阿蘇山麓中通古墳群
◆阿蘇神社
名神大社、888年以後は大神宝使発遣対象社。
名神大社、888年以後は大神宝使発遣対象社。
第7代孝霊天皇御代 孝霊9年(紀元前281年)6月勅命により、神武天皇の御子である神八井耳命 (カムヤイミミノミコト)のまた御子である健磐龍命(タケイワタツノミコト)=阿蘇大明神-一の宮)を主神とし、御妃神である阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト=二の宮)、阿蘇初代国造である国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト=十一の宮)及び近親十神を含めて十二神(12宮)を祀る神社として創建されました。
その昔、阿蘇大明神は満々とたたえた湖水を外輪山の立野付近を蹴破って水を流し阿蘇を開拓しました。
第12代景行天皇は国造速瓶玉命の子惟人に命じて神社を創建させたと伝えられます。(肥後国誌等)
第12代景行天皇は国造速瓶玉命の子惟人に命じて神社を創建させたと伝えられます。(肥後国誌等)
◇創建後は、遣唐使派遣の際に勅命により航海安全を祈願する等、皇室・国家からの信奉が篤いと言われています。
これらの神様の御陵墓は6世紀頃に築造された中通(なかどうり)古墳群と伝えられています。
これらの神様の御陵墓は6世紀頃に築造された中通(なかどうり)古墳群と伝えられています。
源頼朝は社領を寄進しましたが、豊臣秀吉は九州平定時に社領を没収しました。しかし、肥後藩主となった信仰心の厚い加藤清正は阿蘇神社をりっぱに再興し、その後肥後藩主になった細川氏も阿蘇神社を保護してきました。
この間、時代のながれにより、北条氏や南北朝とかかわりをもち現在に至る歴史ある神社です。
この間、時代のながれにより、北条氏や南北朝とかかわりをもち現在に至る歴史ある神社です。
『隋書』
倭国から隋王朝には600年(推古8年)~614年間に6回遣使派遣
『隋書俀国伝』には『有阿蘇山 其石 無故火接天者 俗以為異 因行祭祀』
(隋書だけが倭国を「俀国(たいこく)」と表記している。これは大和のことではなく阿蘇山がある九州南部の国家ではないかという意見がある。)
推古天皇(実名は額田部)の時代に国交再開され、火国においても6世紀には額田部設置。
額田部は額田を名に負う推古女帝のための名代部で、馬などの軍事的役割を持っていた。
このように名代部は全国の要所に派遣があり、どこが本拠地とはなかなか決めにくい。
推古が大和の額田部首長のもとで誕生し、乳母としたためにこれを諱にしてある。
ただし、推古が実在したか、大和の姫だったか、などは記紀史観をはずしてしまえば実はわからないのである。
記紀の伝承はあくまでも大和朝廷中心主義史観で書かれており、これに頼り切った過去の歴史観は改められる時代に入っている。
額田部は額田を名に負う推古女帝のための名代部で、馬などの軍事的役割を持っていた。
このように名代部は全国の要所に派遣があり、どこが本拠地とはなかなか決めにくい。
推古が大和の額田部首長のもとで誕生し、乳母としたためにこれを諱にしてある。
ただし、推古が実在したか、大和の姫だったか、などは記紀史観をはずしてしまえば実はわからないのである。
記紀の伝承はあくまでも大和朝廷中心主義史観で書かれており、これに頼り切った過去の歴史観は改められる時代に入っている。
<阿蘇神社由緒略記>
【御主神健磐龍命は一代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当られた。後に命は、紀元七十六年春二月阿蘇に下られ草部吉見神の娘阿蘇都比命を娶り、矢を放ち居を定められ、四方統治の大計を樹て阿蘇の国土開発の大業を始められた。当時大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた(七月二十八日の御田祭神事の起り)。
また歳ノ神を祭り(三月の田作神事の起り)、更に霜神を祭り(霜宮火たき神事の起り)、風神を鎮め給う(風宮社の風祭の起り)等国利民福の為に尽くされた。
業成っては阿蘇山麓に大巻狩を行い鳥獣の害を除き(九月二十五日田実神事に執行の流鏑馬の起り)※これは下野の狩りとも云い中昔源頼朝が富士の牧狩を行なうに先ち使者を遣わし、この狩りの古実を学ばせたと云う。この巻狩りは天正以後廃絶した。祀典の範を定め庶民のために其の憂苦を除き給いて吾が大阿蘇開発の先駆者として不滅の功績を遺された。是に土地開け住民この地に安住して今に至るまでその恩沢を享け皆夫々生業を営めるは命の偉大なる御事蹟に外ならず、洵に命の大業は吾が日本建国史に不滅の光彩を放つものと云うべきであり現今国土開拓の神、農耕道の祖神として汎く世人の崇敬をうけ十一世紀以降肥後一の宮と仰がれ肥後の国熊本の総鎮守神として尊崇をうけております。国土の開拓とはただ産業の振興のみならず吾々人間生活に関わりある交通・文化・学芸・結婚・医薬・厄除等の生活守護の神として限りない御神徳をいただいています。
第七代孝霊天皇の九年六月御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始めで平成三年より二、二七三年前であり、第十二代景行天皇の十八年惟人命に勅して特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。これが阿蘇大宮司職の始であって現在に至まで連綿九十一代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。
