間もそうである。
細胞の数は人によって差がある。
テレビに横綱みたいに太ったタレントが出ていると、筆者などは「いったいどれほどの細胞でこの人はできたのか?」と思わず目を見張ってしまう。まさに太ったヒトの細胞数とやせたヒトの細胞数は違うのだと思う。
ところで食物は、とりこまれると体中をその成分がかけめぐるわけだが、ほとんどは排泄される。必要最小限な場所で使われるだけで、ほかは全部老廃物となって出て行ってしまうらしい。脂肪もそうだという。余分に蓄積されないである。必要最小限だけが部位に使われたら、すぐに排出されるのだ。
生命とは、まさにそれなのだ。
細胞が捨てられる。栄養も捨てられる。
その現象が止まったときが死なのである。
つまり流動しているのだ、すべての生物は、日々毎日毎時。この記事を書いている間も。それが生きているということなのだ。
だから翌朝も朝食がいる。
だから腹がすく。
出ていったのだから。
だから古代人は流通を考え出した。
物々交換を始めた。それまでは完全な自給自足でことたりていた。
しかし食生活を安定化させるものを見つけてしまう。
穀物である。
すると狩猟時代のように気ままに移動できなくなった。
ないものがたくさん出るようになった。
それまでは移動しながら調達すればなんとかなった。
だから交換がはじまり、市が立ち、貨幣が考え出された。
時間がなくなったから流通経済が生まれるのだ。
農業は動けない。
しかし生活は安定するので、人口が増え、都市が生まれた。
それを守る武力が生まれた。
あらゆる職業も生まれた。
するとリーダーが現れた。
侵略を始めた。
戦争が始まる。
侵略、奪略の時代に・・・。
必然のよせあつめが歴史なのである。
そこには神秘も謎も奇跡もありえない。
整然と、しゅくしゅくと世界中がそうやって発展して先進国ができていく。
死生観が生まれた。
それもまた世界中で大差はない。
最初は長生きがしたいからだ。
人類の江戸時代以前の平均寿命は18歳なのだ。
大半が栄養失調や病気やで産まれてすぐに死ぬからだ。それが繰り返されると父親も母親も栄養失調だから、まともな子供が生まれるはずがない。
だから18歳。
英国も、スペインも、中国も、北欧も、エジプトも、全員がそうなのだ。
信じられない?そうなのだ!!
だから永遠に、不老長寿という観念が世界中にあるのだ。あこがれであった。
そのための呪術や仙薬が生まれた。思想になった。
ところが、細胞の寄り集まっただけの生物は絶対に死んでしまう。
いくら呪文を唱えても、いくら渦巻き、唐草を描いても死者はもう生き返らない。
だから最初の宗教にはまだまだキリストが蘇えるとかの夢が託されていた。そんなものは原始的な願いでしかないことは知っていたが、それでもそうし続けた。こないだまでそうしていた。
そして気がついた。
俺ひとりはやがて死に、蘇えらない。しかし、子孫は営々と続くだろう。われわれ民族全体は永遠に続いて欲しい・・・と変わってゆく。
もちろん民族も決して永遠ではなかった。インカは金を求めたスペイン人に滅ぼされた。ならばどう願えばいいのか?
生物学者が気がついたのはついさっきのことだ。なんだ?
永遠とはなんだ?
あらゆる種の存続!
地球と言う船に乗ったすべての生物こそは、人類と手を継いだ同胞ではないかと!
数珠はなぜつながっているかご存知か?
玉のひとつひとつが魂なのだ。
あれはすべての種=生命がつながって手をつなぐ、まさにサルパの姿なのである。
そして宗教が生まれた。