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食国(おすくに)の意味から蘇我氏台頭の謎を解く3 的臣・雀部朝臣・塩屋連 みささぎ語源

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1 的(いくはの)臣
●兵庫県淡路市育波(いく・は)
平城京跡出土木簡・・・「津名郡育播郷」「津名郡育波郷」
「和名抄」・・・「津名郡育波郷」読み方「以久波」
●兵庫県姫路市香寺町的部
「播磨国風土記」・・・「的部(いくは・べ)の里」
「和名抄」・・・播磨国的部(いくは・べ)郷
●福岡県浮羽市
「和名抄」・・・筑後国生葉(いく・は)郡
明治時代の市制町村名に生葉郡浮羽村・姫治村・大石村・山春村 (浮羽町 → うきは市)とある
姫路と同名の村があったことが知れる 月ノ岡あるいは日ノ岡古墳はその被葬者か?
●愛知県 稲沢市平和町下三宅郷内
「延喜式」・・・尾張国 海部郡鎮座伊久波神社(江戸期には生桑神社)
【祭神】的臣祖 (合祀)菊理姫命
       『考証』『特撰神名牒』葛城襲津彦
       『神社要録』的臣祖
       『大日本地名辞書』紀氏の祖
この地は「間敷屯倉」が置かれた地であり、すぐ北の伊久波瀬古から遷座と伝えている。
社名は的の古語をイクハと呼ぶことに由来する。
古代に三宅の地で百手神事が行われ豊作の豊凶を占ったといわれる。
●岡山県
『百済本記』吉備国・・・「加不至費直(かうち・河内直)・烏胡跛臣(うこは・的臣)」
●奈良県
『古事記』孝元段
建内宿禰を祖とする七系列の氏族、「葛城長江曽都毘古を祖として、玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣」


 「いくは」は古語辞典によると「弓の的」、
古代には的臣(いくはの・おみ)という有力者がいて、的部(いくは・べ)といって弓矢の的を作ったり狩猟や軍事を担当したりした集団を従えていた。「日本書紀」には仁徳天皇のころの話として次のようなことが記されている。
中央では朝廷の宮城十二門のひとつ的門(のちに改名して郁芳門)を守護する氏族で、葛城氏傍系。

『日本書紀』仁徳紀 
「高麗国が鉄の盾と的を天皇に献上した。天皇は人々を集めて盾と的を射させたが、誰も射通すことが出来なかった。ただ的臣の祖である盾人宿禰(たて・ひとの・すく・ね)一人が鉄の的を射通したので、的(いくはの)戸田宿禰という名を賜った」

 淡路島も葛城県も大和政権にとって軍事上交通上の要所であり、また天皇の狩猟地であったことから、淡路の育波は的臣や的部と関係のある地名であると考えられる。淡路島は応神・履中・允恭紀に天皇狩猟記録あり。また尾張海部郡には海産物を納める間敷屯倉が、吉備国児島には塩や海産物のための児島屯倉があったゆえに的臣が葛城氏系では食膳氏族であったことが明白。筑後国浮羽も隣の朝倉に屯倉があって川魚などを贄としていたのだろう。

浮羽の有名な装飾古墳である日ノ岡古墳はいくつもの丹塗りの同心円文が描かれており、一見これが的臣を表すように見えるが、他地域に同種の装飾古墳はなく、むしろ対面する月ノ岡古墳の方が大和から派遣されてきた的臣の墓ではなかったかと考えられる。

また兵庫県の育波という地名が「的」に由来するとしても、この地の海岸には海人(あま)が住んでいた。平城京跡の木簡には「海」や「海部」、「調三斗」という記述がある。「海」は「あま」で海人を指し、「海部」は「あまべ」で海人の集団を指す。「調三斗」は調(ちょう)(税の一種)として物品三斗を貢納するという意味である。
参考 前之園亮一「蘇我氏の同族」



2 雀部(さざきべ)臣
巨勢臣傍系氏族
『新撰姓氏録』左京皇別・・・「雀部朝臣 巨勢臣と同祖。建内宿禰の後なり。星河建彦宿禰、応神の御世、皇太子大鷦鷯尊(おほさざきのみこと=仁徳)に代わり、木綿襷(ゆうだすき)をかけて御膳を掌監す。よりて名を賜いて大雀臣という」

