◆日本海と瀬戸内海の文化交流と低い分水嶺について
●中国山地の分水界
中国山地には何ヶ所か、山陰と山陽を結んできた非常に標高の低い「山地の切れ目」がある。
一般に地理用語で ※1「分水界」あるいは「分水嶺」と呼ばれるのが、その低い山越え道の峠に当たるが、日本でも最も低い峠越えの海道は中国山地に集中している。
●中国山地の分水界
中国山地には何ヶ所か、山陰と山陽を結んできた非常に標高の低い「山地の切れ目」がある。
一般に地理用語で ※1「分水界」あるいは「分水嶺」と呼ばれるのが、その低い山越え道の峠に当たるが、日本でも最も低い峠越えの海道は中国山地に集中している。
地形図を見ればそれは歴然としている。
何ヶ所かの山地の切れ目があり、あきらかにその通路だけはなだらかである。そこには現代、JRや国道が走っており、山地中央の盆地に大きな都市ができ、南北をつなぐ中継地になっていることがわかる。
●凡例
自転車や山歩きで、実際にそこを縦走し、瀬戸内海と日本海をのんびりと往来した人々の感想をいくつか。
それぞれのサイトに行けば画像や動画があり、そのなだらかさが実感できる。
自転車や山歩きで、実際にそこを縦走し、瀬戸内海と日本海をのんびりと往来した人々の感想をいくつか。
それぞれのサイトに行けば画像や動画があり、そのなだらかさが実感できる。
#4 上下を歩く ~分水嶺にまたがる町並み~
「太平洋と日本海とを隔てる列島に降る雨は、蒸発したり地下へ浸透したりすることを考えなければ、巨視的に見て太平洋側か日本海側か、いずれかの方向へ流出します。その境界となる尾根筋を「中央分水嶺」と呼びます。中央分水嶺はそのほとんどが列島の背骨たる山脈上を進みます。しかしながら、場所によっては平坦地を中央分水嶺が通過することもあって、そこではごく普通の平野や盆地上の、目では判別できないほどのラインを、中央分水嶺が行く形となります。相対的に穏やかな山並みが続く中国山地には、そうした分水嶺が通過する平坦地がいくつか存在しています。
「太平洋と日本海とを隔てる列島に降る雨は、蒸発したり地下へ浸透したりすることを考えなければ、巨視的に見て太平洋側か日本海側か、いずれかの方向へ流出します。その境界となる尾根筋を「中央分水嶺」と呼びます。中央分水嶺はそのほとんどが列島の背骨たる山脈上を進みます。しかしながら、場所によっては平坦地を中央分水嶺が通過することもあって、そこではごく普通の平野や盆地上の、目では判別できないほどのラインを、中央分水嶺が行く形となります。相対的に穏やかな山並みが続く中国山地には、そうした分水嶺が通過する平坦地がいくつか存在しています。
広島県の東部、福山市と三次市とを結ぶラインのほぼ中間に位置する上下(じょうげ)の町並みも、そんな分水嶺にまたがる平坦地のひとつです。「上下」という地名の由来を語る説のひとつには、水が日本海側と太平洋側(上下)に別れることを挙げるものもあるようです。」
中国山地を見つめて http://www.chiikibun.com/chugoku/04-joge/joge.html
中国山地を見つめて http://www.chiikibun.com/chugoku/04-joge/joge.html
「本州横断」日本一低い分水嶺越えサイクリング
《瀬戸内海から日本海まで》
「中央分水嶺にもかかわらず、ここの標高はわずか100mしかありません。
(郡上八幡と長良川で行くひるがの高原の分水嶺は900mです。)
したがって、コースはフラットで、1日目の登り部分もほとんど登りと感じません。」
「本州横断」日本一低い分水嶺越えサイクリング 下見http://www.cyclingtoursjapan.jp/modules/d3blog/details.php?bid=102
「中央分水嶺(※)である中国山地と日本海の間に広がる鳥取は、地形模型のように多彩で美しい。広い裾野を持つ大山がランドマークとなっているが、東に高く峰を連ねて聳える氷ノ山や扇ノ山、広い平野や砂丘を作り上げた千代川、天神川、日野川の清流の存在も大きい。
低い丘陵地帯で接する島根への行き来は容易であるが、京都、大阪や瀬戸内への道はすべて高い峠を越えることになる。中国山地は、なだらかな高原が広がる瀬戸内側に比べ、鳥取側は思いのほか険しい。」
http://www.tavinci.jp/magazine/tottori/70_01.html
