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地下式板石積石室と免田式土器/南九州の土着スタイルではないのか?

 
 
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 青●=地下式板石石室墓  ピンク●=免田式土器
 
 
 
熊本県の南部地区を代表する弥生土器の型式に『免田式土器(めんだしきどき)』がある。
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大正7(1918)年、免田西下乙字本目の源ヶ屋敷(げんがやしき)から出土し、町名が命名された。
免田式土器(めんだしきどき)
免田式はもともと『重孤文土器(じゅうこもんどき)』といわれていた。
土器の形は、胴部がそろばん玉の形のようになっていて、やや開き気味に上に長くのびた円筒状の首(長頸)をもち、胴部の上半面には、同心円紋を半分に切った紋様(重弧文)やノコギリの歯のような形状の鋸歯紋(三角紋)、短い斜め線の綾杉紋や平行紋を描いている。
 

●免田式土器の分布
熊本県を中心とする南九州に分布する。
150ヶ所で発見されているが、熊本県は95ヶ所を占める。
特に球磨・人吉では30ヶ所あり免田式の本場であることが推定される。
県外では、北九州の行橋市、鳥栖市、八女市、武雄市、
また南は沖縄本島、具志川市でも発見されている。
阿蘇市下山西遺跡・・・竪穴住居が埋もれる最後の時期に竪穴の中央部に据えてあった。
御船町南原A地点遺跡・・・弥生時代の墓に供えるような状態で発見された。
山都町稲生原遺跡・・・ある種のお祭り用の土器であったことが推定される。
鹿児島県の北薩摩地方から熊本県人吉盆地・・・『地下式板石積石室墓』から免田式土器の変化した土器が出土。
http://yumeko2.otemo-yan.net/c4032878.html
 
 
 
 


 
 
「鹿児島県の北薩摩地方(筆者は出水郡ではないかと推定)から熊本県人吉盆地・・・『地下式板石積石室墓』から免田式土器の変化した土器が出土。」は注目できる。
 
 


 
 
 
■ 地下式板石積石室
 
石室を蓋石でおおい、その上を板石で葺き、さらにその上にとう石を置くものである。(下図)
 
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■ 韓国の支石墓と地下式板石積石室の関係
支石墓は、墓の上に大石を載せた構造の墳墓であり、韓国に起源があるとされる。韓国の支石墓の形式には、北方式と南方式がある。北方式は二枚の壁石の上に巨大な板石を置くもの。南方式は下記のように三つに分類される。
 
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■ 地下式板石積石室の年代
明神下岡遺跡では、弥生中期の一の宮式の甕形土器が見つかっている。また、出水郡高尾野町の堂前遺跡では、出土土器から、弥生時代後期から古墳時代まで数百年続いた遺跡であることがわかった。
つまり、地下式板石積石室は、弥生時代中期から古墳時代に至るまで、九州西部で継続して行われた墳墓の形式である。

 
■ 墓制折衷
地下式板石積石室と同じ分布圏に、高塚(を持つ)古墳も分布している。
川内川中流の薩摩郡鶴田町の湯田原古墳では、地下式板石積石室と高塚古墳が融合したようになっている。
内部構造は地下式板石積石室でありながら、石室を地表に築き、その上に盛り土をかぶせ、
外見は円墳のようになっている。 まさに、地下式板石積石室と高塚古墳の折衷である。
石室が大きく、鉄剣や鉄鏃などが副葬されていることから、地域の有力者の墳墓と思われる。
さまざまな事情によって、異なる形式の墓制が、折衷、融合される場合があることの例であろう。

■ 九州南部の三つの墓制圏
地下式板石積石室墓圏 (九州西岸、川内川流域など)
古墳・横穴地下式横穴混在圏 (九州東岸、西都原、宮崎、都城など)
立石土壙墓圏 (薩摩半島)
 