◎皇室 国家の尊崇第五十三代淳和天皇(弘仁十四年)、従四位下勲五等に叙し健磐龍命に封二千戸を充て奉り順年昇位し貞観元年正二位、次いで延喜の制明神大社に列し名神祭に預かり、寛仁元年一代一度の大奉幣に預かる等朝廷の御尊崇極めて篤く肥後の国の一の宮とせられた。
爾来禁裏将軍家を始め武家武将の崇敬を享け、阿蘇氏の武門としての勢力は肥後一円に及び厖大な社領を有していたが、秀吉九州征伐の時阿蘇神領を没収し改めて天正十五年三百町の地を寄せられ、ここに往時の勢力を失墜するに至った。後に加藤清正、細川氏藩主たるに及んで畧代社領の寄進、社殿の造営等を為し崇敬の誠を表された。明治四年五月国幣中社、明治二十三年四月官幣中社に、大正三年一月官幣大社に列せられた。
爾来禁裏将軍家を始め武家武将の崇敬を享け、阿蘇氏の武門としての勢力は肥後一円に及び厖大な社領を有していたが、秀吉九州征伐の時阿蘇神領を没収し改めて天正十五年三百町の地を寄せられ、ここに往時の勢力を失墜するに至った。後に加藤清正、細川氏藩主たるに及んで畧代社領の寄進、社殿の造営等を為し崇敬の誠を表された。明治四年五月国幣中社、明治二十三年四月官幣中社に、大正三年一月官幣大社に列せられた。
阿蘇神社十二神一覧
十二神 祭 神 内容
一の宮 健磐龍命 阿蘇大神(神武天皇の皇子神八井耳命の御子)
二の宮 阿蘇都媛命 阿蘇大神の妃(草部吉見神=日子八井耳命の娘)、(日子八井耳命系)
三の宮 国龍神・吉見神(日子八井耳命) 二の宮の父神で草部吉見に住む。本宮は草部吉見社
四の宮 比御子神 三の宮の妃(日子八井耳命系)
五の宮 彦御子神 惟人命または八井耳玉命で甲佐宮に住む(国造速瓶玉命の第一の御子)
六の宮 若比神 五の宮の妃
七の宮 新彦神 三の宮の第一子。国龍神の弟。(日子八井耳命系)
八の宮 新比神 七の宮の娘神(日子八井耳命系)
九の宮 若彦神 七の宮の御子(日子八井耳命系)
十の宮 弥比神 七の宮の妃(日子八井耳命系)
十一の宮 国造速瓶玉命 阿蘇大神の第一子。本宮は国造神社北宮。
十二の宮 金凝社 綏靖天皇(第二代天皇) 諸神社3132社。
「阿蘇郡誌」による
●健磐龍尊は叔父のカムヌナカワミミノミコト(綏靖天皇)の支配する大和の地(山城国宇治)を避けて且つ、祖父(神武天皇)の故郷である九州に行き、祖父の兄(ミケヌノミコト)が支配している高千穂を避け、阿蘇の地に新天地をつくりました。(日向神話)
●健磐龍尊は草部の豪族であった国竜吉見命の助力により阿蘇を開拓したと伝えられる。
●速瓶玉尊
国造の祖---国造本記
速瓶玉尊は水神を意味します。中道古墳群と北山の間に鹿漬川が流れ熊本平野へ続いています。
国造の祖---国造本記
速瓶玉尊は水神を意味します。中道古墳群と北山の間に鹿漬川が流れ熊本平野へ続いています。
●火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連及び科野国造等は同族(国造本記)
吉見系阿蘇氏と国造家が阿蘇氏系譜に付け加えられた存在であることがこれらから見えてくる。
◆氏族
阿蘇氏と一口で言うが、氏族というものはあとからどんどんほかの氏族や部が編入され、加担し、さらに吸収され、かつまた滅ぼされて帰順することなどでふくらんでいくものである。さらに中世以後は、阿蘇に入った菊池氏などの在地豪族としての阿蘇氏との姻戚関係を結ぶなど、無関係な外来氏族や、全国国司たちもそうだが、勝手な系譜参入などは当たり前である。これでは私は阿蘇氏であるなどと今言っても、どこまで古代の本家に関係したのか怪しいものになってしまう。それは特に藤原姓や秦姓を名乗るものが日本で一番多いこととも関係する。要するにその時代、その地域の重要氏族には、あとからどんどんえにしを求める「他人」が入り込むのである。もちろんそのほとんどが元は無関係な氏族だったのであり、さらにほとんど大半は部民として氏族に支配されたものどもの子孫なのである。
阿蘇氏と一口で言うが、氏族というものはあとからどんどんほかの氏族や部が編入され、加担し、さらに吸収され、かつまた滅ぼされて帰順することなどでふくらんでいくものである。さらに中世以後は、阿蘇に入った菊池氏などの在地豪族としての阿蘇氏との姻戚関係を結ぶなど、無関係な外来氏族や、全国国司たちもそうだが、勝手な系譜参入などは当たり前である。これでは私は阿蘇氏であるなどと今言っても、どこまで古代の本家に関係したのか怪しいものになってしまう。それは特に藤原姓や秦姓を名乗るものが日本で一番多いこととも関係する。要するにその時代、その地域の重要氏族には、あとからどんどんえにしを求める「他人」が入り込むのである。もちろんそのほとんどが元は無関係な氏族だったのであり、さらにほとんど大半は部民として氏族に支配されたものどもの子孫なのである。
ではこれでは氏族分析など無意味ではないか?と思われるだろう。ごちゃまぜになったり、断絶してあとを他人が受け継いだのなら、古代氏族が今に正統な残存をしている可能性は皆無となってしまう。それこそが天皇家が万世一系ではないはずだということの証拠になるのである。特に中世の戦国時代などは、どんどん氏族も武家も消えて行き、雲がよければ代替わりして今に到るのである。
では阿蘇氏とはどう把握すればよいのか?
