「はじめ大原女は炭を売っていた(『本朝無題詩』)。これは大原の地が炭の産地だったためである。しかし鎌倉時代以降、京近隣の炭名産地は山城国小野里に移った。大原は薪で有名となり、大原女も薪を売り歩くようになった。
その風俗は、島田髷に手拭を被り、薪を頭上に載せ、鉄漿をつけ、紺の筒袖で白はばきを前で合わせ、二本鼻緒の草鞋を履いている。
京都の風物詩として著名で、「東北院職人尽歌合」や「七十一番職人歌合」など中世の職人歌合において記され、狂言・舞踏にも登場する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E5%A5%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E5%A5%B3
このことは最後にまわす。
さて、昨夜は旧暦の七夕だった。
『年中恒例記』によると、七月二日に祇園精舎から草花が室町将軍に献じられた記録がある。
将軍に直属の奉公衆は幕府の直接的軍事集団(花郎に同じ奴婢の武装集団)であったが、中でも「五ヶ番」は五番に編成された部隊で、これが花を献じ。それを立阿(りつあ・将軍府で側用をつとめる同朋衆の名、花を立てるので立阿花とも)が花瓶に活け、天皇へ献上されていた。
『年中恒例記』によると、七月二日に祇園精舎から草花が室町将軍に献じられた記録がある。
将軍に直属の奉公衆は幕府の直接的軍事集団(花郎に同じ奴婢の武装集団)であったが、中でも「五ヶ番」は五番に編成された部隊で、これが花を献じ。それを立阿(りつあ・将軍府で側用をつとめる同朋衆の名、花を立てるので立阿花とも)が花瓶に活け、天皇へ献上されていた。
要するにその花が将軍から直接贈られたことが、立阿が持って行くことでわかるのである。
その立阿はみな、「阿弥号」を称していた。それが生け花をこととするのは、近世に大家となった本阿弥光悦などへ受け継がれた伝統である。「阿弥」とは念仏祭祀する乞食坊主の通称なのだが、仏教に仕えているという意味を持つ。観阿弥・世阿弥も証した。身分の低い陰陽師系花郎とでも言えるか。
細川氏などの大名も七夕には、同じように天皇へ花が贈られている。
『看聞日記』には七夕に「七夕法楽草花」とあり、また「花合 はなあわせ」とも出ている。寺院や関係者から草花を生けた花瓶が贈られ会所に飾られた。法楽というのは神楽や芸能を神仏に奉納する行事である。会所とは武家のサロンである。
花合は、来訪した客たちが花を左右に分かれて見せ合い優劣を競う優雅な合戦であり、このときには連歌や酒宴が催された。そして花の品評会もこのとき行われた。
その規模は次第に拡大し、応永24には五、六個だった花瓶が、永享三年には53個となったとある。→仙洞花合
『殿中申次記』によれば細川家や真木島家では仙翁花を献上したとある。
七夕の中心的献花はこれだったようである。
この花の名は鎌倉時代には出てこないから、室町時代に輸入されたのだろう。私貿易の盛んな時代なので嵯峨野仙翁寺などが持ち込んだのだろう。禅僧の日記や漢詩にこの花はたびたび出てくる。
貞成親王の庭には仙翁花が植えられていたという。
草花を竹筒にさす風習もここに記録がある。
のちに利休が好んだ竹の花差しや、花瓶受けなどは、隼人らの編み上げたり、切り取ったりして加工されたものが多い。竹細工も賎民の仕事である。もちろん茶筅を作ったので「茶筅」と呼ばれたのもそうである。竹篭などはみな南方系海人族らの古くからの呪の風習で、カゴメを作ってそれを魔除けにした。セーマンと海女たちが呼んだ五芒星なども竹篭の目の形なのである。
将軍義政に送られた仙翁花は大量だったが中に桔梗がまじっていたという。
いずれも五弁の花で、どうやら五弁の花が珍重されている。
いずれも五弁の花で、どうやら五弁の花が珍重されている。
秋の重陽の節句に菊花が献上されたのも室町期であろう。背の高い花が好まれており、菊が今の菊花展のような背の高い、大輪で、添え木でささえられるようになる最初はこの時期である。記録では女房二人が花の高さで喧嘩になり、酒宴をひらいて仲直りさせたともあるほどだ。
永禄三年、久我(こが)氏が草花を献上し、その中身はやはり筆頭に仙翁花、続いて桔梗、小車(おぐるま)、がんぴ等とあるので、かなり長い間此花は好まれ、次第に献花も種類を増してゆく。おそらく木地師の作る御所車もそろそろ御では取り入れられたであろう。
また鶏頭も出てくるのは天文年間あたり、その他仏桑花(ぶっそうげ、ムクゲか?ハイビスカスの仲間)の名もある。
『新撰類聚往来』で美木・草花には曼珠沙華・摩訶沙花・曼荼羅花・摩訶曼荼羅花・勝曼花・仏勝花(ぶっしょうげ)とあって、かなり花の好みも変わってきている。なにがなにやら?