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 ■端の陵古墳について
端の陵古墳は前回も述べたように、地下式板石積石室を持つように見える。
しかしその外形から前方後円墳にも見える。これについては、学者の間でも見解は定まっていない。
端の陵古墳は、地下式板石積石室と前方後円墳が融合した墳墓ではないか。
端の陵古墳を前方後円墳とみた場合のかたちから、築造年代を推定すると(下図)、もっとも古い古墳に位置づけられる。
 
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端の陵古墳データ
 後円部直径 35メートル
 前方部末端幅現存10メートル(測定値Ⅰ)
 前方部末端幅推定16メートル(測定値Ⅱ)
(中略)
 
 
■ 畿内の古式前方後円墳「中山大塚古墳」と「地下式板石積石室」
「中山大塚古墳」は奈良県天理市にある最古級の前方後円墳である。
大規模な竪穴式石室を持ち、墳丘は分厚い葺き石でおおわれている。
考古学者の森浩一氏は「中山大塚古墳」について次のように述べる。
「後円部には、盗掘はうけていたものの、大きな墓壙のなかに、壮大な竪穴式石室があった。
内部に刳抜式の木棺(船形か)が置いてあったと推定されるが、それをおさめた石室は、
近畿地方の前期の大型古墳によく見かける石室とは石室上部の構造が違い、
ぼくは『亀甲形魚鱗状天井の竪穴式石室』と名付けた。」(『記紀の考古学』朝日新聞社)
また、『アサヒグラフ』の『1993年古代史発掘総まくり』でも、森氏は石室の印象を
南九州の隼人が残した地下式板石積石室を巨大化したのではないか、と述べる。
 
 

■ 瀬戸内の積石塚古墳
瀬戸内海にも転々と地下式板石積石室の仲間の墳墓がある。出土品などから、弥生時代と古墳時代のさかいのころに築造された墳墓と考えられる。
萩原1号墳(徳島県鳴門市) 画文帯神獣鏡を出土
綾歌石塚山2号墳(香川県綾歌町)
鶴尾神社4号墳(香川県高松市) 獣帯方画規矩鏡を出土
西条52号墳(兵庫県加古川市) 内向花文鏡を出土
立坂墳丘墓(総社市)
以上引用http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku212.htm
 
 

大久保徹也(大久保 2002)は四国北東部を軸にしつつ、全国の前方後円墳築造動向から前方後円墳は地域ごとに自立的な築造体系があり、地域間関係を持ちつつ地域的政治秩序は並立していることを示した。 もはや、『記紀』の記述のまま、地下式横穴墓や板石積石棺墓に隼人の各「部族」を当てはめるようなきわめて素朴な理解は、現在の古墳時代研究とは大きくかけ離れている。 また一方で、戦前の皇国史観の反省の上に徹底した史料批判を行うことで古代を復元してきた 20 世紀後半の文献史研究の成果にも無頓着であったといって良い。今もって、鹿児島では考古学研究から古墳時代史像は復元できいないのである。 
 
地下式横穴墓や板石積石棺墓は5世紀代のものが多く、6世紀代以降のものは少ない。

5世紀代は本州でも古墳以外の墓制が存在するなど、列島各地で地域ごとに特徴ある埋葬施設の採用が広く見られ、九州南部の墓制のみを取り上げて独自性、異質性を強調することは適切でない。多様な墓制が共存する段階である。
 
 
 
また、近年関東・東北の地下式横穴墓の新例の報告もあり、その分布が九州南部のみに限定されるわけではないことも明らかになりつつある。
http://www.geocities.jp/noranoria/minamikyusyu38.html
 
 


 
 
 