まず古代阿蘇氏と中世阿蘇氏を頭の中で完全に切り離す必要がある。
古代阿蘇氏ですら、社伝が言うように、さまざまな系譜が加わったことが明白である。
吉見系に限らず、12の神々のほとんどは阿蘇氏に加担した在地の外戚の神である。
国造家は中央派遣の知事である。これは中世武家も同じで、氏が同じだからといって他人である。
そもそも阿蘇国造が「阿蘇神社阿蘇氏」に入るには始祖神を名乗る、あるいはその子神の子孫と言う必要が生じる。
もっと言うならば阿蘇神社阿蘇氏よりももっと古い阿蘇一族がその前に在地にはあったはずである。
それが草部吉見系である。
『古事記』もいわゆるタケイワタツの系譜つまりカムヤイミミとは違う「ヒコヤイミミ」系譜を認めている。
このヒコヤイミミ系譜が熊襲あるいは日下部の系譜であろう。
国造は大和の額田部氏であると見られる。ならば額田の大野にある野津古墳群や大野窟古墳も額田部氏ではないかという件が出てもおかしくない。
このヒコヤイミミ系譜が熊襲あるいは日下部の系譜であろう。
国造は大和の額田部氏であると見られる。ならば額田の大野にある野津古墳群や大野窟古墳も額田部氏ではないかという件が出てもおかしくない。
●多氏
阿蘇氏のどの部分の氏族がでは多氏直系なのだろうか?それはまた別記することになるだろう。
阿蘇氏のどの部分の氏族がでは多氏直系なのだろうか?それはまた別記することになるだろう。
この分析に関連する遺跡・社寺
人吉市青井阿蘇神社
高森町草部吉見神社(日子八井耳命墓陵比定地)
阿蘇市中通古墳群(阿蘇国造氏墓陵推定地→長目塚古墳)
阿蘇市手野阿蘇国造神社
阿蘇市阿蘇神社
上の園古墳群 熊本県阿蘇郡高森町高森上の園・穿戸
熊本県上益城郡山都町伊勢旅草
上益城郡山都町 幣立神宮
城南町 塚原古墳群
人吉市青井阿蘇神社
高森町草部吉見神社(日子八井耳命墓陵比定地)
阿蘇市中通古墳群(阿蘇国造氏墓陵推定地→長目塚古墳)
阿蘇市手野阿蘇国造神社
阿蘇市阿蘇神社
上の園古墳群 熊本県阿蘇郡高森町高森上の園・穿戸
熊本県上益城郡山都町伊勢旅草
上益城郡山都町 幣立神宮
城南町 塚原古墳群
参考
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/asozinnjya.htm
http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/c/0c06dc10955e90b81343d03cf6d803cc
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/suruga/asozinnjya.htm
http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/c/0c06dc10955e90b81343d03cf6d803cc
久留米市の吉見山があり、熊本の御井に高良山がある。
「こうら」=かわら=石灰岩・花崗岩である。
中世阿蘇系譜に三上氏がある。近江の三上山の古墳群には阿蘇ピンク石石棺があり、甲山という。
甲は「こう」で、これも石灰岩か花崗岩であろう。息長氏同族。継体系譜。
オオホド王と
大伴の名に負う靫帯びて 万代に恃み(よろずにたのみ)し心いづくか寄せむ 大伴家持・万葉集
久米部は熊襲
久米部は熊襲
刑部は忍坂媛の名代部。それが葦北では靫負。刑部の靱負部アリシト=葦北国造=あらひと=現人=香春町現人神社=ツヌガアラシト=敦賀国造=秦氏
忍坂媛の兄はオオホド王。その子供は継体大王。今城塚古墳には阿蘇ピンク石が。
額田部媛は推古天皇、その墓にも阿蘇ピンク石。
いよいよ複雑怪奇な阿蘇氏である。
さあ!?あなたならどうする?
阿蘇大観峰から臨む阿蘇連山
とにかく行って見てくることだよ。雄大な阿蘇へ!!