全国なか地名の分布(古代律令体制下での地名)
「なか」地名と海人族
「なか」地名と海人族
◆那珂郡(なか・の・こおり、なが・の・こおり)
日本本土最古の「なか」地名は那珂郡(筑前国)福岡県福岡市博多区・那珂(中)川沿線・弥生時代奴国存在・奴の津由来であろう。「な」は難波の「な」である。波が強く航行に難儀する海のそば。
日本本土最古の「なか」地名は那珂郡(筑前国)福岡県福岡市博多区・那珂(中)川沿線・弥生時代奴国存在・奴の津由来であろう。「な」は難波の「な」である。波が強く航行に難儀する海のそば。
海部郷の記録(律令体制下での表記で宗像郡・那珂郡・怡土(いと)郡に相当する)。
安曇族・宗像族の集中する記録上日本本土最古の海人集団発祥地。
壱岐・対馬を中継地として広く大陸と交流した最古の船人であり、貿易者であり、漁師であり、海中に水没する海士たちの日本一の密集地。
安曇、久米、宗像海人族などがいた。しかし管理者としての海部氏族の記録はまだ見つかっていない。3世紀後半の『魏志倭人伝』記述まで遡れる全国まれな地域。「倭人」。「魏志」は女王国の一大率という国際迎賓施設を伊都国に置いていたと書く。つまり倭人伝に描き出される倭人像とは、とりもなおさずまず伊都国、あるいは奴の津を挟んだ西側の奴国の倭人の記事であると推定してよいだろう。その倭人の風俗はまさしく海人族の風習である。
律令下では東の岡県主(おか=おんがの・あがたぬし)と力を二分する伊都県主が管理。これ以外に海の管理者である海部があったはずだが氏族名が記録に残っていない。一時的に勢力を持つ宗像氏が管轄したか?
弥生時代には中川を挟んで西側は甕棺墓地帯、東側は周溝墓地帯であるから奴国と伊都国は種族が違った可能性もある。こうところから見て伊都国と奴国は中川を挟んで隣接していたとも考えられる。
壱岐・対馬を中継地として広く大陸と交流した最古の船人であり、貿易者であり、漁師であり、海中に水没する海士たちの日本一の密集地。
安曇、久米、宗像海人族などがいた。しかし管理者としての海部氏族の記録はまだ見つかっていない。3世紀後半の『魏志倭人伝』記述まで遡れる全国まれな地域。「倭人」。「魏志」は女王国の一大率という国際迎賓施設を伊都国に置いていたと書く。つまり倭人伝に描き出される倭人像とは、とりもなおさずまず伊都国、あるいは奴の津を挟んだ西側の奴国の倭人の記事であると推定してよいだろう。その倭人の風俗はまさしく海人族の風習である。
律令下では東の岡県主(おか=おんがの・あがたぬし)と力を二分する伊都県主が管理。これ以外に海の管理者である海部があったはずだが氏族名が記録に残っていない。一時的に勢力を持つ宗像氏が管轄したか?