※1◆分水界とは
「中央分水界 [編集]中央分水界(中央分水嶺)とは、日本の太平洋側と日本海側とを分かつ分水界である。
「中央分水界 [編集]中央分水界(中央分水嶺)とは、日本の太平洋側と日本海側とを分かつ分水界である。
(地理学上、瀬戸内海も太平洋側の海になる Kawa)
ただし、これを特定するのはいささか難しい。というのは、いくつかの海域を太平洋と日本海のどちらに含めるかが一義的に決まらないからである。例えば、津軽海峡はどちらの海域に含まれるのか、それによって結果にズレが出てくる。ちなみに海図を制作している海上保安庁によれば津軽海峡はどちらの海域にも含まれない海域として区分されている。
中央分水界で最も高度が低いところは、末端を別とすれば兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)「石生新町」交差点付近の標高 95.45m[1]である。この最低点の東800m付近に「水分れ(みわかれ)公園」があり、公園内で水路が加古川(瀬戸内海/太平洋)側と由良川(日本海)側とに分かれている。」
「律令制に基づいておかれた令制国の境はその多くが分水界となっている。尾根筋を国境(くにざかい)とすることが多いから当然といえば当然ではあるが、尾根を境に気候や植生が変わり文化が変わるのだから、合理的な分割法ということもできる。中世において伊賀国が、隣の近江・大和両国と国境紛争を起こした際には水分を境目とする裁断が下されている。
分水界が国境というのは日本国内に限ったことではない。ヨーロッパにおいても尾根が国境とされることが多いため、アルプス周辺では分水界と国境がほとんど一致している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%B0%B4%E7%95%8C#.E4.B8.AD.E5.A4.AE.E5.88.86.E6.B0.B4.E7.95.8C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%B0%B4%E7%95%8C#.E4.B8.AD.E5.A4.AE.E5.88.86.E6.B0.B4.E7.95.8C
愛媛県の松山言葉で「ありがとう」は「だんだん」であるが、なぜか日本海側の鳥取西部(伯耆)地方でも「だんだん」と言う
●中国地方の古代からの山越え街道
1 函南道 高砂市から城之崎・豊岡方面へ抜ける
2 加古川遡上 加古川市から但馬笹山へ抜け、丹後に出る
3 能勢街道 大阪府箕面から池田を抜けて丹波笹山、丹後へ抜ける
4 老乃坂・丹波街道 京都市桂から由良川沿いに大江山を経て与謝郡加悦町、天の橋立、丹後半島へ
5 生野街道 姫路市から生野銀山を抜け但馬に抜ける 和歌にも歌われた。大江山生野の道の遠ければ まだ踏みも見ず天橋立
6 美作街道・・・岡山県吉備中央から大山を目印に・東郷湖・白兎海岸へ抜ける。
7 出雲街道・因幡街道・津山街道・・・JR因美線・山陰本線が出雲市と揖保郡竜野市を結んでいる。
1 函南道 高砂市から城之崎・豊岡方面へ抜ける
2 加古川遡上 加古川市から但馬笹山へ抜け、丹後に出る
3 能勢街道 大阪府箕面から池田を抜けて丹波笹山、丹後へ抜ける
4 老乃坂・丹波街道 京都市桂から由良川沿いに大江山を経て与謝郡加悦町、天の橋立、丹後半島へ
5 生野街道 姫路市から生野銀山を抜け但馬に抜ける 和歌にも歌われた。大江山生野の道の遠ければ まだ踏みも見ず天橋立
6 美作街道・・・岡山県吉備中央から大山を目印に・東郷湖・白兎海岸へ抜ける。
7 出雲街道・因幡街道・津山街道・・・JR因美線・山陰本線が出雲市と揖保郡竜野市を結んでいる。
(修正・追加意見求む)
分水嶺のなだらかな場所は、古代から人が割合楽に往来できるため、多くの文化が行き来した。
その反面、瀬戸内海は広島県福山市(旧備後)~愛媛県今治市にかけて、小島が密集するしまなみ海道によって、往来が難しかったことはひとつ前の記事で書いた。島と島の間をぬける海流は、ちょうど関門海峡や豊後水道(豊予海峡)や紀州水道(鳴門海峡)と同じように、急激に海水を吸い込み、うづ潮などの乱海流を作り出すため、航行が困難で、久しく文化交流の邪魔をしてきた。しまなみ海道の東西は、文化圏の交叉する切れ目になっており、富山県の東西と同じく、日本の多くの文化の分かれ目であり、例えば稲作の手法、墓制の相違などが生まれた一方、銅剣・銅矛と銅鐸文化の交叉したファジーな地域にもなるため、さまざまな希少情報の、かえって目立つ痕跡をとどめた地域にもなっている。
