纏向遺跡で大量に出土したことで有名な東海系土器の中で、ベンガラによる彩色をほどこされることの多い
「パレススタイル」土器と言う物がある。
中でもS字状口縁台付甕(北陸地方では「くの字状」とも言う。さまざまの分類があり愛知の八王子遺跡の名をとって八王子古宮式土器とも言う)というパレス式土器の下に小さな台を持つ甕の全国分布から狗奴国が尾張地方にあったと言う説が昨今、愛知県の研究者から出てきている。NHKの歴史番組もこれを取り上げたことで、一躍、邪馬台国所在地問題が紛糾しはじめた。話ではこの甕は九州からも出たと言われているのだが・・・。
◆S字状口縁台付甕(くの字状甕・八王子古宮式など多種存在)分布地一覧
●愛知県濃尾平野一円の遺跡・古墳・方形周溝墓から出土
一宮市朝日遺跡・八王子遺跡・古宮遺跡
清須市廻間遺跡
名古屋市北区中丸町志賀公園遺跡
愛西市鵜廻遺跡など
西尾市
大口町
西上免遺跡
など多数
●愛知県濃尾平野一円の遺跡・古墳・方形周溝墓から出土
一宮市朝日遺跡・八王子遺跡・古宮遺跡
清須市廻間遺跡
名古屋市北区中丸町志賀公園遺跡
愛西市鵜廻遺跡など
西尾市
大口町
西上免遺跡
など多数
●愛知以西の分布地
三重県松阪市阿形遺跡・四日市市・亀山市・鈴鹿市十宮古里遺跡など各所で
岐阜県養老郡養老町橋爪 象鼻山古墳群や本巣市、各務東山遺跡・加佐美山1号古墳などで多数
滋賀県湖南・湖北地域で多数
奈良県桜井市纏向遺跡・秋津遺跡で東海系パレス式土器として多数
京都府向日市など
兵庫県揖斐川沿線
福井県福井市栗森町寄安遺跡など
石川県
富山県富山市今市遺跡
四国・九州・山陰・山陽各県検索ヒット見当たらず
三重県松阪市阿形遺跡・四日市市・亀山市・鈴鹿市十宮古里遺跡など各所で
岐阜県養老郡養老町橋爪 象鼻山古墳群や本巣市、各務東山遺跡・加佐美山1号古墳などで多数
滋賀県湖南・湖北地域で多数
奈良県桜井市纏向遺跡・秋津遺跡で東海系パレス式土器として多数
京都府向日市など
兵庫県揖斐川沿線
福井県福井市栗森町寄安遺跡など
石川県
富山県富山市今市遺跡
四国・九州・山陰・山陽各県検索ヒット見当たらず
●尾張以東の分布地
静岡県伊豆地方狩野川河口部、浜松市引佐町など
長野県松本市弘法山古墳・長野市籠沢遺跡などで多数
山梨県笛吹市宮ノ上遺跡・甲斐銚子塚古墳など一円で多数
栃木県小曽根浅間山遺跡など
群馬県前橋市波志江中宿遺跡・太田市道原遺跡2号方形周溝墓など
茨城県石岡別所遺跡・二の沢AB遺跡など
東京都世田谷区堂ケ谷遺跡・江戸川区上小岩遺跡など
千葉県国分寺台など東京湾沿岸で
埼玉県熊谷市大字東別府字一本木遺跡、東京電力?特別高圧送電線路鉄塔用地内遺跡など
神奈川県相模湾沿岸真間、高座郡寒川町倉見川遺跡など多数
新潟県
九州南部から出ることを期待しながら検索したが、残念ながら今回はヒットしなかった。
尾張様式とされるが、森浩一は『地域学のすすめ』2002のなかで、パレス式土器は熊本球磨地方の免田式土器とともに重要であり、伊勢湾全域=三尾勢(さんびせい=三河・尾張・伊勢地方)全体における尾張氏・海部氏に関わる重要な土器であると書いている。
その分布はごらんのように太平洋側にベルトのように広がり、非常に重要なことは東海系で多い2世紀頃の方形周溝墓→前方後方墳→方墳地帯とのリンク、多孔銅鏃とのリンクを示している。
茨城県の二の沢遺跡の弥生時代の方形周溝墓は前方後方墳への変化を見せている
◆前方後方墳は方形周溝墓から始まる
方形周溝墓は近畿から東海、関東へひろがっており、九州でも熊本県や大分県の大古墳によりそうように出土し、そこの大古墳の被葬者たちの祖先にあたる人々の墓であると推定されている。
弥生時代の方形周溝墓は尾張地方では高塚を持ち、「橋」を持つようになって巨大化してゆく。つまりそこから前方後方墳が出来上がったと考える研究者が関東を中心に多い。このことは数度に渡ってここでも図解している。
その墳墓様式とS字状口縁台付甕とがリンクしている。
◆分類
◆パレス式のベンガラと高師小僧
ベンガラは鉄成分の多い土壌で発生するカツ鉄鉱と言われるものである。これは熊本県の阿蘇地方に多いが、
リモナイトと呼ばれる。ほかにも種類はあるが、尾張三河地方では高師に、カッ鉄鉱を集めるアメーバの多い池があり、地名を取って高師小僧と言われている。
この円形ドーム状の塊は奈良時代には薬とされ、王族の漢方薬でもあった。
パレス式土器に使用されたベンガラが、そういうものから採集されたことは想像に難くないだろう。
◆尾張氏は狗奴国王か?