「さざき」とはミソサザイのことである。仁徳の諱号ゆえに、同名をもらったということになる。ミソサザイとは味噌盗みという地方での異名があるように、台所と深く関わる鳥であると思われる。里の人家まで近寄る鳥で、しかも色が味噌に似ていると言う。
http://members.jcom.home.ne.jp/okamoto.n/tori/yachoma/misosazai/misosazai2.html

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仁徳天皇にも、秦氏の入った山背を見聞して、家々から煙の立つ夕餉の様子をいたく褒めるシーンがある。また建内宿禰との逸話でも、応神と宿禰の子供が産まれたときに宿禰の産屋にはミソサザイが、仁徳の産屋にはフクロウが飛び込むと言う逸話がある。これなどはまさに名前の交換であって、互いに親交を深くし、臣下の礼を例えた話と考えられるので、仁徳と建内宿禰子孫の食膳奉仕でのつきあいを暗に示していると考えられる。

ミソサザイの「さざい」はもとは「さざき」が訛ったものであろう。かつ「ささき」「ささぎ」が陵の意味にもなるので、大きな墓の持ち主とかけてもいるか?確かに仁徳天皇陵は巨大である。「みささぎ」はもと「みさざき」だったと辞書にある。http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/211356/m0u/
この「ささき」は後に近江・四国の「佐々木氏」と関係するか?筆者先祖は四国の佐々木氏から豊後に入って今の姓を継いだと聞くが、なにやら料理愛好家として個人的なえにしを感じている。
陵の語原をカササギに求め、さらに仁徳に求める説がある。http://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/82520c3488ff2ff1dbf778e1d611ec56
これによればミソサザイはそもそも小鳥一般に使われていた呼称らしく、カササギの住む森のある古墳も「ささぎ」に神の「か」がついたという。またミサンザイなど古墳に見られる名前もミソサザイあるいはみささぎのことかとも。http://www.dai3gen.net/sasaki.htm
みそさざき→みそさざい→みささぎ→みさんざき→みさんざい

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いずれにせよ聖なるものとしての鳥は霊魂を運ぶものゆえに、祖霊の霊廟である古墳にふさわしい名前である。なお、巨勢氏同族の食膳氏族には先に書いた大炊朝臣氏がいる。「みかしき」は「御かしぎ」で「かしぎ」は炊飯のこと。ちなみに鉱山では、飯炊きや飯炊き小屋のことを最近まで「かしき」「かしぎ」と言ったと宇江敏勝の『炭焼日記』にある。
ついでに推古天皇の諱号である「とよみけ・かしぎや・ひめ」の「とよ」とは豊かな食材、「みけ」は御食である。饗宴のことを「豊楽=とよのあかり」と『古事記』が書く。葛城襲津彦の娘・磐之媛はよく紀伊やらの柏の葉を求めて酒を供したとあり、
この柏の葉こそが贄を盛る食器=膳の語源であろうかとも思える。神社の柏手は拍手であるが、あれももしや神への贄を持って参じたことを知らせるものか?
襲津彦が連れ帰った秦氏の酒君は鷹狩を本邦に伝えたともある。『古事記』は襲津彦を「さちひこ」と書くが、この「さち」とは海の幸・山の幸のさち、すなわち食材ではないかと前之園は書いている(2012)。さちは狩猟に関わる贄であろうから、葛城氏はみな最古の天皇の食膳奉仕氏族=臣であることになる。


2 塩屋連
『新撰姓氏録』は河内皇別、襲津彦の後なりとするが、連姓は血族ではないと前之園は書いている。つまり血縁ではなく婚姻などの系譜上の同族であろう。名の通り、伊勢国奄芸(あむき)郡塩屋郷を本拠とする海士の製塩による食膳氏族であろう。瀬戸内海のしまなみ海道にも塩の産地があって伯方島というが、清盛でも出てきたから覚えている人も多かろう。伯方の塩で有名。

このように塩、海産物、海草、川魚などは今でも神社の贄に多い。また地名でも淡路島や阿波国、安房国などはもともとアワビ産地ゆえの国名であろう。なんとなれば全国に「あわ」の国が二ヶ所もあること自体不思議であるし、確かに記録上も徳島も千葉房総南部もアワビを大量に献上しているのである。ただ吉備国がキビの産地かどうかはやや疑わしく、あそこは塩と鉄の産地であった。そのあたりは地名の「機微」に詳しい方に聞いておきたい。

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