弥生時代には中川を挟んで西側は甕棺墓地帯、東側は周溝墓地帯であるから奴国と伊都国は種族が違った可能性もある。こうところから見て伊都国と奴国は中川を挟んで隣接していたとも考えられる。
彼らの派生元を想定するに玄界灘に浮かぶ中継地・壱岐・対馬(魏志の一大國・對馬國)であろうか。日本最古の海人族所在地と見られる。
※※※つまり「なか」地名の震源地は玄界灘である。(更に追求を要す)
「なか」は「なが」と濁るところもあり、表記も「長」「中」「那珂」「那賀」「那加」などと多岐に及ぶ。
◆なか・なが地名と海人族、海部の関係一覧
発信地
●筑前国那珂郡 福岡県旧奴国・伊都国の奴の津=博多湾
発信地
●筑前国那珂郡 福岡県旧奴国・伊都国の奴の津=博多湾
宮崎県佐土原・住吉周辺のみの非常に狭い領域だが南北那珂郡があった。笠沙の岬と都井岬の馬が有名。曽於君の勢力が強い地域なので肩身が狭そうである。持田古墳群近し。米良街道を北上すると西都原古墳。これらの古墳群の中で前方後円墳を持てるとすれば海部か阿多隼人の曽於君しかおるまいか。5~6世紀の古墳群なので、倭五王時代のものである。宮崎県には装飾古墳が少ないので、しかし海人勢力としては弱い。
香川県。旧伊予国で途中から讃岐郡に分離。ここは吉備海部との深い物資交換の歴史あり。目前の瀬戸内に浮かぶ小島を一手に引き受けている郡であるから、まず海人地名。
♪まわれば四国は讃(さん)州なかのこおり 象頭山金昆羅大権現・・・と歌にあるように金毘羅大権現で有名。サンスクリットの海の神クンピーラ由来の信仰。
海郷(大内郡山田郷)が置かれた場所とは違うのが注目点。
♪まわれば四国は讃(さん)州なかのこおり 象頭山金昆羅大権現・・・と歌にあるように金毘羅大権現で有名。サンスクリットの海の神クンピーラ由来の信仰。
海郷(大内郡山田郷)が置かれた場所とは違うのが注目点。
●阿波国那賀郡
地図なし
徳島県南部の高知県に隣接する忌部族(氏ではない)由来地名。唯一海岸部ではなく、山間部で、何か訳あって内陸に隠れたのであろう。隣に土佐物部(ものべ)部落あり。
地図なし
徳島県南部の高知県に隣接する忌部族(氏ではない)由来地名。唯一海岸部ではなく、山間部で、何か訳あって内陸に隠れたのであろう。隣に土佐物部(ものべ)部落あり。
和歌山県。ながぐんと濁る。海部郡・名草郡の奥地。キーワード熊野水軍。粉河寺。皮田。大古墳群多数倭五王時代。紀氏所管であろう。大伴部がいた記事あり。長忌寸意吉麻呂は紀伊国那賀郡を本拠とする長氏の出で、東漢(やまとのあや)系の渡来氏族
直(あたい)から天武11年 ...
直(あたい)から天武11年 ...
大宮の 内まで聞こゆ 網引(あびき)すと 網子(あご)ととのふる 海人(あま)の呼び声(こゑ) (3-238)
名草、海部、ながは海人がいたところということ。
三重県。一時的に伊賀国。名張町と合併。鈴鹿山地国境にあって所属が決めにくかったようだ。
同じく濁る。伊勢海人族。記録に「名賀郡は伊賀国に、度会郡は伊勢国に、それぞれ属す。」とあるから伊賀国だった時代があったようだ。
観阿弥・世阿弥出身地・・・つまり杉の木服部一族(海人系秦部?)のいたところということになろうか。忍者の里。松尾芭蕉。徳川家康の脱出。
同じく濁る。伊勢海人族。記録に「名賀郡は伊賀国に、度会郡は伊勢国に、それぞれ属す。」とあるから伊賀国だった時代があったようだ。
観阿弥・世阿弥出身地・・・つまり杉の木服部一族(海人系秦部?)のいたところということになろうか。忍者の里。松尾芭蕉。徳川家康の脱出。
静岡県伊豆半島西部。中郡、仲郡、那可郡ともいう。大宝元年(701年)から和銅3年(710年)までの間に、仲郡が成立し後に那賀郡。鴨郡、田方郡に隣接。いずれも海人地名である。漁師町。
神奈川県西部、秦野市周辺。寒川神社六摂社のひとつ寒田神社(ヤマトタケル)あり。中世には波多野氏の管理地。「さぶた」はサビから。製鉄地名。
埼玉県本庄市(児玉町秋山、児玉町小平)及び児玉郡美里町(大字広木、駒衣、中里、古郡、甘粕、木部、白石、猪俣、円良田)がここ。ここはさきたま古墳群のオワケの一族か?秋山村があったらしくこれは縄文蝦夷地名だろうか。荒川(旧利根川)最上流で秩父に隣接。船の資材である森に遡上して炭を焼き製鉄し船クギを得ただろうが、途中でオワケ氏族と関係したか?ワカタケル時代にはすでにそこにいただろう。
茨城県。現在「仲郡」ここの息須(おきす)神社に相模の仲郡から来た寒田郎子(さむたの・いらつこ)という地名記録がある。寒田地名は確かに神奈川県西部の秦野市にあるのでそこも記録にはないがかつての仲郡であろう。
日本海側
●石見国那賀郡
地図なし
島根県石見地方中部浜田市周辺。石見国府所在地。海直(あまの・あたい)管理地か?
