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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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パワースポット巡り2 直入中臣神社

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正月の九州異界巡り、二番目は直入中臣神社。
 
 
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なおり・なかとみ・じんじゃ
直入中臣神社
[所在地]
 大分県由布市庄内町阿蘇野(字中村)3784番地 【地図
[御祭神]
 ○直入中臣神(なほりなかとみのかみ)
  ・武甕槌神(たけみかづちのかみ)
  ・經津主神(ふつぬしのかみ)
  ・許登能麻遅媛神(ことのまぢひめのかみ)
  ・天之兒屋神(あめのこやねのかみ)
  ・天美津玉照比賣神(あめのみつたまてるひめのかみ)
  ・天押雲根神(あめのおしくもねのかみ)
 
 
 
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「なおりなかとみのかみ」と読ませる。
直入郡は「なおいり・ぐん」と読ませるので、この「なおり」はなぜなのかをちょっと調べておきたい。
 
まず、中臣氏諸伝では直入神とは天種子(あめのたねご)の命のことである。
 
種子の祖父が天児屋(あめのこやね)の命でいずれも中臣氏の祖人になっている。
 
  
        ┌フツヌシ       ??┤        └アサカ姫┐             ├┬アマノコヤネ──┐ツハヤムスビ─??─ヰチヂ─┘│        ├オシクモアメタネコウサマロ┐              └(タケチノコリ) │     ┌・・・─・・・─・・・─・・・┘                       ├ヒタチ  └・・・─オオカシマトヨケ─??─ヲハシリタケミカツチヒメ───┘
 
系図ではこのように物部氏の祖フツヌシの命から中臣氏は生まれたことになっている。
もっともこの祖人系図は景行紀を書くときに、ライバル蘇我氏を熊襲に充てていると考えることで、かなり疑念が解消されるように思う。あくまで個人的見解であるが。
 
景行とヤマトタケルの九州巡行を、史実とは考えないで、乙巳の変をモデルにした、大和飛鳥での勢力争い平定に置きなおしてみよう。反抗勢力としての蘇我本家を葛城王=中大兄と中臣鎌足が誅殺する。
これが九州に置き換えられると景行天皇の熊襲征伐になる。
大昔の神代にも、同じようなことがあったんだよ。だから蘇我氏討伐は当然の結果だよとなる。
 
景行やヤマトタケルのような大和の全国平定に、必ず物部氏や中臣氏(大伴氏も)がついていって手柄をたてたということがわかればいいのである。その征伐とはつまり蘇我氏配下残党の反発を抑えるための小競り合いだと言える。
 
直入中臣神社はそもそも「石神明神」で、巨石信仰があった聖地だった。そこに中臣氏系列の渡来系末端が鉱山開発のために入ったのであろう。そのい証拠にここの巨石は「蹴石」と呼ばれてきた。「けりあげる」「けあげ」は土地開発地名である。今は広く阿蘇野と呼ぶので、熊本の阿蘇地方から阿蘇氏末端が入って開発したことがわかる。だから阿蘇氏の中で、人吉あたりの熊襲が阿蘇国造家によって平定された、そのおこぼれたちが落ち武者か配下になってここに入っただろう。中央では中臣氏が阿蘇氏祭祀の管轄下にあったので、中臣の神をここに祭ったのだろうと思われる。
 
 
 
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あくまでも個人的見解に過ぎない。
 
 
 
ここは久住連山の東端、黒岳の裾野になり、熊群山・花牟礼山など「むれ」のつく山々に囲まれる山間僻地である。「むれ」は朝鮮語でむらの語源とも言う。おそらく暗がりを指す「むろ」の語源でもあるだろう。暗所である。
 
巨石が暗所に群がっている地名であろう。その巨石がみな阿蘇凝灰岩や、火山弾の飛沫した名残である。それを熊とか牛と見た地名は多い。パワースポットに多い巨石がよく人為的な置かれ方をしたという見解があるが、あまり信用していない。飛んできた火山岩や溶岩流の「置き忘れ石」ではないかと思う。そういう場所をのちに修験者が入って、若干の手を入れることはよくある話である。
 
古代人、それも特に農業に関わった弥生以後の人々は、冬至と節分と夏至の方角を重視した。というのは節分は一年の始まりの田植え開始時期を、冬至は一年の終わりの収穫の時期を、夏至は一年でもっとも日の長いとき、つまり生命の絶頂期を、それぞれ示す基準点になる日ゆえに、そのときの日光の差す方角を聖なる方角とする傾向があり、それはいわば古代の天体カレンダーでもあった。
 
この嗜好性には必ずしも全国規模の統一があったとは言えない。冬至を重視する人もあれば、夏至を重視する人もあり、節分を重視する地域もあった。これによってすべての日本人の原始信仰を表現しようとするのは、なかなか難しいだろう。
 
ちなみにこの社は北を向いており、地形が優先したとも思える。
 
 
そもそも古墳や神社の向きはばらつきが多いので、さまざまな信仰があったと、つまりいろいろな地域からの来訪者がこの島国に来ていると見るのが、まともな脳みその考え方である。
 
 
みんながみんな同じ方角や場所を聖地を見たと考えるほうが、ちょっと全体主義的だと筆者は思っている。人間はそんなに単純ではないし、日本人も一種類ではないのだから。
 
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