●これまで確認された分布域
鹿児島県の北薩摩地方から熊本県人吉盆地・・・『地下式板石積石室墓』から免田式土器の変化した土器が出土。
長崎県五島列島            松原遺跡2号遺構       地下式板石積石室の祖形とされる
                      浜郷遺跡1号遺構                〃
鹿児島県薩摩郡鶴田町        湯田原古墳          地下式板石積石室と高塚古墳が融合した石室
      出水郡高尾野町      堂前遺跡
      出水郡長島町島町明   明神下岡遺跡26号遺構            〃
沖縄県
奈良県天理市              中山大塚古墳           森浩一説
類例・折衷墓とみられるもの
鹿児島県薩摩川内市宮内町    端の陵古墳
萩原1号墳(徳島県鳴門市) 画文帯神獣鏡を出土
綾歌石塚山2号墳(香川県綾歌町)
鶴尾神社4号墳(香川県高松市) 獣帯方画規矩鏡を出土
西条52号墳(兵庫県加古川市) 内向花文鏡を出土
立坂墳丘墓(総社市)
 
 
 
 
 
この石室は、支石墓のような形状を二段にして、地下に埋めたもの。
簡単に言えばそうなるが、まだ実部欝は見たことがないので、何もわからない。
いわゆる南九州や豊前に多い地下式横穴墓とは、まったく作り方が違い、おおまかに前者は竪穴式であるが、後者の宮崎に多いのは一旦掘り下げて横向きに掘ってそこに古墳の石室と同系の横穴式石室が作られる。縦に掘るのは一緒でも、まったく様式が違う。いずれにせよ、地下に埋めてしまうというのは、群集墳的である。それが集中することもあるのは、彼らが兵士だったからではなかろうか?戦場では簡便な墓になるのは違和感はない。わからないが。
 
考古学的な資料がまだまだ少ない段階では一概に何も言えないということになるが、
だからと言って地下式横穴墓や地下式板石積石室が、では南九州の5世紀ほど大量に集中する地域がほかにあるかと言えばないわけで、地元民・愛好家たちがそれらを熊襲や隼人の墳墓形式であるとすることに、これまた反論する論拠も希薄なのではないか?考古資料が少ないということは双方にとって論拠を提供しない資料であることになるだろう。
なぜそれほど明確に「ない」と言えるだろうか?筆者は言えないと見る。

仮説として地下式板石積石室が熊襲しか該当者が見当たらない墳墓形態であることは、今のところ候補がほかにない段階では間違いない。
だからあくまでも仮説であると前置きしておかねばならない。

これを証明しうるほかの遺物が地下式板石墓から出ていないだろうか?
例えば免田式土器では?
鹿児島県川内川流域にわずかしか類例はない。
しかも免田式に類似するという但し書きがつく。
あとはもう楽しい推理推測しかわれわれにはないではないか?

例えば、これが日田から南下した日下部、あるいは日下部氏の墳墓だと考えてみよう。
日下部ならば人吉市に横穴墓があり、靫や円紋や菊花文を持ったものがある。
しかし免田式土器が出るあさぎり町に装飾を持つ古墳は今はない。
あるのは金鍍金鏡という立派な遺物が出た才園古墳であるが、そこにも装飾は無い。
朱塗りのようなあとはあるが・・・。
 
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ではこれが人吉の靫負日下部を束ねた中央派遣の日下部氏のものだろうか?
ではなぜ豊前の地下式横穴墓からは蛇行剣が出たのだろうか?蛇行剣は隼人の剣ではなかったのか?
これもはっきりと決定するには資料が少ないのであるから手に負えない。

宮崎県に多く、豊前へと北上した痕跡が臼杵市などにある地下式横穴墓が阿多隼人のものだとしてはいけないだろうか?
また沖縄にまで行った免田式土器は熊襲・隼人・久米の貝交流の痕跡、あるいは狗奴国の交流としてはいけないか?

わからない。
しかし、琉球と鹿児島の民族は往古、弥生時代の南海産貝のために交流していたのは間違いがないだろう?
どう見ても、ほかに氏族はいないではないか?大和の学者はなぜそれを否定したがるのだろうか?
ちょっと恣意的なんじゃないか?

わからない。(と書いておくか)
 
 
おかげさまで歴史総合で順位あがっております!
 

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