江の川は唯一中国山地を越える川である。重要。安芸国=広島県と深く関わる。間に出雲を挟んでの敵対なのかどうかは不明。
●石見国那賀郡
地図なし
島根県石見地方中部浜田市周辺。石見国府所在地。海直(あまの・あたい)管理地か?
江の川は唯一中国山地を越える川である。重要。安芸国=広島県と深く関わる。間に出雲を挟んでの敵対なのかどうかは不明。
京都府大宮町・峰山町周辺。丹波道主(のちの丹波国造か)の娘で記録では崇神の妃である竹野姫に関係する。旧たには郡。「たには」は丹波。谷の端か?山が多い。丹後半島。近くの海岸部・岩滝町に太田南遺跡群。紀年銘鏡。となりの竹野町に著名な前方後方墳あり。網野銚子山古墳は間人姫か竹野姫か?
「中」表記には字義通り「真ん中の」意味がある地域もあろうかと思う。1 網野銚子山古墳 竹野郡網野町網野 前方後円墳 中期 198m
2 神 明 山 古 墳 竹野郡丹後町宮 前方後円墳 中期 190m
青龍三年(235年)紀年入り、日本最古の方格規矩四神鏡が著名。青龍は魏の年号ゆえに、ヤマトや九州よりいち早く単独で朝貢していた地方豪族のいたところと理解。近くに天橋立、加悦町、与謝町。宮津市の北部。ここは半島伽耶国由来地名。逃れてきた渡来氏族と見た。筆者長い滞在(峰山半年、宮津半年)の経験あり。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「長」「中」「那珂」「那賀」「那加」は表記の年代別の変遷にすぎず、意味はみな同じであろう。
諸説あり
サンスクリットのナーガ=太陽信仰と関わるヘビ=オロチから。
郡と郡との真ん中に位置するから。
波が荒く難かしい海に面した場所。
奴国の勢力の移動居住地。
など。
諸説あり
サンスクリットのナーガ=太陽信仰と関わるヘビ=オロチから。
郡と郡との真ん中に位置するから。
波が荒く難かしい海に面した場所。
奴国の勢力の移動居住地。
など。
このほかにナガスネヒコ由来で、群馬の仲曽根や大阪の曽根、沖縄の仲宗根などの大元地名などというおもろい説もある。じうれにせよ縄文時代からあった古い地名であろうから、語源を探れば大陸をどこまでもたどれそうな地名。
朝鮮語起源や中国南部の長江文明起源もあるだろうが、遡ればこれらの地名にも必ずまだ大元はあるはずである。手近の類似で決め付けるのは早計な論理。古代はもっと視野を地球規模にする必要がある。
◆なかとなが
濁るところと濁らないところがあり、「なが」と濁る地域には共通項が垣間見言える。濁る濁らないは地方色で、そこにいた民族特性であろう。
熊野、伊勢、武蔵、北関東で濁るようである。
一方濁らない地域はおそらく大陸系(中国・半島)の音訓であろう。
濁るところと濁らないところがあり、「なが」と濁る地域には共通項が垣間見言える。濁る濁らないは地方色で、そこにいた民族特性であろう。
熊野、伊勢、武蔵、北関東で濁るようである。
一方濁らない地域はおそらく大陸系(中国・半島)の音訓であろう。
韓国語で那珂は「ナカー」と発音する、ところが那賀・名賀になると「ギリー」に変化。中は「ジュンあるいはエイ」。仲は「サイ」でばらばらになってしまう。つまり「なか」地名は半島語由来とは見えない。
それが中国語として同じ単語を入れて韓国語変換してみると、またまったく違う音になる。
現代音声ではなにがどこなのかさっぱり難しい。やはり現代語ではまったく比較にならない。
それが中国語として同じ単語を入れて韓国語変換してみると、またまったく違う音になる。
現代音声ではなにがどこなのかさっぱり難しい。やはり現代語ではまったく比較にならない。
「な」の大元表記は「灘」ではないかと思う。
兵庫県灘市は「なだ」と読むが、大分県杵築市奈多は「なた」と発音する。半島系在日の人は「なだ」を、「濁らない!」と怒る人が多い。「なか」も濁らないのは半島海人族の発音だろうか?