医者の半井驢庵(なからいろあん)の庭には数奇屋茶室があり、東西七軒にわたり大量の菊が植わっていて人々が驚嘆したという。
植物学はこの時代は本草学(ほんぞうがく)で、それは漢方医薬の知識でもあって、医者などは植物園ほどの花を育てている。
これは天武時代にも京都紫野に薬典があったように、栽培は奴婢の役目であった。あの額田王が手を振る姿を見られないかしらと心配した、その見るかも知れない者とは彼ら奴婢賎民のことであり、下賎の者は口さがないから、噂になると案じたのである。
花を売るといえば大原の花売り女(め)であるが、そもそもは燃料の炭を売ったのが最初で炭焼きが一家の台所をささえきれずに物売りに出る、それが薪に変わり、花に変わっていった。大原もそうした下賎の村落で、隠れ村である。戸隠などもそうだが、山辺の谷間で、ひっそりとした隠者の部落だ。そこで奴婢の娘が都の貴種の目に留まろうと頭に籠をのっけて花と春をひさぐようになったのは戦国~江戸期であろうか。「花を売る」が売春の隠語となるきっかけもこれかも知れない。「花、いらんかえ~~~」
珍種の朝顔もこの頃大量に入ってきている。絵巻物『福富草紙』には、朝顔の種をやってきた芸人に飲ませる場面があり、この芸人の芸とは放屁芸だったから、さあたいへん、朝顔の種は強烈な下剤効果がある。それを10粒も飲ませたから、放屁したら・・・座敷はふんまみれになり、芸人は追い出されてしまう。実に趣味の悪い遊びである。
江戸時代、本草学に秀でていたのは医者だけではなかった。いわゆる忍者もそうである。彼らは暗殺も手がけるので毒薬にも、生薬にも詳しかった。つまりこういう学問はみな中国で言う科学なので、技術者にあたる。それらは儒教では底辺に置かれた者の仕事であった。医者もそうである。
花にせよ芸能にせよ医術・本草にせよ、すべからく役立つ仕事、優雅な芸術、栽培などもみな最新技術であり、渡来するものであった。ゆえに実学に類するものすべてを引き受けたのは被差別の民だったのである。
諏訪神社の神文にもなっている梶の木。
「かじ」は舟の舵にも例えられ、七夕には硯のふたに梶の葉七枚、梶の木皮に素麺を入れ、梶の葉七枚に七夕の和歌を七百首も書き、皮を竹につけて屋根に上げると天の川にいけると信じられた。
『後拾遺』に「天の河とわたる舟のかぢのはに思ふことをも書きつくるかな」とある。
これは平安時代の風習である。
長野の諏訪神社は、タケミナカタという安曇の海人の舟の民がやってきて祀っている。だから舟の舵に例えて梶の木を神文にしたのではないだろうか?ちなみに諏訪上下社で梶のデザインが違うことも書いておこう。
これをイスラエル由来とするおもろ~~~なサイトがあった。
?である。
12はシュメールの聖数とかあるようだったが、12は世界的に一年、12ヶ月を差す数字にほかならない。
阿蘇の12神なども季節ごとの神の数でしかない。キリスト教の12使徒も同じくそういう意味の創作。
イスラエルなら10支族だから12は関係ない。
世の中にはいろんな考え方がある。
自由で結構。
ナガスネヒコがナーガの神・・・
悪いんだがナガスネヒコは「ナカスネ彦」とにごらないのが正式。
中曽根と同じで海人系縄文地名の「那賀」地名由来である。
コメントが来ないことを祈る。
君子あやうきに近寄りたくなかったが・・・。