この問題を解く鍵は記紀の神武東征にある。
神武はなぜ淀川や紀ノ川を遡らずに、わざわざ遠回りの熊野へ行ったのか?にすべてのヒントが集約する。
そこにいたのは尾張氏の先祖である高倉下であり、彼が神武に渡したのは物部氏の神剣だったとある。
紀伊半島熊野を回ればすぐに伊勢湾である。そこは尾張氏・海部氏の本拠地なのである。これはヤマトタケルの熱田訪問や、天武天皇の尾張勢力・海部勢力のそれぞれ援軍とまったく同じ、東海・東国の力をかりるための遠廻りほかなるまい。
熊野も伊勢も尾張勢力の版図だったわけで、これは畿内で同族だった物部氏(ニギハヤヒ・ナガスネヒコ)への裏切りになる。
そうすると神武は日向を出るとき、そこに尾張氏がいることをある程度、塩土翁から聞いていたといえるかもしれない。であるならば尾張氏と海部氏は南九州に行くことがあったのであろう。だから鹿児島や宮崎からもS字状口縁台付甕が出てもおかしくないことになる。
尾張地方には隼人の祭祀廟があり、知多半島には「はず」という地名があって、これは大隈隼人の女族長の名前である「はず」と同じである。
また尾張衣の君(えのきみ)という豪族は、そもそも出自が南九州だったと考えられる。
であるから、南九州の海人族と熊野から尾張地方の海部氏族は同族、あるいは同盟であって、狗奴国の版図を尾張・伊勢にしぼりこまずに、筆者は日本列島の太平洋側の関東までに推定きた。
つまり南日本である。
これが狗奴国の勢力圏ではあるまいか?
邪馬台国は北部九州にあろうが、大和にあろうが、「卑弥呼(狗奴国の襲撃を)以って死す」だったわけであるから、まず畿内に最初の国家を作り始めたのは神武=狗奴国王だったはずであろう。
邪馬台国の重要な氏族であろう和邇氏は天理市から近江湖西地域へ移動している。そもそも卑弥呼が魏に朝貢したのは、それまで深いえにしを持ってきた呉越と、北東部の北魏(燕)が滅びたからである。どちらもが神仙思想=「鬼道」の伝承地なのである。華北はそうではない。背に腹は変えられず手のひらを返したのである。
崇神は3世紀ころのこととして『日本書紀』では、宮中にあったアマテラスと大和大国魂の神を、それぞれ倭国造に命じて放逐し、代わりに大和大物主を急遽祭った。大物主とは出雲の神大国主でもあるが、要するにうらぎられた氏族の神だったに違いない。敗北したから祟る神になった。だから鎮撫せねばならなかった。しかもアマテラスも倭大国魂も、先の王である邪馬台国の太陽と海の神だったのおである。だから入れ替えてしまうのだ。
同族だった尾張と海部に裏切られたのは物部氏である。ところが物部氏が出雲に流された(殺された)のではなく、流されたのはナガスネヒコだけだったのである。ニギハヤヒは帰順し、ナガスネヒコを殺すのである。この先住縄文的な勢力は、やはり海人族である久米か安曇か隼人であろう。なぜなら神武や尾張や海部は球磨族だったからだ。
まず安曇族であろうと思うのは、近江の湖西の安曇川に、鴨一族がいるからである。ここの鴨にオルドス式短剣や鴨稲荷山古墳がある。そして和邇氏と小野氏はそのすぐ南に入っている。敗北者がここに押し込められた。
和邇氏が敗北したと考える理由は、飛鳥時代の聖徳太子が小野妹子を遣使として送ったけれど、国書をなくしたなどと書かれていることから、尾張氏などの葛城系南九州勢力が安曇系氏族を追いやった=狗奴国が邪馬台国に勝利したからにほかなるまい。
また天理市の和邇赤坂から彼らが消えて、燕との1~2世紀でのえにしを思わせる東大寺山古墳中平年号入り鉄剣が出たことも邪馬台国と北魏を関係を十二分に感じさせる。さらに言えば聖徳太子・蘇我派の時代に北魏様式の仏像が入り始め、これがすぐに新羅・百済様式になり、天武以後の白鳳天平時代にまた北魏様式が復活する。これは政権の二転三転を感じさせる。
また椎根津彦子孫である倭国造・倭直の大和神社、アマテラスの笠縫神社のそれぞれ場所移動も起きている。
狗奴国勢力と邪馬台国残存勢力の激しいせめぎあう激動期が継体天皇~磐井の乱~蘇我氏滅亡のあいだに二転三転することと極めてリンクしているのである。
こうしてみると、3世紀、纒向遺跡は邪馬台国の居城であるはずがなくなる。それは狗奴国が勝ち取って新たに建設した狗奴国の水垣の宮であるはずだ。だから東海系パレス式土器が大量に出て、巨大な水路がめぐらせてあり、さらに弧文という葛城・尾張連合のシンボルが出たのである。
あのしるしは、卑弥呼への鎮魂と、祟り神封じ込めの呪符であろう。
ということは当然、箸墓などに卑弥呼をほうむるはずがない。
アマテラス同様、もっと遠くに追いやったはずではあるまいか?
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