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大和は狗奴国

 
 
水野祐「わたしは日本を二つに割って、近畿地方を中心とする東西両側は銅鐸の文化圏、北部九州を中心とする東西側は銅剣・銅鉾の文化圏だと語ったわけです。ただいまの青山先生の問いかけ(出雲荒神谷から銅剣と銅鐸両方が大量に出たこと)は、出雲の荒神谷遺跡などは銅鐸・銅剣・銅鉾が発掘されていてこの枠にはまらない、それに佐賀県の鳥栖(とす)市の安永田遺跡、この遺跡は吉野ヶ里から15キロくらいしか離れていないのですが、銅剣・銅鉾分布圏にはない銅鐸の鋳型が出てきました。それなのにまだ二分説をとるのかといわれるわけです。

「九州では、銅鐸は出てこないはず、それなのになぜ銅鐸の鋳型が出てきたのだろうか」ということになるのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どう考えているかというと、安永田の銅鐸の鋳型は、銅鐸のなかでは少し変わったタイプの銅鐸なのです。その後も似た銅鐸の鋳型が近くの福岡県春日市で出ていますが、ともに小さい銅鐸の鋳型なのです。・・・・・・・・・もっと大事な鋳型は・・・大阪の茨木市東奈良の例、ついで京都の向日市鶏冠井(かでい)、最近では福井県の三国でも出てきます。奈良県でも唐古・鍵遺跡がありますね。銅鐸の鋳型は圧倒的に近畿地方に多いのです。しかし安永田の例は、今の所、鶏冠井例と並ぶ古い鋳型だとされています。ですから、九州で鋳型をつくり始めながら、なぜつづかなかったのかを問題にしますと、王都邪馬台国をとりまく近畿地方中心に銅鐸はつくりだされたが、倭国王が「大率」に命じてつくらせ、製品は東へ(日本海側や瀬戸内沿岸の)と運ばれたという可能性、あるいは近畿地方の有力な官僚がたとえば大率を仕切っており、彼が九州で銅鐸をつくらせているケースなどが考えられます。ですから九州には広く残らないと・・・。
 
出雲は昔から近畿・九州両方の文化圏に属する所です。今でもそうですけれど、出雲大社と宗像大社は『日本書紀』を見ましても関係は深く、よく往来していますから、銅剣とか銅鉾がきわめて手に入りやすい位置にあるといえます。近畿ともこれまた終始往来してしていて銅鐸は入りやすい。結果両方の文物が出てきて当然だと。」
『邪馬台国とは何か 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡』石野博信討論集 2012
 
 


 
 
水野は出雲は九州と近畿双方とつきあいがあり、その文化の交差点であると言っているわけである。これは昨日記事の村井康彦の意見とある程度合致している。
 
村井の、大和こそが狗奴国に乗っ取られた邪馬台国だとする考えでいけば、出雲という優良な潟港も大和も、最初は銅鐸圏だったことになり、それが神武東征によって滅ぼされて銅剣文化圏に変わっていなければならなくなる。しかし大和では確かに巨大化した銅鐸は破壊され、埋められているけれど、だからと言って大和が一気に銅剣文化圏になっていった痕跡はない。出雲では銅剣と銅鐸は仲良く一緒に埋納されていた。このふたりの考え方では、考古学的な物証と一致しないのである。
 
彼らの考証にはいったい何が不足しているのか?

それは北部九州をひとつの同じ文化圏だったと思い込む、文献史学者にはありがちな古いものの考え方が支配しているからではないだろうか?一昔前の考え方だと言ってもいい。
 
すでに北部九州には北西部と北東部に、別の弥生時代渡来があって、はっきりとその文化に違いがあったことはこのブログで書いてきた通りである。村井のような神武が九州から遠征した痕跡などは近畿にはないのである。記紀が九州から来た始祖王を最初にあったとしていながら、十代あとには崇神という別の始祖王を持ち出してくる理由は、Kawakatuが書いたように、記紀編者つまり8世紀為政者にとって、大和にいる九州系実力者への一応の「先の王家持ち上げ」という政治的配慮があっただけである。
 
九州北西部、有明海沿岸地帯は南九州狗奴国の縄文勢力と早期に手を結んだ。それが記紀の天孫の霧島降臨と阿多隼人との婚姻である。北西部の稲作技術は、北東部の技術とは違っていた。おそらくそれは呉越の技術である。当然、イネの品種にも朝鮮半島経由とは違うものだったはずである。しかし北東部には朝鮮半島南部海岸部の人が入り、これが最初、日本海経由で一気に北上する。北東部の人々、つまり水野や村井の言う宗像系氏族と出雲・日本海の交流があるために、北西部呉越系+隼人(葛城系倭人)は太平洋経由でぐるりと豊後水道へ回りこまねばならなかった。これがまさしく神武のコースなのである。
 
さらに、出雲、出雲とふたりは言い募るけれど、実際に大和纒向の3世紀祭祀様式は吉備からのもので、出雲式の四隅突出墳墓も大和には届いておらない。その吉備の文化は出雲にも多大な影響を与えている。西谷四隅突出墳墓からは吉備の弧帯文を持った円筒埴輪が出る。
 
神武もまた宮崎を出て、豊後水道の海人族の案内を得て宇佐~岡そして吉備を経由していくのである。
神武が狗奴国の王であることは村井の言うとおりでよかろう。しかしその瀬戸内横断には吉備勢力の王の力が絶対に不可欠であったはずである。吉備に管理されていた瀬戸内の海人たち=倭直・国造の力である。彼等こそが纒向祭祀の中心人物なのである。
 
このように吉備を無視したふたりの考察には、欠点が多すぎてとてもすべてにうなづくことができないのは言うまでもない。
 
邪馬台国が狗奴国によって滅ぼされ、大和は狗奴国になった。認められるのはそれだけである。それが銅鐸の終焉に集約している。そして葛城勢力と吉備王が王権を一時的にとったのである。
 
 
 
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