兵庫県灘市は「なだ」と読むが、大分県杵築市奈多は「なた」と発音する。半島系在日の人は「なだ」を、「濁らない!」と怒る人が多い。「なか」も濁らないのは半島海人族の発音だろうか?
灘は荒い波を表す文字であろう。
神戸市灘区の対面する海は狭い海峡で波が早い。それでここに来た倭直一族=椎根津日子子孫たちは速水瀬戸と呼んだ。この「はやすなと」というのが神になって「速吸比売」はやすなとひめ として大分県の北海部郡佐賀関半島の突端に祭られているから、両地域は同じ種族の海人族だったと想定できる。ここにはちゃんと椎根津日子神社もある。だからヤマトの古い氏族である倭直・倭国造氏は東九州から来たと想定できる。
神戸市灘区の対面する海は狭い海峡で波が早い。それでここに来た倭直一族=椎根津日子子孫たちは速水瀬戸と呼んだ。この「はやすなと」というのが神になって「速吸比売」はやすなとひめ として大分県の北海部郡佐賀関半島の突端に祭られているから、両地域は同じ種族の海人族だったと想定できる。ここにはちゃんと椎根津日子神社もある。だからヤマトの古い氏族である倭直・倭国造氏は東九州から来たと想定できる。
灘の津が博多湾と大阪湾の古い呼称である。
大阪湾を住之江と呼ぶが和歌の古い表記では「墨の江」となっている。
葦が生い茂りそれがバクテリアを放出し、鉄成分を集めると、当時汽水湖だった河内湖は墨のように黒かったと考えている。大阪府花は葦である。
波が荒くて容易には近づけない湾どが「な」である。それに意味がわからない「か」がつく。
「なた」ならばあら波が多いと理解できるが、「なか」とは?
辞書で調べると
中・・・ナ・カ ナだけで中、カは国の中心部、河川と河川の中間の土地と出た。
大阪湾を住之江と呼ぶが和歌の古い表記では「墨の江」となっている。
葦が生い茂りそれがバクテリアを放出し、鉄成分を集めると、当時汽水湖だった河内湖は墨のように黒かったと考えている。大阪府花は葦である。
波が荒くて容易には近づけない湾どが「な」である。それに意味がわからない「か」がつく。
「なた」ならばあら波が多いと理解できるが、「なか」とは?
辞書で調べると
中・・・ナ・カ ナだけで中、カは国の中心部、河川と河川の中間の土地と出た。
中心部ではそのままであって中で充分事足りる。奈良時代に二文字表記指令が出ている。それでよい文字でそれぞれの土地で勝手に表記は決められた。
河と河の間は普通河内である。河の中流域なら理解できそうだ。しかしほとんどが海岸部にあって海人族地名なら灘のほうがふさわしかろう。まあ、保留にしておくとする。
鴨郡が同時存在する地域多し。これもヒントになりそう。
河と河の間は普通河内である。河の中流域なら理解できそうだ。しかしほとんどが海岸部にあって海人族地名なら灘のほうがふさわしかろう。まあ、保留にしておくとする。
鴨郡が同時存在する地域多し。これもヒントになりそう。
2011年9月14日記事から転載http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54129025.html