その福山市から日本海島根や鳥取へ抜けるとき、中央分水嶺のいくつかを通る。
古代史では、これらなだらかな中国山地の街道によって、日本海文化と瀬戸内文化の融合が起きた。
顕著なのは備後で始まった四隅突出型墳の美作。伯耆・出雲・石見への拡散や、吉備型特殊器台・円筒埴輪などの出雲への拡散である。また丹後と京都を結ぶ由良街道では、伽耶文化の流入が想定できる。
顕著なのは備後で始まった四隅突出型墳の美作。伯耆・出雲・石見への拡散や、吉備型特殊器台・円筒埴輪などの出雲への拡散である。また丹後と京都を結ぶ由良街道では、伽耶文化の流入が想定できる。
このほか、西日本にはさまざまな分水界によった国分けが存在した。例えば福井と琵琶湖の余呉丘陵地の「さば街道」。
このなだらかな街道によった古代文化交流がおきる。それは日本海という海外へ開かれた立地にやってくる、さまざまな技術や文化を、北部九州一辺倒ではないバラエティあふれる地域文化へ育てていった。それが瀬戸内海を通って難波津へと運ばれ、やがて日本最初の中央集権の地・ヤマト誕生へとつながった。
航行の難しかった瀬戸内交流はしまなみ街道の狭い急流によって分断され、北部九州の最新文化は日本海で列島の外郭には早く広がったが、中心部へはなかなか迎えなかった。そこをついて、出雲から吉備そして播磨にかけて、いち早く高句麗型の渡来国家が形成されていくすきまがあった。日本海の交流はやがて若狭湾。富山湾・丹後半島・信濃川へも渡来があり、それぞれの小国家が作られ始める。最初、それらをとりまとめたのは北部九州の日本海交流だった。しかしこれを簒奪し、独自に半島への道を模索し始めたのがヤマト・河内・山背・近江の集団であった。そこから継体大王という水運豪族も登場する。大和朝廷への道は、ようやくこれから始まったと見ている。
これが東日本だと東西交流はなかなか遠隔にして、急峻な山脈に邪魔され難しかったと思われる。例外は信濃川~千曲川~諏訪湖~天竜川~東海へ出るアルプス越えや、富山湾から姫川を経て飛騨を抜け尾張へ出る険しい道などで、日本最長距離の縄文交流が見られる。このルートは高句麗~日本海~の方墳墓制の伝播が想定でき、やがて東国一帯に広がった前方後方墳の拡散による連合に結びつく。だが、その険しさや遠さから、この交流は多くの弥生人には選択しにくかったらしい。縄文からの蝦夷や海人族そして高句麗。百済からの戦争をさけた難民渡来者が中心になっているようだ。葺き石、方墳、積石塚、合掌式竪穴墓などが半島から来たルートであろう。
こうした考古学的検証から見ても、古代日本は地域縦断による民族や言語、墓制、土器などがある縦割りの集団を形成しており、これが大きく日本の文化の多様性を形成してきたことは間違いなく、それはとりもなおさず日本人という民族の多様性をも指し示していることになる。日本人はひとつではなかった。
だからこそ、ひとつになるための象徴が必要だった。それが銅鏡などの象徴的祭祀具による統一的信仰イデオロギーであり、前方後円墳という墳墓形式であり、最後には象徴天皇という「神的な」存在だったのだ。雑多な民族の寄り合い所帯だったゆえにこそ、統一国家のイデオロギーとしての『日本書紀』は生まれ、神儀令も生まれたのである。そして何よりも、大陸の争乱から逃れてきた為政者たちは血を好まず、争いを忌避したことが大きい。先住の小数をいくつか帰順させただけで、その後はいくさを避け、同和を旨としたために、東アジア諸国がいまだに国内に多くの火種を持ち続ける「古代残照の観念にふりまわされ統一国家を永続できないなかで、日本だけは和によってファジーではあるが、政治的強制なしに共存国家を成立させるkとに成功したのである。あいまいな国家日本。
しかし世界に存在しないこのまれなあいまいさこそが、実は世界を平和にしてゆける唯一のヒントかも知れないのだ。
しかし大陸世界にはそれが永遠に身に着かないだろうことも、これまた否定できない。その理由こそが分水界ならぬ国境の存在である。
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